【倭語のかんじⅠ 漢委奴国王】

3世紀以前の日本には文字がなく、日本の歴史をたどるには、中国の歴史書による情報しかない。
その魏志倭人伝」によると、30国ほどの小国が乱立していたことが記されている。

すなわち、239年(神功皇后摂政39年)卑弥呼が魏に遣使を送っており、この頃より正式に国交が行われていたのだ。
つまり、倭語だけでなく、交渉できるほどの『かんじ能力』を身に着けていたことになる。

ところが、57年(第11代垂仁天皇86年)には、
倭の奴国王、洪武帝より金印(漢委奴国王)を授与されるとあり、すでに文化交流がなされていた。
285年(第15代応神天皇16年)中国から漢字が伝来という以前に、漢字は倭国に浸透しており、倭語もまた、モノと音で『かんじ状態』になっていたろうと思われる。

  【倭語のかんじⅡ 稲作とかんじ】
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬(『後漢書』「巻85東夷列伝」)

これが金印だというのだが、すなわち1世紀半ばには【後漢】の外臣として、奉貢朝賀していたことになる。
ところで漢字は、今から3500年ほど昔に作られたものだが、それ以前に稲作が行われていたのである。

つまり、中国の稲作民族は、騎馬民族により滅ぼされ、逃れて日本にやってきたことのより、稲作文化が伝えられたのだ。
このころには、焼き畑による陸稲栽培がおこなわれていたと思われるが、漢字文化もそのころ伝わったかどうかはわからない。

しかし、初代神武天皇以前、紀元前1000年前の弥生時代には、水田稲作も始まり、第11代垂仁天皇の時代には、今の青森県あたりまで稲が作られていたのだ。
つまり、あの金印の時代には、倭語かんじは立派に文化交流の働きをしていたように思える。

 

 【倭語のかんじⅢ 古代中国・朝鮮の難民たち】
弥生時代にはまた、青銅器と鉄器がほぼ同時に持ち込まれ、製品は靭性(じんせい)の問題から鋳造品は少なく、農工具や武具は鍛造(たんぞう)品が中心でした。
そして、銅鐸・銅剣 ・銅矛及び銅鏡といった青銅器の鋳造技術が弥生時代中期には確立されていたようだが、武器と言うより儀式や埋葬時の副葬品として用いられていた。

というのも、おそらくこの時代、つまり秦(紀元前905-206)の時代から漢(紀元前206-西暦220)の時代に入り、故国を追われた人たちの多くが、古代朝鮮に逃れたのであろう。
ここから製鉄技術によって、武器や実用道具は性能に優れた鉄器にとって代わるのだが、それは中国系難民たちから鋳造鉄器が持ち込まれ、紀元前2世紀以降には、北部九州における鉄器使用が盛んになり、倭国のあちこちに領土を持つ集簇が存在したのだ。

その時代を、『日本書紀』に照らし合わすと、第6代孝安(紀元前392-291在位)・第7代孝霊(紀元前290-215在位)・第8代孝元(紀元前214-159在位)・第9代開化(紀元前158-98在位)の欠史八代の時期である。
とりわけ、秦の始皇帝(紀元前259-210)の時代終わり、箕子朝鮮(?-紀元前194)・衛氏朝鮮(紀元前195-104)の時代を経るも、その古代朝鮮もやがて前漢に滅ぼされることで、国を失った中国(秦)系や朝鮮系の難民たちは倭国に流れ込み、まさに倭語が中国漢字・朝鮮漢字に顕されて倭語のかんじも広がったのだ。

 【倭語かんじⅣ 渡来人】
第10代崇神(紀元前97-30在位)の時代、例えば前86年、戸口を調査して初めて課役を科した(前86年)ことで、崇神は御筆國(はつくにしらす)天皇と称えられ、前33年には「任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也」(任那國がソナカシチを遣わして朝貢してきた)という。
また第11代垂仁(紀元前29-西暦70在位)の時代には、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝(前27年)しており、さらに垂仁の皇子:五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ:第12代景行天皇の同母兄)において、池をはじめ多くの池溝(ちこう)を開かせて農業を盛んにし(西暦6年)、剣千振を造り石上神宮に納めているのだ(西暦10年)。

ただ、垂仁86年(西暦57年)には、例の金印が光武帝(紀元前5生-西暦57没)より倭国に授与されているのだが、【漢委奴國王】の委ねた奴國王は垂仁ではなかったかもしれない。
つまり、当時の古代日本には、難民としての中国系部族や朝鮮系部族がおり、それを統括していたのが、倭(わ)国と倭(やまと)国であったが、ほかに領土を持った豪族たちもおり、この崇神・垂仁の時代になって、やっと大和朝廷の国づくりが始まったのだ。

ただし、難民たちのその技術と知識は、倭國にしても大和であったにしても、国づくりのためには必要であり、もはや渡来人として受け入れられ、中国系は倭国と結び、朝鮮系は大和国との結びつきが深まっていったように思われる。
その朝鮮系には秦國系の世代を経た人達もおり、主に百済系だと思うのだが呉音の漢字で、中国系は漢音の漢字を用い、倭語のかんじも渡来人によって公文書化され実用化されていったのである。
 【倭語かんじⅤ 帰化人】
第12代 景行(西暦71-130)の時代には、武内宿祢(84-?)が登場し、ヤマトタケルの活躍があり、第13代成務(131-190在位)・第14代仲哀(192-200在位)、そして神功(201-269摂政)の時代に入るのだ。
しかも、そのあと宿祢は、第15代応神(270-310在位)・第16代仁徳(313-399在位)にも仕えており、その間、応神16年(285年)は中国から漢字が伝来し、仁徳79年(391年)任那に日本府が設立されるのだが、史実?だとすれば、宿祢は300年を超えてしまう。

宿祢の時代が何世代続いたかわからないが、時代が3世紀以上にもなれば、渡来人たちは帰化人となり、すでにりっぱな倭人となって、朝廷に仕える重要な人物になっており、その筆頭が蘇我氏だと思っていたら、その祖は武内宿祢だといい、ほかにも中央有力豪族の紀氏・巨勢氏・平群氏、そして葛城氏と並んでいるのだ。
おそらくこれは、宿祢のプロジェクトとして、素性を問わず才能のある帰化人たちを用いたものであり、その300年の間に、もはや呉音・漢音も混じっていれば、倭人みずから倭語かんじも創ることができ、すなわち国字も次から次へと生み出されていったのである。

まさに、言葉としての倭語が、文書としての漢字になり、古代中国および古代朝鮮との交流を通じて、倭の五王の時代には倭語漢字が成立していたのだ。
やがて仏教が伝来(538年)し、漢詩文学なども持ち込まれ、五言絶句・律詩や七言絶句・律詩などにより、倭語の感情も記紀歌謡として表現され、五七調にならなかったり、記録されなかった部分もあったろうが、一方では編纂され、詠み人知らず?として、『万葉集』にまとめられたのである。