難波橋

郡区町村編制法施行以来110年間続いた東区と南区の合区により、1989年2月13日に発足し、発足後も、中央区内にはかつての区名である「東」「南」を冠した税務署・警察署・普通郵便局が存在する。

隣り合う西区が日本最古の行政区に対して、中央区は大阪市の行政区で最も歴史が浅い区の一つである。

旧・東区内は谷町筋の東西で街の性格が変化し、東側に大坂城や難波宮跡と大阪府庁などの官公庁街、西側にオフィス街が広がる。

旧:南区内は堺筋の東西で街の性格が変化し、東側に問屋街と寺町、西側にはキタと双璧をなす商業地である大阪ミナミ(難波・道頓堀・千日前・心斎橋など)の一大繁華街が広がる。

北浜や本町などの船場地区は江戸時代からの大阪市の中心地であり、当時の名残から、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に近世から歴史を持つ問屋街が発達しており、現在もその伝統を継承している。 

大阪瓦斯ビルディングなどの設計で知られる、近畿地方を代表する建築家安井武雄(1884-1955)の設計で昭和2年(1927年)に建てられたのが、高麗橋野村ビルディングである。

当時としてはまだ珍しかった鉄骨鉄筋コンクリート構造で、戦前は地上は6階までであったが、1964年に7階を増築した。

玄関には三日月の装飾、エントランスにはイスラム風の月と竹の装飾があり、東洋的な雰囲気を漂わせています。

 

現在は、レトロコンサートシリーズの会場となる「CAFE&BAR JAMAIS」や、カフェが入り、堺筋の憩いの場である。

こうした町名としての高麗橋は、北は今橋、南は伏見町・道修町、東は東横堀川を挟んで北浜東・東高麗橋、西は西横堀川跡の阪神高速1号環状線北行きを挟んで西区江戸堀とそれぞれ接する。

その高麗橋1交差点(堺筋)にあるのが、上記の高麗橋野村ビルであり、三井住友銀行大阪中央支店(旧・三井銀行大阪支店)などの近代建築が建ち並ぶのだ。

 

その歴史的な背景を鑑みれば、江戸時代以来の高麗橋1 - 3丁目には、呉服屋・両替屋・紙屋・苧麻屋などが集積しており、特筆されるのが越後屋の存在で、明治以降に三越と三井銀行、さらには三井物産(東洋棉花)となって行く。

銀行は他にも、第一国立銀行大阪支店、第三十四国立銀行、第百三十国立銀行が設立され、高麗橋通は銀行街へと変貌していった。

この建物のもとは、辰野金吾・片岡安(やすし)の設計で1912年(明治45)に建てられた(旧)大阪教育生命保険ビルです。

赤煉瓦と白い石のボーダー外観が特徴的で、重厚な飾り石の意匠、金属板の勾配屋根の明かり窓、レンガの赤と銅板の緑青など、明治時代後期の風格ある外観を残しています。 現在は、ウエディング会場「オペラドメーヌ高麗橋」として利用されています。

 

隣には、1877年に創立された、日本初の自給教会である、日本基督教団浪花教会があり、現在の教会堂は、アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計指導で、竹中工務店の設計・施工により建設(1930年)されたもので、周辺にはガス燈が建ち並び、近代建築も多く、近代建築撮影スポットとなっています。

1878年(明治11年)7月に設立の願書が府に提出され、8月に高麗橋に大阪商法会議所設立されたのが最初であり、その儀願書を提出した有志15名のなかには、磯野小右衛門(堂島米会所1871年初代頭取:第4代会頭)、藤田伝三郎(藤田財閥創始者:第2代会頭)、広瀬宰平(初代住友総理人)、そして五代友厚(大阪商法会議所初代会頭)がいた。

現在の大阪商工会議所ビル前に、初代会頭五代友厚の銅像が建っている。右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出して、示現流の使い手がいつでも抜刃できるポーズである。

この五代の人物と業績を知る人は、今日の大阪でもごく少ないが、彼こそは、近代大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である。

画像は一番奥が、五代友厚であるが、設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、また互いを助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。

役員の構成は、五代を初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らの150株を筆頭に皆で立ち上げた。

 

次いで、7代会頭・土居通夫(鴻池顧問、大阪電灯(株)社長)、手前が10代会頭・稲畑勝太郎(稲畑産業(株)・日本染料製造(株)社長)で、それぞれ大阪に尽くした人たちである。

大阪商工会議所の北隣がマイドーム大阪であり、その東側に、横幅は4m、高さは2m近くもある、「義侠 天野屋利兵衛之碑」が建てられている。

 

利兵衛は、赤穂藩の家老・大石良雄(おおいしよしお)から吉良(きら)邸討ち入りの武具の調達を頼まれるが、武具をつくらせた人間の密告により捕らえられる。

依頼人の名を白状せよと奉行所で拷問を受けるが、頑として口を割らず、このときに利兵衛が言ったのが、「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフである。 

 

更にその近くには、『西鶴文学碑』もあり、『日本永代蔵』巻一「初午は乗ってくる仕合(しあわせ)」のはじめの一節が記されている。

天道言(てんたうものい)はずして国土に恵みふかし。人は實(じつ)あって偽(いつは)りおほし。其心は本虚(もときょ)にして物に應じて跡なし。これ善悪の中に立てすぐなる今の御代(おんよ)をゆたかにわたるは人の人たるがゆえに常の人にあらず。

一生大事身を過ぐる業、士農工商の外、出家・神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を貯めこむべし。これ、二親の外に命の親なり。

人間、長く見れば朝を知らず、短くおもへば夕におどろく。

されば、「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻」といふ。時の間の煙、死すれば、何ぞ金銀瓦石には劣れり。黄泉の用には立ちがたし。しかりといへども、残して子孫のためとはなりぬ。

ひそかに思ふに、世に有る程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天が下に五つあり。それより外になかりき。これにましたる宝船の有るべきや。

この裏を東横川が流れており、それに沿って北へ向かうと、「里程元標跡」へ突き当たり、ここから、いよいよ難波橋へ向かう。

難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年頃に行基によって架けられたといわれているが、天神橋・天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。

明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったと言い、1661年(寛文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。

1912年に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、一筋東の堺筋に架けられた。

 

パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたといわれるこの新橋が現在の難波橋である。

橋の南詰めおよび北詰めには、最上級の黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(=ライオンの石像、天岡均一作)が左右両側にあるため、「ライオン橋」とも呼ばれている。

このライオンは天王寺動物園の当時非常に珍しかったライオンがモデルといわれ、像は左側が口を開く阿形像(西側)、右側が口を閉じる吽形像(東側)となっており、狛犬(狛犬はライオンがモデルといわれる)の形式を採った獅子=ライオンであるといえる。

夭折した歌人坂田博義(さかたひろよし:1937-1961)は、この橋に哀愁を感じて詠んだ歌がある。

 

 橋づめに石の獅子立つ難波橋  今日かなしまず吾れわたりゆく (1961年『鳥』)

 

第6代大阪市長・池上四郎の依頼で兵庫県三田市出身の彫刻家、天岡均一(あまおかきんいち)が原型を作り、石材建築の権威だった石工の熊取谷力松が彫ったもの。

大正時代から昭和初期の大阪は「大大阪」と呼ばれ、東京をしのぐ日本経済の中心だった時代だが、そんな繁栄の時代に築かれたのが橋とライオン像だった。