香具波志神社

淀川区は大阪市内の北部、淀川の北岸と神崎川南岸に挟まれた位置にあり、東は東淀川区、西は西淀川区、南は北区、北は吹田市、豊中市、兵庫県尼崎市にそれぞれ隣接している。

古くは淀川の渡しや能勢街道などが通る交通の要所であり、近代以降は多くの鉄道路線が開通し、都心部や近畿各地と直接結ばれているほか、東海道・山陽新幹線により関東や中部・中国・九州の各地とも直接結ばれている。

区の産業は、江戸期には農業などが中心であり、旧来、中津川(現:淀川)の洪水に悩まされながらも、肥沃な農業地帯であったようで、地域の農民は自力で中島大水道を開削した。

加島には幕府の銭座が置かれ、伝統的に工芸の盛んな土地で「酒は灘、銭は加島」といわれるほど、良質な銭貨が生産されていた。

現在では、卸・小売業、飲食店を中心とする商業活動が主であるが、機械器具製造業、金属製品製造業を中心とする工業活動も盛んであり、商・工業活動とも常に本市の上位を占めている。


大阪から西に向かう中国街道沿いに十三があるけれど、街道を通る人たちが淀川を舟で超えるために利用した渡し場は、十三渡しと呼ばれていました。

渡し舟を待つたくさんの人でにぎわい、休憩するための茶店などもあり、今も残る十三焼餅は、当時のにぎやかな様子を伝えてくれますが、明治11年(1878)に 十三橋という木橋ができたため渡しはなくなりました。

 

現在の 十三大橋の南詰(北区)に、珍しい常夜灯型の道標があるけれど、高麗橋から茶屋町・中津をへて中国街道を通る旅人は、ここで十三渡の船に乗り(のち十三橋・十三大橋)、掘(現十三本町)~今里 (現十三元今里・田川北)~三津屋~加島から神崎渡で神崎川を越えて、西宮で西国街道(下関~京都)に合流したということだ。

十三の地名の発祥となった場所は、十三と現在呼ばれている地域よりもやや南に位置し手たという。

明治時代初期までの淀川は下流部でいくつもにも分流し、その一つとしてこの地には中津川と呼ばれていた川が流れていた(新淀川の開削により消失)。

江戸時代までに中津川南岸の成小路村(なるしょうじむら:現在の新北野付近)と北岸の堀村(現在の十三本町付近)を結ぶ十三の渡しが設置され、大坂と尼崎、西宮を結ぶ中国街道の一部区間となっていた。

この十三大橋を渡れば、淀川区に入り、十三駅近くには風俗店があり、ネオンサイン等で目立つエリアに突入することになる。

 

十三の夜(歌・作詞・作曲:藤田まこと)

梅田離れて なかつを過ぎりゃ

想い出捨てた 十三よ

女一人で 生きて行く

娘(ネェ)ちゃん 娘(ネェ)ちゃん

十三の娘(ネェ)ちゃん 涙をお拭きよ

化粧くずれが 気にかかる

 

庄内離れて みくにを過ぎりゃ          そのだ離れて かんざき過ぎりゃ

ネオンうずまく 十三よ              恋の花咲く 十三よ

やけに淋しい夜もある              やがていつかは結ばれる

娘(ネェ)ちゃん 娘(ネェ)ちゃん       娘(ネェ)ちゃん 娘(ネェ)ちゃん 

十三の娘(ネェ)ちゃん くじけちゃいけない   十三の娘(ネェ)ちゃん もすりん橋を

星に願いを かけるのさ                今日は二人で 渡ろうよ

 

[ 因みに、梅田・中津・十三(阪急宝塚・神戸本線)、庄内・三国・十三(阪急宝塚線)、園田・神崎川・十三(阪急神戸線)であり、モスリン橋の由来は、大正末期の初代の橋が毛斯倫株式会社という民間会社の私設橋であったことによる]

 

特に駅西南側の栄町エリアにはパチンコ店、キャバレー、ピンクサロン、ラブホテルなどが密集しており、そのため歓楽街として知られるが、一般客向けの飲食店も多い繁華街でもある。

ところがこの町が大きく変わろうとしており、阪急電鉄が、大阪と神戸、京都の3都市を結ぶターミナルの 十三駅(大阪市淀川区)一帯の大規模な再開発に乗り出しており、2040年をめどに、駅の直上に高層ビルを建設し、周辺との一体的な開発を進めるというのだ。

計画では、駅上の高層ビルのほか、十三駅を経由する新大阪―大阪駅間を結ぶ新線を整備するのに合わせ、十三駅地下にも駅を設ける。

また、グループの阪急観光バスが営業所としている約1万平方メートルの土地など、駅周辺の3か所の用地も併せて開発を進めることで、にぎわい作りなどを図るという。

北野高校(大阪市淀川区新北野)・淀川通・十三公園(大阪市淀川区十三元今里)を通って中国街道へ入るのだが、ここで寄り道をしておきたい場所が神津神社(大阪市淀川区十三東)である。

というのも、大阪市淀川区にある神津神社の境内に、「吉向窯(きっこうかま)」が再現されているのだが、その陶芸家初代吉向治兵衛は伊予国の出身だが、砥部焼(とべやき)の技法を身につけた後、享和年間(1801~1804)、修業の旅に出て京都へ入り、楽家9代了入(りょうにゅう)の指導を受ける。

