記紀歌謡の好古座談

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に日本最古の歴史書であるとされ、その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立するー上中下の3巻で、内容は天地開闢から推古天皇の記事は紀伝体である。

『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ、やまとふみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書で、養老4年(720年)に完成したと伝わり、日本に伝存する最古の正史で、六国史(りっこくし)の第一にあたるー神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述され、全30巻。

『古事記』は、歴史書であると共に、文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に、日本の宗教文化や精神文化に多大な影響を与えているが、朝廷においては、参考文献の域を出なかった。

『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られており、文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。

 

『古事記』本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記とし、歌謡も含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっており、また一字一音表記のうち、一部の神名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声(じょうしょう)と去声(きょしょう)を配している。

『日本書紀』全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており、また特定の語意については、訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所(倭習)があり、伝統的に純漢文(正格漢文)の史書として扱われる場合が多いが、本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を持つ。

スサノオノミコト

『古事記』は、出雲神話を重視しているとみなされているが、『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神・月読命に次いで、鼻を濯(すす)いだときに産まれたスサノオは、海原を治めることになった。

『日本書紀』では、伊弉諾尊とイザナミ (伊弉冉尊・伊邪那美命)の間に産まれ、天照大神・ツクヨミ(月読)・ヒルコ(蛭児)の次に当たるのだが、「お前は大変無道である。だから天下を治めることができないので、遠い根の国に行きなさい」と追放され、ここから記紀ともに、出雲の蘇秦としてのスサノオが登場するのである。 記紀によって、我が国最初の歌謡がなされ、ここから、「八雲」は出雲を象徴する言葉となり、「八雲立つ」は出雲に掛かる枕詞とされた。

 

やくも‐たつ【八雲立つ】:[枕]雲が盛んに立ちのぼる意から、「出雲 (いづも) 」にかかるとしているが、出雲と名付けるに至った歴史的経緯については一切の記載が無いのだが、この律令以前の古代出雲国の影響力は、日本神話の各所に見られる。

日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流であるが、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。

 

しかも極端な話、スサノオの子である大国主神は、須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させるのである。

つまり、『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山(三輪山)の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。

カンヤマトイワレビコ 古事記

宇陀には、兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の二人がおり、 そこでまず八咫烏(やたがらす)を遣わして、二人に尋ねさせた。

「今、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)がお出でになったが、あなたたちはお仕え申しあげるか」

兄宇迦斯は、鳴鏑(なりかぶら)の矢でその八咫烏を待ち受けて、射て追い返し、弟宇迦斯は、伊波礼毘古(いわれびこ)をお迎えにゆき、拝礼して恭順を示したー兄宇迦斯は自分の作った押罠に打たれて死んでしまった。

 

そこから進み、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)にお着きになったとき、尾の生えた土雲(つちぐも)という大勢の強者:八十建(やそたける)が、その岩屋の中で待ち受けて、唸り声をあげていた。

そこで天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)の命令で、御馳走を大勢の強者にふるまい、 このとき、多くの強者に当てて、多くの料理人を用意し、一人一人に太刀を佩(は)かせ、「合図が聞こえたら、一斉に斬りつけよ」と指示した。

 

こうして勝ち進み、「数珠つなぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ」、「我々は、敵から受けた痛手を忘れず、敵を撃ち取ってしまうぞ」と勢いづいていく。

そしてついに、「敵のまわりを這い回って、撃ち滅ぼしてしまうぞ」とばかり、東征は突き進んでいくのである。

カムヤマトイワレビコ 日本書紀

、 宇陀の郡(こおり)の、人たちの頭領である、兄猾(エウカシ)と弟猾(オトカシ)を呼んだところ、兄猾はこれに応じなかったが、弟猾はやってきた。 兄猾は天を欺いた(暗殺計画)ために、言い逃れすることもできず、自らの仕掛けに落ちて圧死したが、弟猾は、沢山の肉と酒とを用意して、皇軍を労い、もてなした。

 

天皇は宇陀の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められ、国見丘(くにみのおか)の上に、八十梟帥(ヤソタケル)がいた。

女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)を置き、男坂(おさか)には男軍(おのいくさ)を置き、墨坂(すみさか)にはおこし炭を置いていた。

