大阪狭山市駅

東野と呼ばれる地区に属する東野中遺跡は、大阪狭山市の北東に位置し、西は狭山池主谷と呼ばれる、旧天野川が形成した南北に延びる谷底平野と、東は蛇行しながら北流する東除川ま での間の、東西両側から少し高まった比較的平坦な中位段丘面上(標高は 55m ~ 68m 、 北へ向かって緩やかに高度を下げている)にある。

 

東野という地名は、中世の大覚寺領荘園である野田庄に属した北野田、南野田、西野に対応する名称にちなんでいるという。

集落は地区の南側に偏り、それ以外の一帯には水路に導かれた耕地が広が る。現在は堺市に属し市域を越えてはいるが、地区の北東端には式内社菅生神社が鎮座し、集落は古来から菅生神社との関わりが深かったようである。  

このような地域にある東野中遺跡の周辺には、飛鳥時代後半の創建と考えられる東野廃寺、中世集落跡とされる東野遺跡、須恵器窯跡である東野新池北窯、東野中 1 号窯があり、また遺跡の北辺には伊勢街道、西端にはわが中高野街道が通っているのだ。            

『大阪狭山市の歴史と魅力』(藤井貴之学芸員)に、「東野廃寺(現在の蓮光寺。現在は寺格を持たない)が建立され、その復原した寺の範囲が中高野街道に沿うようになっている」とある。

そこで、せめて蓮光寺でも確認しておこうかと思い、もちろん境内には入れなかったが、本堂の大屋根は堂々としてるように思えた。

寺格を持たないにもかかわらず、貫禄がありそうなので調べてみると、『高野街道記気まぐれ補足』として記載されていた。

 

蓮光寺の創建年代は不明だが、過去帳によると鎌倉時代の叡尊(1201-1290)が中興開山となっている。

鎌倉仏教を代表する一人で、廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。

 

その履歴には、寛元2年(1244年) - 河内諸宿で文殊供養を行い、非人に施粥(せがゆ)する。

文永3年(1266年) - 河内真福寺(堺市美原区)で非人救済を行う。 

 どうもこの寺は見放されることが多く、延命寺の浄巌和上(1639-1702)行状記上巻に「延宝三年(1675)二月十一日(二月閏あり)より丹南郡東野村蓮光寺に於て法華を講ず、僧衆三百余人、前後百三十五席、五月二十八日畢る云々」と記され、当時の蓮光寺の大きさを偲ばせている。

ところが、元禄元年(1688)、唐招提寺から通玄和上が赴任してきたときには、廃坊の跡は荒れ、わずか13年の間に荒れた理由は如何にかと疑問が持たれています。

通玄和上は七十六才で蓮光寺で入寂しましたが、中興の祖としてその学識は高く、近世律学の権威として知られ、尨大な著述を残しています。

今もそれらの本は龍谷大学・大谷大学、東大寺、三重県の新大仏寺、奈良の南山文庫、京都の正法寺、奈良の戒学院、河内長野の松林寺、堺市百舌鳥の光明院にも蔵されています。

 

その後、天明八年(1788)火災にあい、庫裏・門が残っただけですが、寛政七年(1796)一音(いっとん)和上により本堂は再建された。

しかし、旧伽藍の礎石類は江戸初期、幕府の大阪城整備のとき転用され、塔心礎以外は何も残っていなかった。

さらに、天保から安政(1830~1854)までは無住となり、古文書・仏具・什宝などほとんど散逸、明治の廃仏により衰退はますます進んだ。

もともと無檀家の寺であったが、かっては官寺か豪族の氏寺であったことを偲ばせ、学問寺として学問僧や学者を輩出したと伝えられているだけに残念である。 

大鳥池から、道の旅人は大阪狭山市駅の、北側の踏切を渡ることになるのだが、そこが線路に対して斜めにアーチをかけるために、レンガをねじって積んだ「ねじりまんぽ」という、とてもめずらしい構造なのだ。

明治 31 年に高野鉄道を河内長野まで延長した 際に、この辺りの人々の通路や水路を通してほし いとの意見からこれらの暗渠(あんきょ)が設置されました。

当時の技術を駆使して、アーチ型にレンガを積 み強度を保っています。

これが市内 7 ヶ所で見られるのだが、なかでも東除川暗渠は、斜めにねじって アーチをかけた日本に 25 ヶ所しか残っていない 珍しいものです。

昭和 12 年、電車の複線化により下り線側を拡 張した為、各アーチ橋の東側はコンクリート構造 になっている。 

そしてこの東除川に沿って進むと、198号線に出るのだが、南に上れば中高野街道、北に下りれば狭山藩陣屋跡があるのだ。

戦国大名として名高い北条早雲の子孫が、江戸時代に一万石の大名として狭山池のほとりに陣屋を構えました。

陣屋内には、藩主の御殿を中心に家臣たちの屋敷が配置され、メインストリートである大手筋が南北に貫いており、これを基準に街並みが造られています。

狭山藩では、2代藩主北条氏信が元和2年(1616)に陣屋を構築し、寛永20年(1643)3代藩主北条氏宗の代に陣屋の上屋敷が完成した。

その場所は、現在の大阪狭山市佐山3・4丁目にあたり、東除川が狭山池から出る河口の東北地帯で、東の中高野街道と西側の御庭池(上・中・下)に挟まれた要害地で、少し西では西除川が狭山池から流出するという景勝地であった。