さらに、京焼の名手、元大坂の豪商で南山焼(なんざんやき)の創始者浅井周斎からは、独立して窯を開く許可を受けた。

当時交通の要衝であった、大坂の十三の渡しの近くに窯場を設けたのが、20歳のときで、初めのうちは、旅人相手の土産品を売ったが、基盤ができると砥部から良質の土を取り寄せ、茶碗などの日用品から置物、飾り物と徐々に本格的な焼き物を製作する。

これに自分の幼名「亀次」にちなんで、「亀甲焼」と命名したのが当たり、長寿の象徴で縁起が良いと往来する参勤交代の大名の目に留まるようになる。

 

十三村にて開窯していた時代(1817年、33歳頃)、愛顧を受けた代官岸本武太夫の紹介で、当時の寺社奉行水野忠邦(後の大坂城代)の依頼により、11代将軍家斉の慶事に当たり金魚鉢と鶴と亀の食籠(じきろう)(蓋物の菓子鉢)を製作、上納した。

家斉はこれをいたく気に入り、面目をほどこした忠邦は治兵衛に対し、亀甲に因んで「吉向」の窯号と金印・銀印を与えた。

吉向を紹介した岸本武大夫も面目をほどこし、祝意を表して当時著名な歌人で能書家の加茂季鷹に「吉向」の二大文字の揮毫を委嘱し贈っているというわけで、誠に「きっこう、めでたきかな」

十三公園(十三元今里)を経て、『もといまロード』を横切り、十三筋を渡り、田川北でJR貨物船を横切り新幹線をくぐってから三津屋南を経て、加島町へと現在のバス通り(十三筋)から離れ、福山製紙の角を進む。

 

この加島の地名については、鍛冶職人が多く住んでいた島・「鍛治島」から転化したとする説などがあり、古くは蟹島・神島・歌島・賀島などとも表記し、奈良時代ごろ宿場町として栄えていた。

 江戸時代までには摂津国西成郡加島村となり、鍛冶集住地の地盤を活かして鋳銭場(いせんば)が設置されていた時期もあった。

香具波志神社(かぐはしじんじゃ)は、孝徳天皇が当地に行幸され、「香ぐはし」と詠まれた句に依ると云われる。

「加島神社旧記」によれば、天徳3年(959年)に倉稲魂神・保食神を祀ったとあり、『摂津志』にも「稲荷神祠二座、一座在加島村」とある。

かつて連歌殿があり、弘長年中には北条時頼(1227-1263)が連歌田を寄進したというのだが、はるか離れた鎌倉まで名が聞こえていたのかなぁ。

また、『太平記』によると 正平6年(1351年)頃には、楠木正成の三男正儀は加島明神の森に駒をとめ、社前に祈願という記述がある。

天文18年(1549年)の江口の戦いで、三好長慶が戦勝祈願に大鳥居を寄進しているなど、歴史上の人物が名を連ねている。

加島地域は中国街道の渡し場、神崎川・ 猪名川水系の港があり、交通の要所として 栄えてきた。

このため香具波志神社には遠 方からの参拝者も多く訪れたという。

孝徳天皇が当地に行幸され、「香ぐはし」と詠まれたという歌だが、「かこはしやこのはないもみせくかもやこ のはな」とは、中途半端でリズムがない。

 

ところが、『古事記 応神』の歌謡、【比流都美邇(ひるつみに)和賀由久美知能(わがゆくみちの)】の次に、(かぐはし)が来る。

それが、【迦具波斯(かぐはし)波那多知婆那波(はなたちばなは)】というわけで、孝徳の物語にもつながっていくんよ。

 

というのが、皇太子(=中大兄皇子)が、皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)、大海人皇子を連れて、倭京に遷ってしまったのだ。

そこで、「かぐはしき わがゆくみちの このはなに いもみせくかも はなたちばなは」となり、もし万葉集に記載されていたなら、皇后を想い慕っての相聞歌になるのだがなぁ。

境内に は南北朝時代に楠木正儀が戦勝祈願に来 社の際、愛馬をつないだ旧天然記念物の 「駒つなぎの楠」の切り株が残されている。

また、資料館「香文館」には戦国時代に三好 長慶が奉納した大鳥居の沓石や社名額、 『雨月物語』の作者である国学者、上田秋 成の遺構や江戸時代の銭貨である寛永通 宝を鋳造していた加島銭座の資料なども多 数保管されているという。

 

これらは春の稲荷大祭にて公開され、この神社が歴史上の著 名人と深くゆかりがあることがうかがえる。

香具波志神社から300m先に、富光寺(ふっこうじ)があるが、天正19年(1591年)奥付の「富光寺縁起」によると、大化年間(645年 - 650年)天竺より飛来した法道仙人が、播州の法華山に住み真言宗を広めたが、 ある時、紫雲に乗っていると加島に霊光あるを気づき、その辺りの木から阿弥陀仏を刻み、一宇を建立したのが富光寺の起源と伝える。

大化5年(649年)には孝徳天皇が病気平癒を祈祷させ、寺領と勅願を下賜したという。

また、四天王寺参詣途中の比丘尼が夢に聖徳太子が現れ、加島に行くよう告げられて訪れてみると、放光の仏舎利を発見し、当寺へ奉納したという。

建永2年(1207年)には法然上人が土佐に配流される途中、当寺に泊まり、その夜神崎の遊女に念仏の法話を聞かせたと伝える。

香具波志神社に参詣した執権北条時頼が大梵鐘を寄進し、延元元年(1336年)には足利尊氏を追う楠木正成が神崎橋上から富光寺の本尊に戦勝祈願したといわれる。

三好長慶も願を掛け本陣にしており、山号長慶山はこれに因む。