 

弟猾が申し上げたことが、「倭の国の磯城邑(しきのむら)に、磯城の八十梟帥(ヤソタケル)がおり、また葛城邑(かずらきむら)には、赤銅(あかがね)の八十梟帥がおり、この者たちは皆、天皇にそむき、戦おうとしています」

天皇は厳瓮(いつへ)の供物を召上がられ、兵を整えて出かけられて、まず八十梟帥を国見丘に撃って斬られ、これからの戦いに、天皇は必ず勝つと思われ、「必ず敵を討ち負かしてしまおう」と歌われた。

 

この後に、兄磯城(エシキ)は怒り、「天つ神(あまつかみ)が来たと聞いて憤っている時に、なぜ烏がこんなに悪く鳴くのか」と言い、弓を構えて射た。

弟磯城(オトシキ)はかしこまって、「手前は天つ神が来られたと聞いて、朝夕、畏れかしこまっていました」というエピソードがあり、歌謡に入る。

倭建命と出雲振根

『古事記 景行記』に、倭健(やまとたける)は、出雲国(いずものくに)に入って、その首長である出雲建(いずもたける)を討ち殺すことになり、到着するとすぐに親しい友情を交わされた。

その少し前に、熊曾征伐があり、「おまえたち熊曾建(くまそたける)の二人が、朝廷に服従しないで無礼だと天皇がお聞きになって、おまえたちを討ち取れと仰せられ、私をお遣わしになったのだ」と明かしてる。

 

「西の方には我ら二人を除いては、猛く強い者はおりません。ところが大和国(やまとのくに)からは、我ら二人に勝って猛く強い男子が現れたのです。私はお名前を奉りましょう。今後は倭建命(みこと)と称えて申しましょう」

ここから日本史上最高の英雄ヤマトタケルが誕生したのだが、何故かこの事績を、ヤマトタケルから奪い、『日本書紀 崇神紀』では、骨肉の争いに姿を変えて、兄が弟をだまし討ちにし、朝廷が振根を討つのである。

 

崇神天皇は、群臣(くんしん)に詔(みことのり)して、「武日照命(タケヒナテルノミコト)の、天から持ってこられた神宝を、出雲大神(いずものおおかみ)の宮に収めてあるのだが、これを見たい」と言われた。

出雲臣(いずものおみ)の先祖の出雲振根(イズモフルネ)が神宝を管理していたが、筑紫の国に行っていたの会うことができず、その弟の飯入根(イイイリネ)が皇命を承ったところから、『日本書紀』の歌謡が起こる。

おほさざきのみことⅠ 髪長姫

迦具波斯(かぐはし)波那多知婆那波(はなたちばな)本都延波(ほつえは)登理韋賀良斯(とりはいかれし)志豆延波(しづえは)比登登理賀良斯(ひととりからし)美都具理能(みつぐりの)那迦都延能(なかつえは)本都毛理(ほつけり)阿加良袁登賣袁(あからおとめを)伊邪佐佐婆(いなささば)余良斯那(よろしな)

「香りのよい花橘(はなたちばな)は、上の枝は鳥がとまって枯らし、下の枝は人が折り取って枯らし、中ほどの枝に蕾(つぼみ)のまま残っている、その蕾のような、赤くつややかな少女を、さあ、自分の妻としたらよかろう」『古事記43』

 

伽遇破志(力グハシ)波那多智麼那(ハナタチバナ)辭豆曳羅波(シツエラハ)比等未那等利(ヒ卜ミナトリ)保菟曳波(ホツエハ)等利委餓羅辭(トリヰ力ラシ)瀰菟遇利能(ミツクリノ)那伽菟曳能(ナカツエノ)府保語茂利(フホコモリ)阿伽例蘆塢等咩(アガレルヲトメ) 伊奘佐伽麼曳那(イザサカバエナ)

「よい香りの花橘(はなたちばな)が咲いています。その下枝の花は人が皆取り、上枝は鳥がきて散らしましたが、中の枝のこれから咲く美しい赤味を含んだ、花のような美しい女がいます。さあ、花咲くといいですね」『日本書紀歌謡35』