ところが天明2年(1782)に上屋敷が焼失し、6年に藩主御殿が再建され、上屋敷もこれ以後整備されたらしく、その敷地は約5万1269坪、総廻り804間で、東西に対して南北が長い長方形である。

下屋敷は、上屋敷の南西部に位置し、宝永年間(1704~11)5代藩主氏朝の代に建築されたようである。(植松清志)

北条氏の祖は、関東地方で勢威を振るった北条早雲である。

しかし北条氏は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐により、北条氏第4代当主・北条氏政と北条氏照は戦争責任を問われ切腹となった。

しかし、第5代当主・北条氏直は徳川家康の娘婿であるという所以から、北条氏規(北条氏康の五男で氏政、氏照の弟)は和平に尽力し、秀吉とも会見していたという経緯から特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。

 

天正19年(1591年)、氏直は嗣子(しし)の無いまま30歳で死去し、北条氏の嫡流は断絶するのだが、氏規がその跡を継いで北条家の当主となる。

その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛は下野国内で4000石、氏規も河内狭山で7000石を領することになる。

慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1000石の大名となるが、これが狭山藩の始まりとなり、以後、後北条家12代の支配で明治維新にまで至った。 

令和になって忘れられるかもしれないが、昭和時代にはここに遊園地があったのだが、下屋敷の場所なんだ。

 

この地は、西に満々と水をたたえる狭山池を臨み、金剛・葛城の波から差し込む朝日も、陶器山の稜線へ沈む夕日も遠望することができた。

もとは小高い土地で松が生い茂り、その一角にある堤明神(現:狭山神社境内のさやま堤神社)に因み明神山と呼ばれ、半田村の北村集落に属した。

 

1938年(昭和13年)北条家より、村民(当時)のために有効利用して欲しいということで寄贈された狭山池東畔の狭山藩下屋敷跡地を利用して、南海電鉄会社によって開園。

戦時中・戦後は荒廃し、1952年から競艇場「狭山競走場」として利用された(1955年に競艇場は住之江競艇場に移転)が、1959年(昭和34年)4月1日に南海観光開発会社が経営を再開し、以降は南海電鉄が経営してきた。


下高野街道との合流点、報恩時の角を東に曲がり、大阪狭山市駅に向かい、道の旅人は中高野街道を走り、金剛駅まで行くと、その西方面に狭山神社がある。 

狭山と呼ぶ土地は我国所々あるが、大抵は地形の上からの呼び習わしである。

その中でも河内の狭山は国史の最初からその名が現われて現代にまで続いている。

そしてこの狭山の鎮守である狭山神社は崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられており、天照大神、素戔嗚命、狭山連の祖を祭神として里人の崇敬を集め郷土を護らせ給い来ったのである。

特にここに「狭山神」と「狭山堤神」の、二座の式内大社が鎮座しますことは例の少ない珍しいことで、この丹比郡にある大三、小八の合わせて十一社の式内社のうち、大ニ社がこの境内にあり、もう一社の式内大社は菅生神社である。

狭山神(狭山連の祖)は狭山池の築造以前からの郷土の鎮守として、また狭山堤神(入色入彦命)は狭山池開発の功労者として奉祭されている。

 

境内には本社の狭山神社、摂社の狭山堤神社のほか、摂社で稲荷神社、戎神社。末社に埴土社(はにつちしゃ)、伎社(ふなどのかみ)、岳主社(がくじゅしゃ)、足玉社(たるたましゃ)水本社(みずもとしゃ)がある。           (狭山神社御由緒略記より)

鎮座しており、境内背後の崖に木々が鬱蒼と茂っている様子がわかる。

崖の上には南海電鉄の金剛駅があり、崖上と崖下は全くの別世界といった様子で、駅前の喧騒とは無縁の境内となっています。

創建の年代は不詳であるが、崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたという伝承がある。

確かに、近いと言えば近いかもしれないが、所在地からして、池の守り神には思えないのだ。

その狭山池の築造と言うのが、『日本書紀』にあり、以下に日本語訳を記す。

 

六十ニ年秋七月二日、詔(みことのり)して、「農業は国の本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。それで、その国の農民は農業を怠っている。そこで池や溝を掘って、民の生業を広めよう」と言われた。 

 

なお、南北朝時代、当地は南北両軍の激戦地(池尻城の戦い)となり、たびたび兵火にかかっており、現在の社殿は室町時代中期の明応2年の再建と推定されている。

字明神山にあった村社狭山堤神社こそ、狭山池の鎮守であり、その主祭神は、印色入日子(いにしきのいりひこ)命(五十瓊敷入彦命)を祀る。

 

印色入日子は、血沼池(ちぬのいけ)を作り、また狭山池(さやまのいけ)を作り、また日下(くさか)の高津池(たかついけ)をお作りになった。(古事記)

 

印色入日子命:『日本書紀』では「五十瓊敷入彦命」と表記され、第11代垂仁天皇皇子で、        第12代景行天皇の同母兄、すなわちヤマトタケルの伯父ある。

 

道の旅人は、古事記にはヤマトタケルと伯母のことが書かれているが、ヤマトタケルとの影響が深いのは、この印色入日子ではないかと思っている。