【記紀の序奏Ⅰ 稗田阿礼】

 古事記の序文抜粋だが、「時有(そこにたまたまいたのが)、舍人(とねりの)、姓ハ稗田(ひえだ)、名ハ阿禮(あれ)、年是廿八、爲人聰明(その人は聡明で)、度目(一通り目を通すだけで)誦口(音訓のことばになおし)、拂耳(意味の分かる言葉で)勒心(心にとどめてしまうのだ)。
卽(そのようなわけで)、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭(膨大な帝紀・旧辞の資料をしっかり読み込み、全体像を把握しておくよう命じられました)
」とある。

実は太安万侶(?-723)が記した、【舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八】が大きな疑問を残している。
天武(?-686)時代の舎人は、まだ有力な貴族につながる者たちが仕えていたと思うが、名をとどめているのはこの序文だけで、その後の行方が分からないのだ。

太安万侶が出世街道を走っているのに、稗田阿礼(生没年不詳)が消えてしまったのは、元明天皇(661-721)ですら、名が憚れるようなお方なのである。
しかも28歳とわざわざ年齢を記録したのは、この時たまたまというべきか、安万侶も同じ年齢であったのである。

そのように考えると稗田阿礼は、音・訓を使い分けて、万葉仮名を用いて朗々と歌いあげた、あの万葉歌人額田王(生没年不詳)しかありえないのだ。
それにしても、和銅四年(711年)九月十八日に詔を下し、太安万侶が古事記全三巻を編纂し、元明天皇に献上されたのが、和銅5年(712年)正月二十八日なんて、めちゃめちゃ早すぎるよなぁ。

 

  【記紀の序奏Ⅱ 国内向と国外向】
『古事記』は、国内に向けて天皇家による支配の正当化を、アピールするために書かれた歴史書で、天皇は神様の子孫であり、尊い存在であり、その天皇が日本を治めるのだ!ということを、「日本人向け」に書いたものだという。
しかも、日本語の音に漢字を当てはめて使う「万葉かな」が使われていて、当時の中国人が読んでも理解できない文章ということで、額田王だけでなく、当時の万葉歌人たちが、その中心にいたようにも思えるのである。

いっぽう『日本書紀」は、「国家」としての日本を、周りの国にアピールするため書かれた「外国向け」の公式的な歴史書で、使われている言葉は当時の国際語であった漢文(中国語)で、中国人に向けたものなのだ。
中国の歴史書を参考にしたため、中国や朝鮮半島の文献も多く引用されているが、天地のはじまりから書かれた古事記は、神話の時代から推古天皇(第33代)の時代までが記されている。

全部で30巻と系図1巻という膨大な量の「日本書紀」は、中国や朝鮮の書物なども参考して約40年かけてまとめられ、古事記と同じく、書き出しは天地のはじまりで、神話の時代から持統天皇(第41代)の時代までが記されているんよ。
つまり天武10年、天皇は12人に詔を下しているのだが、彼らを中心に、『懐風藻』に代表される、学識ある漢詩人たちや、留学僧および学生たち、そして渡来人を含む帰化人たちも参加したであろうと思うのである。

- 古事記→日本語本来の音を漢字で表現
- 日本書紀→名前の持つ意味で漢字を表現
【記紀の序奏Ⅲ 歌人と詩人】
『日本書紀 天武十年(681)』には、 「天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王(おおきみ)・竹田王・桑田王・三野(みのの)王、大錦下の上毛野君三千、小錦中の忌部連首(いんべのむらじおびと)、小錦下の阿曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)、難波連大形(なにわのむらじおおかた)、大山上の中臣連(なかとみのむらじ)大嶋、大山下の平群臣子首(へぐりのおみこびと)に詔りして、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた」とある。

以上が書紀に関連づいた12名であったと思うが、ほとんどが成立の720年にはなくなっており、かろうじて広瀬王(?-722)のみであり、三野王(?-708)も早く亡くなっているのだが、その子が橘諸兄(684-757)なのだ。
さらに、中臣大島(?-693)は、飛鳥時代貴族漢詩人で、その夫人が「比売朝臣額田」(ひめのあそみぬかだ)だとしたら、再婚した額田王につながっているかもしれない。