 

『グリム童話』に「ラプンツェル」の話があり、髪長姫と訳されたりしているが、やっと子供を授かり、妊娠したおかみさんのために、魔法使いの庭の畑のラプンツェルを盗んで食べたことから物語が始まる。

つまり、子供が生まれたら自分に渡せと約束させられ、生まれた女の子は即座に連れて行かれ、ラプンツェルと名付けられて高い塔に閉じ込められるのだが、髪の長い美しい少女に成長したラプンツェルは、森の中を歩いていた王子と出会うのである。

おほさざきのみことⅡ 応神と仁徳

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇で、第14代仲哀天皇の第四皇子であり、母は神功皇后(気長足姫尊:おきながたらしひめ)である。

応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除され、摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子となり、母が崩御した翌年に即位。

 

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得たが、十三年春三月、天皇は専使(たくめつかい)を遣わして、髪長媛(カミナガヒメ)を召されるのである。

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇で、その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称された。

 

『古事記』と違って、『日本書紀』は、歴史性を重んじているのであるが、初代神武天皇から第25代武烈天皇までの実在性については、諸説ある。

第二次世界大戦後の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。

 

しかしながら現代でも神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇が特に研究対象として重視されているのだ。

記紀歌謡の解明が、その一端を担うかどうかはわからないが、二人の天皇を見る限り、『日本書紀』は、仁徳天皇にその重きを置いているように思える。 

大山守皇子と菟道稚郎子

応神天皇は、大山守(おおやまもり)と大雀(おおさざき)とに尋ねて、「お前たちは年上の子と年下の子と、どちらがかわいいか」と言った。

天皇がこの問を発せられた理由は、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)に天下を治めさせようとの考えがあったからである。『古事記』

 

四十年春一月八日、天皇は大山守命(オオヤマモリノミコト)と大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)を呼んで尋ねられたー「お前達は自分の子供は可愛いか」「大変可愛いです」

さらに尋ねて、「大きくなったのと、小さいときではどっちが可愛いか」

大山守命は、「大きくなった方が良いです」と答えたところ、天皇は喜ばれないご様子。

大鷦鷯尊は、天皇のお心を察して申し上げられるのに、「大きくなった方は、年を重ねて一人前となっているので、もう不安がありません。ただ、若い方はそれが一人前となれるか、なれないかも分らないので、若い方は可愛そうです」と言われた。『日本書紀』

 

こうして、この歌謡が始まり、応神天皇40年1月、菟道稚郎子の立太子の際、大山守は山川林野の管掌を任されたが、兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んでいた。

一方の大鷦鷯尊は、太子の補佐として国事を任せられることになり、いわば補佐役であり、後事を託されていたのである。 

宇治天皇と仁徳天皇

ところが大雀(おおさざき)と宇遅能和紀(うじのわき)が、天皇の御位を互いに譲り合っておられた間に、海人(あま)が御食料として鮮魚を献上したところ、兄の大雀はこれを辞退して、弟の宇遅能和紀に献上させたが、弟はこれを辞退して、兄に献上させた。

こうして互いに譲り合っておられた間に、多くの日数が経ち、このように互いに譲り合われることが、一度や二度ではなかったので、海人は行ったり来たりですっかり疲れて、泣き出してしまった。『古事記 応神』

 

「先帝も『皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ』とおっしゃり、それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられ、天皇の嗣(よつぎ)に、万民は寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるようにされ、私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましようか」『日本書紀 仁徳』

大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)は胸を打ち泣き叫んで、為すすべを知らぬ様子で、髪を解き、屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度呼ばれると、俄かに生き返られたので、大鷦鷯尊オオサザキノミコトは太子に言ったー「悲しいことよ、惜しいことよ。一体何で自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」『日本書紀 仁徳』

 

そのヒントが『日本書紀 応神』に、すなわち、「十六年春二月、王仁(ワニ)がきた。 太子の菟道稚郎子(イラツコ)はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれ、全てによく通達していた」

一方『日本書紀 仁徳』には、「天皇は幼い時から聡明で、叙智であらせられ、容貌が美しく、壮年に至ると、心広く慈悲深くいらっしゃった」と記されている。