龍田越奈良街道

 

大阪と奈良を結ぶ街道の一つである龍田越奈良街道は、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つであり、 現在は国道25号が踏襲している。

龍田(三郷町の龍田大社付近)を越えることから「竜田越」とよばれるようになったが、大阪府内では「渋川道」ともいわれる。

 

竜田道(龍田道)は、龍田越え、亀瀬越えなどとも呼ばれ、時代や目的によって数本のルートがあり、それらを総称して龍田古道(たつたこどう)とも呼ばれる。

奈良県と大阪府の府県境付近の大和川の渓谷を亀の瀬と呼ぶが、亀の瀬の北方に位置する峰々を総称して龍田山と呼ばれており、龍田山を越える道が竜田道(龍田道)である。

 

飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備され、沿道にある大聖勝軍寺を含め、いずれも聖徳太子にゆかりのある地域と関わりがあり、聖徳太子自身もこの街道を往復していたといわれる。

 

一般に龍田道と呼ばれた道は大和川に沿った道で、三郷町から柏原市青谷までは大和川右岸を、青谷から西は大和川左岸を通ったと考えられているが、奈良時代には柏原市の山間部に入り、柏原市安堂・太平寺へ下る道も利用されたようで、それ以外にも、龍田大社の神の降臨地とされる御座峯を通過する道などもあった。

龍田越奈良街道こぼれ話

大阪から他府県に通じる幹線の街道としての奈良街道は、竹内街道・長尾街道があり、そして暗越(くらがりごえ)と龍田越(たつたごえ)である。

もちろん、龍田大社に向かう街道ではあるが、難波津・四天王寺と法隆寺を結ぶ道でもあるのだ。

 

逢坂の道標

四天王寺は、日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない、全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

そして西方には、夕日の美しさだけでなく、七つの坂があり、それぞれに物語があるのだ。

 

源が橋

寺田町あたりで、難波大道・下高野街道が交錯し、猫間川周辺では多くの地蔵さんがあったが、行政や住宅事情で、間引きされるように減っていったのは、昭和の商店街が廃れていくのと同じ現象かもしれない。

 

桑津天神社

秋九月中旬、髪長媛は日向(ひむか)からやってきた。

摂津国(せっつのくに)の桑津邑(くわつのむら)に置かれた。

 

 「日本書紀」によれば、日向(ひむかの)髪長媛は美貌のうわさがたかく、応神天皇13年天皇が使いをだしてむかえたが、皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)が媛に恋心をいだいたため皇子にあたえたという。

 

大念仏寺

平野区の奈良街道は、平野宮町2丁目から国道25号線に入るけれど、そこから平野川遊歩道に入り、新家天満宮の手前で北に折れ、加美南3から旧街道へ入るのが、国道沿いを駆けるより安全と言えば安全なんだけどなぁ。

 

大聖勝軍寺

令和3(2021)年は、聖徳太子没後1400年の年であり、八尾市では「聖徳太子1400年プロジェクト 八尾は聖徳太子と物部守屋」を主催しているのだけど、この地八尾の戦いにおいて、明らかに太子の思想にも、変化をもたらした出来事のように思う。

 

新大和橋・石川橋

柏原市は大和川と石川の合流地点であり、藤井寺市もその影響をもろに受けているのだが、新大和川に埋もれてしまった船橋遺跡ではあるが、多くの古代遺跡と同じように、学術調査に基づいて、どれだけ地域文化遺産を浮き彫りさせてくれるのであろう?

 

夏目茶屋の渡し

夏目茶屋のつり橋を探すのに苦労したけれど、やっぱり圧巻は亀の瀬のトンネルであり、排水トンネルとの交差部から離れた旧下りトンネルの王寺方39mについて、約130年前のトンネルの貴重な遺構として保存されることとなり、地滑り対策事業の見学会に合わせて公開されている。

かつて聖徳太子も、黒駒を駆って法隆寺・龍田大社、そして四天王寺へと行き来した道なのであろうか?