中之島公園

明治24年(1891年)、大阪市で初めて誕生した公園が中之島公園で、 堂島川と土佐掘川にはさまれた延長約1.5km、面積11.3haの緑あふれる都心のオアシスである。

川の流れと中央公会堂、府立中之島図書館などの重厚な建築物が緑に映え、美しい景観を見せており、 また、淀屋橋から西へ、肥後橋まで延長400mの中之島緑道は、ケヤキ、ツバキ、ツツジなどの緑とともに、表情豊かな10体の彫刻が設置され、心やすらぐ遊歩道となっています。

いっぽう東側は、難波橋と阪神高速1号環状線の間にはバラの花壇が設けられ、春や秋の楽しみなのだが、南北方向には水路が流れており、東西に「ばらぞの橋」が架かっている。

また、天神橋より突き出た東端部は、大川を堂島川と土佐堀川に分けて尖っていることから「剣先」と呼ばれ、先端には安藤忠雄の構想による噴水が設置されている。  

こども本の森 中之島』(2020年開館)は、安藤忠雄より大阪市に寄贈された文化施設である。

 

安藤忠雄氏からのメッセージ: 〈こども本の森 中之島〉は、その中之島に新たに誕生した、子どもが本と出会い、本を楽しみ、本に学ぶ施設です。

設計にあたっては、そのすぐれた場所の個性を十二分に活かすこと、そして、子どもが主役の施設であることを第一に考えました。

 

建物外観は、堂島川に沿って弓なりに伸びる形で、東端は、エントランス・ポーチと連続する水際のテラスになっています。

ポーチを覆うゲートが、南北の風景をつなぎます。建物内部は、全面本棚の壁で囲われた三層吹き抜けの空間で、その中を階段、ブリッジ通路が立体迷路のように巡ります。

その「迷路」を進んでいくと、本の壁のすき間から堂島川の風景が目に飛び込んできたり、吹き抜けを見下ろす飛び込み台のような謎のスペースが現れたり、井戸の底のような空間に行き当たったりします。

その全てが、子どものための閲覧室です。気になる本が見つかったら、階段でもどこでも好きな場所で読み始めて構いません。

天気が良ければ、外に出て、水際テラスで本を開くのもいいでしょう。建物を中心とする中之島広場一帯が、子どもが自由に読書を楽しめる「本の森」なのです。

 

【ご利用方法】

「こども本の森 中之島」への入館は、 平日・土日祝にかかわらず、当面の間、事前予約システムによる入館制限(各回定員100名・完全入れ替え制)を実施します。(100名に加えご予約なしで各回先着50名様お入りいただけます。イベント開催時は予約なしの入館はできませんのでご注意ください)

父と兄の高成は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。

 

この『木邨長門守重成表忠碑』の発起人には、西村捨三(第六代大阪府知事)と小林佐兵衛(「俄ー浪華の遊侠伝ー」(司馬遼太郎)のモデル)とある。

 

不幸にして、重成は、演劇で若江の孤墳あるのみで、侠客小林某が、大坂城塁 につかう石が安治川にあり、これを取り上げ、両人発起し、木村重成表忠碑を中之島豊国社畦に建立し其の冥福を祈る。それに、重成の亡霊が現われ、立派な若者ふたりの、中之島での芝居もありだとする(明治29年5月建立)【撰文要約】

九代目市川団十郎の弟子市川新蔵が眼病で再起できぬと知らされたとき、「生涯の思い出に『重成血判状』という芝居をやらせてください」と懇願し、公演を成功させた。 第6代大阪府知事西村捨三がこれを観て感激し、自ら発起人となって明治29年(1896)に建立したのが「木村重成表忠碑」であるという。

大阪市立東洋陶磁美術館は、住友グループから寄贈された安宅コレクションと呼ばれる東洋陶磁コレクションを核として1982年(昭和57年)に設立。

 

安宅コレクションは、大手総合商社の安宅産業および創業家二代目の安宅英一会長が収集したものである。

 ところが、安宅産業は1975年(昭和50年)に経営危機が発覚し、1977年(昭和52年)10月1日に伊藤忠商事に吸収合併されたのである。

 

この東洋陶磁コレクションの帰趨については、文化庁をはじめとする関係各方面から、貴重で体系的なコレクションを散逸させることなく、保存に善処を望む要望が数多く寄せられていた。

そうした要望を踏まえ、1980年(昭和55年)3月に住銀頭取だった磯田一郎は、公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断、大阪市への寄贈を決めた。

ところで、この『子どもの森』と『東洋陶磁美術観』との間に、大阪府大阪市北区中之島公園にある木村重成表忠碑があるんだけど、その理由が撰文でやっと分かった。

ところが、その豊国神社は、大坂城内へ移転してしまったわけで、表忠碑がそのまま残されたものだから、訳が分からなくなったんよ。

ついでながら、重成の父と兄の高成は、豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたのである。

助命された母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。

実は、明治維新後、蔵屋敷は廃止され中之島は衰退していたのだが、そんな中、中央公会堂が、中之島復興の象徴的存在として当時の株式仲買人、岩本栄之助の寄付により建てられました。

北浜の風雲児」と呼ばれていた株式仲買人・相場師の岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さやアメリカの富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い感銘を受けた。

帰国後、岩本栄之助(享年39歳)は父の遺産と自分の私財を併せた100万円(現在価格数十億円)を地元の公共施設建設に寄付することを決めた。

 

当時、大阪の中之島は、蔵屋敷の廃止後、町が衰退しその後の町の将来ビジョンをどうすべきか検討中であったので、岩本の寄付金はその町の中心シンボルとして「中央公会堂」の建設に使われることに決まった。

設計デザインは、当時29歳だった岡田信一郎のデザイン案が1位に選ばれ、その岡田のデザイン原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。

公会堂の定礎式は大正4年(1915年)10月8日に行われ、その時、その定礎式に参加して「定礎」の文字を書いたのは、渋沢栄一である。

その後、相場の読みに外れ、株式相場で大損失を被った栄之助は、大正5年(1916年)10月22日、岩本商店の全ての使用人と家族を京都の宇治へ松茸狩りに出した後、自宅の離れ屋敷に入り、陸軍将校時代に入手した短銃で自分の咽喉部を斜めに打ち抜き自殺を図り、その時、栄之助の左手には愛用の菩提樹の数珠が握られていたー「この秋をまたでちりゆく紅葉哉」(辞世)

その後も「大阪市中央公会堂」の工事は続けられ、大正7年(1918年)10月末に竣工、同年11月17日に落成奉告祭が行われた。

なお、機会があれば、ぜひとも天井画や壁画、巨大なステンドグラスを観られることをお勧めする。

北からの画像で、右手に中央公会堂が見えるが、中国街道は、実際とは違うかもしれないがこの橋を渡って西天満方面に向かうのだ。

 

その鉾流橋について説明すると、堂島川に架かり、中之島北岸(大阪市中央公会堂や東洋陶磁美術館付近)と西天満(大阪高等裁判所付近)を繋ぐ橋。

毎年7月24日の朝、橋のたもとで天神祭の「鉾流神事」(川に神鉾を流し、その年の神霊渡御地・お旅所を決定する行事)が行われることから、この名前がついたという。

初めて橋が架けられたのは、大正7年(1918)とされているが、現在の橋は昭和4年(1929)に完成し、 高欄・照明灯・親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは、天神祭の鉾流神事が行われることを考慮したためと思われる。

その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年(1980)に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備され、現在に至っている。

大阪城の天守復興(昭和6年)はすべて市民の寄付だったが、この中之島公園の建造物も、ある意味、民間人の手でなされたと言えるかもしれない。