『続日本紀 養老4年(720)』には、「以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」とある。

たとえ舎人親王(676-735)が加わったにしてもそれだけじゃ人材が足りないだろうし、稗田阿礼(額田王)はかなり高齢だと思うので別にして、太安万侶はフォローしていたに違いない。
ここにまた、和銅7年(714)紀清人(?-753)と三宅藤麻呂(生没年不詳)藤麿が国史に関わったことが記されている。

額田王が登場したから言うのではないが、万葉歌人を挙げれば柿本人麻呂(660?-724)・大伴旅人(665-731)・山上憶良(660?-733?)などがそうである。
『懐風藻』においては長屋王(?-729)、漢詩4編を残す石上 乙麻呂(いそのかみ の おとまろ:?-750)もその一人かもしれないし、まったく関係ないかもしれないが、淡海三船(おうみのみふね)の父親である池辺王(生没年不詳)も加わっていたように思う。
 【記紀の序奏Ⅳ 渡来人と帰化人】
大陸との往来は、弥生時代以前からもつねにあったにちがいないが、それが急に盛んになったのは、応神朝のころ、すなわち4世紀末から5世紀初頭にかけての時期と思われる。
これに対して5世紀後半に入ったころから、中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになり、また〈倭の五王〉の南朝通好に伴って中国から直接に渡来する人、さらに6世紀中ごろ以後になると高句麗との関係が好転したために、北朝系統の文化を持った高句麗人などもそれに加わるようになった。


ヤマト王権に仕えた渡来人としては、秦氏・東漢氏・西文氏 が代表的であり、彼らが古代日本を形成したと言えるのである。
特に秦氏においては、聖徳太子時代の秦河勝に代表されるだけでなく、この後裔たちは、中央での活躍と共に、尾張・美濃や備中・筑前に至るまで、全国規模で勢力を伸ばしてるのだ。

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は、飛鳥の桧隈(ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和政権のおひざ元もとで文書記録・外交・財政などを担当し、また百済から渡来した錦織(にしごり)・鞍作(くらつくり)・金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。
西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、古事記・日本書紀にあるように、日本に文字をもたらしたとされ、河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていたのだ。

このあらましだけでも、記紀のサポートに加わったことは想像に難くないが、天武天皇が684年(天武13)に、八色の姓(やくさのかばね)を新たに制定しており、もはや三世代も経ていれば、その姓を授けられたりもし、帰化人としての区別はできないかもしれないが・・・。
ところがここにきて『日本書紀』は、伝統的に純漢文(正格漢文)の史書として扱われる場合が多いが、特定の語意については訓注により日本語(和語)で読むことが指定されている箇所があり、その本文はまさに変格漢文(和化漢文)でもあったのだ。

  【記紀の序奏Ⅴ 遣唐使】
第八次遣唐使(702年)の、最高責任者である遣唐執節使に任命されたのが、粟田真人(?-719)であり、その一行には、山上憶良(660?-733?)や道慈(?-744)らも加わっている。
しかもこの真人、第二次遣唐使(653年)にも学問僧:道観として同行しており、日本に帰国後は還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下(後の従五位下に相当)に叙せられたのである。

さらに持統朝(在位:690-697)では、大宰大弐として外国からの賓客を饗応する経験を積んでおり、そして今回、自ら編纂に加わった大宝律令(701年)を携えての渡航であったが、この時、唐は存在しておらず、武則天(則天武后)が新たに建てた武周であったのだ。
この時真人は、唐人からは「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評され、武則天からも官名をもらうほど行為を寄せられており、704年に彼らは帰国するのだが、入唐(武周)で得た知識(則天文字?)を活かして実情に即した制度の修正を次から次へとおこなったと思われる。

おそらく真人は自信を持ったに違いなく、文化交流においても、呉音・漢音漢字だけじゃなく、倭音漢字を以て堂々と交渉を始め、そのことが『記紀』において、同族のよしみで引き立てられた憶良に受け継がれたのだ。
なお、同行していた道慈は、俗姓は額田氏であり、額田王とつながりがあるかどうかはわからないが、唐が復活した705年にはまだ滞在して目の当たりにしており、10年以上も経った718年に帰国した道慈は、『日本書紀』の編纂にも関与したというのだが、この時憶良は、霊亀2年(716年) 4月27日には伯耆守として鳥取に赴任していたため、意見を交わしたかどうかわからない。