懐風藻録

『懐風藻』は、現存する最古の日本漢詩集ではあるが、撰者不明の序文によると、天平勝宝3年11月(ユリウス暦751年12月10日 - 752年1月8日のどこか)に完成し、編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力であり、また他に石上宅嗣(729-781)、藤原刷雄(よしお)、等が擬されているが確証はない。

 近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されるも、作品のほとんどは五言詩で、七言はわずか7首であり、 七言のなかに聯句が1首あるも、 五言のうち最多は八句の詩であり、四句がこれについで、十二句もまじっている。

 

作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶などで、作風は中国大陸、ことに浮華(ふか)な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めており、古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家への歩みが反映されており、『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促したという。

なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等(659-720)の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、『懐風藻』には作品がないのだが、大伴家持の「族をさとす歌」(万4465)は、天平勝宝8歳に、淡海三船と大伴古慈悲(695-777)が調停を非難し拘禁された時に詠まれたという。

 

序文の最後に「余撰此文意者、為将不忘先哲遺風、故以懐風名之云爾」(私がこの漢詩集を撰んだ意図は、先哲の遺風を忘れないためであるので、懐風とこの書を命名した)とあり、先行する大詩人たちの遺「風」を「懐」かしむ詞「藻」集であることがわかるのだが、この題を『懐風藻録』としているのは、実は漢皇子からたどる道である。

以下の8名については、特に撰者からの伝記が付け加えられており、 淡海朝皇太子(大友皇子、弘文天皇)2首 ・浄大参河島皇子1首 ・大津皇子4首 ・僧正呉学生智蔵師2首 ・正四位上式部卿葛野王2首・ 唐学士弁正法師2首 ・律師大唐学生道慈師2首 ・従三位中納言兼中務卿石上朝臣乙麻呂4首 とあるが、このうち選出されるのは2名である。

漢皇子と大海人皇子

序で、漢皇子からたどると言ったけれど、ところがその母は宝皇女であり、父は高向王なのであるが、この父こそ高向玄理であり、その漢皇子が大海人皇子なのだ。

 

大海皇子と額田王

大海人皇子と額田王は、宝皇女を介してのことだったかもしれないが、やがて師弟関係になり、玄理の客死が、二人を結び付けることになる。

 

額田王と斉明天皇

宝皇女(斉明)は、皇孫の建王が8歳で薨去し、天皇は甚だ哀しんだであろうが、額田母子に慰められたであろう。

 

天智父子と額田母子

近江京への遷都とともに、十市皇女と大友皇子が結びつくのだが、皇女の顔が見えないので、ここでは井戸王の歌を皇女作と解釈したのだが・・・。

 

大友皇子とその周辺

『懐風藻』の最初を飾る、悲劇の淡海朝大友皇子の漢詩二首あり、その人となりと周辺の出来事を記す。

壬申の乱

天智天皇の挽歌とともに始まった、歴史的な戦も、あっけなく大海人皇子の勝利に終わり、そのドラマを人麻呂の歌に託している。

 

十市皇女

やはりここは、挽歌を歌った高市の三首に、額田王・大海人皇子、そして高市本人の歌をあてがっている。

 

鏡姫王と鏡王女(額田王)

この二人を区別し、姫王が鎌足の妻であり、王女は額田王だとしているのだが、この額田が稗田阿礼の正体でもある。

 

中臣(藤原)大嶋

『古事記』『日本書紀』を託した大海人皇子は崩御されたが、その一因となったのが大嶋であり、合わせて『懐風藻』から大嶋の漢詩二首を載せる。

 

高市皇子

人麻呂による、「高市皇子の挽歌」の後半部分なのだが、彼はまた、長屋王の父でもあり、やがて不幸な事件が起きる。

葛野王

彼が大友と土市の子どもであり、額田の孫にあたるのだが、『懐風藻』にも漢詩二首が記される。

 

文武、元明・元正

文武天皇の漢詩三首で、文武の心情を計り、時代は元明・元正へとつながれ、母娘の二代天皇から父娘の二代天野の時代へと移る。

 

古事記と日本書紀

太安万侶と稗田阿礼(額田王)、そして大嶋と人麻呂が、かろうじて『邪馬台国』が歴史書には欠かせないことを知らしめたものと思われる。

 

長屋王と池辺王

高市の子長屋王が不幸な事件だとしたら、三船の父池辺王の才能も開花することなく閉ざされたのであろう。

 

高野天皇と道鏡

朝廷を揺るがすような事件が起きたわけだけども、高野にしてみれば、仏教に帰依したことによって、ある意味、道が啓けたのかもしれない。

経国集(三船と宅嗣)

『経国集』には、三船の漢詩全5首の3首と、宅嗣の1首は、高野に悔悟と改悟を促しているように思える。

 

淡海三船と漢風諡号

淡海三船(おうみの みふね)は、 初代神武(じんむ)天皇から第44代元正(げんしょう)天皇までを一括撰定した。

 

三船『唐大和上東征伝』

『経国集』三船の2首、『東征伝』から三船2首・宅嗣、そして藤原刷雄の漢詩を載せてはいるが、それぞれの人生を問うものかもしれないが、家系を繋いでみたかった。