瀧谷不動尊

中高野街道は、伏山(ふしやま)・須賀地域を走っており、それも南海高野線の西側なのだが、ここに瀧谷駅(富田林市須賀)がある。

明治31年(1898)3月、東へ約3キロの位置にある「瀧谷不動明王寺」への参詣駅として開業したのだ。

ところが、明治35年(1902)には、河南鉄道の滝谷不動駅(現・近鉄長野線)が開業し、最寄り駅として利用されるようになった。 と言うのも、眼病平癒で有名な瀧谷不動は、弘仁12年(821)弘法大師開創と伝えられ、毎月28日の縁日には、大勢の参詣客でにぎわうことになるのだ。

そこで、この中高野街道では、瀧谷不動尊まで行くつもりで、項目の一つにしたのであるが、ここまで行けば、嶽山・金胎寺山の城址へと足を延ばすこととなり、東高野街道よりもはるか東方になるのだが、その手始めに聖音寺へ寄ることにする。

 聖音寺は、縁起の全く不明な寺ですが、次のような伝説が残っています。

『元弘年中、楠木正成が、下赤阪城落城の時、夜陰に乗じて、金剛山に逃れる途中、北条方の兵士は馬盗人かと矢を射掛けてきた。

その矢が正成の篭手にあたったが、いたみも傷もない、不思議に思っていたところその夜夢の中に、日頃信心していた観音が現れ、「我は聖音寺の観音なり。汝の身代わりに矢を受けた。疑わしくば寺に来て見よ」と。

 

驚いた正成が翌朝聖音寺に行ってみると、本尊如意輪観音の手に矢が立ち、鮮血が滴っていた。

以後、正成は更に深くこの観音を崇敬し、多くの寄進と大般若経を手書きして奉納したといい、これより後この観音は「矢疵(やし)観音」と呼ぶようになった』と伝えます。

その後、同寺は衰頽甚だしく、1874年廃寺となり、古文書什器類など、ことごとく散逸してしまいました。

 

また聖音寺には、「人丸塚」と呼ばれている、自然石に刻まれた碑があるが、その歌を下記に載せる。

 

夜もすがらあかしがてらにたくものは 錦織山の妻木(爪木)なりけり

 

この人丸塚については、享保年間(1716~1735)に記された 『河内志』は「按ずるに天正十九年(1591)河内国の人阿俣(保)人麻呂と言う人あり、けだしこの人か」と記し、それゆえか、万葉歌人として有名な柿本人麻呂の塚と推断したのは、万葉研究家土屋文明なのだ。

根拠としたのは、人麻呂の妻依羅娘子(よきさみのいらつね)が「今日今日とわが待つ君は 石川の貝に交りて ありといはずやも」と詠んだ歌の中に、「石川」と言う地名と河内志の「河内国の人阿保人麻呂」です。

有名な歌人にも係わらず柿本人麻呂は不明なところが多い人で、死没地についての論争ができたわけです。

 

 斉藤茂吉『鴨山考』・梅原 猛『水底の歌』は石見国説、土屋文明は河内国説と言うわけですが現在は石見国説(亀山城址説を含む)が有力になっています。

滝谷の不動尊は、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。

寺伝によれば、821年(弘仁12年)に空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)の像を刻み、それら3体の仏像を祀るために諸堂が造営されたことを起源とする。

造営当初は今より、約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。

南北朝時代になると楠木正成が嶽山に築城し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。

1360年(正平15年)に足利義詮が嶽山城・金胎寺城(こんたいじじょう)を攻め、そのときの兵火で諸堂が焼失した。

伝承によれば、このときに不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子は滝の下に移されて焼失を免れた。

その後、盲目の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の霊験を人々に説いて、二間四面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は晴眼(せいがん:眼が見えること)になり、姿を消したという。

 

この盲目の老僧は、弘法大師の化身であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。

この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多く、1462年(寛正3年)に畠山政長と畠山義就(よしひろ)との間で獄山において合戦があり、そのときの兵火で再び焼失。

慶長年間(1596年〜1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っているが、木造不動明王二童子像 - 寺伝に空海の作というが、実際は後述のように平安時代後期・11世紀末の作である。

1958年、これらの像の解体修理を実施した際、不動明王像の像内に寛治8年(1094年)の墨書が発見され、矜羯羅童子像の内部からは永長2年(1097年)の年記のある紙片が見つかった。

このことから像の制作は、1094年 - 1097年頃に完成したことがわかり、一木(いちぼく)で像の大体の部分を刻んだ後、像全体を前後に割り放して内刳(うちぐ)りを施した「一木割矧(わりは)ぎ造」という技法で制作されている。


上記の画像は、大阪府富田林市にある高野山真言宗の寺院:龍泉寺の庭園で、千数百年の歴史のある名刹である。

 

と言うのも、推古天皇2年(595)、勅命を受けて蘇我馬子が創建したとされており、 しかも、弘法大師が中興したとされる真言宗の古寺で、本堂の西側には、鎌倉期の池泉(ちせん)回遊式庭園といわれる庭園があり、国の名勝庭園に指定されています。

寺伝によると、この地に住む悪龍が里人に害を与えていたため馬子が修法を行なったところ、龍は仏法の力に伏して飛び去ってしまいました。

しかし、その後、水が枯れ、寺や里が衰退していき、弘仁14年(823)に弘法大師が加持祈祷すると、龍が再来して水も豊かになったので、池の三つの島に左から吒天(だてん)、真ん中に弁財天、右端に聖天を祀り、牛頭天王を鎮守としたといわれています。

 

さらに天長5年(828年)、第53代淳和天皇(786-840)により寺は再建され、勅願寺として龍泉寺医王院の寺号を賜った。

東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院となったといい、南北朝時代になると、楠木正成が嶽山の山頂に龍泉寺城(嶽山城)を築いた。

南北朝の争乱では、この寺も巻き込まれ、仁王門を除き、多くの宝物とともに焼失しているが、その後再建され、江戸時代には地元白木藩主の寄進を受け度々の修理を経るもかつての規模を取り戻せないでいる。

境内にいたる参道は狭いものの、脇には桜、ツツジ、モミジなどが数多く植えられ、季節ごとに行楽客の目を楽しませる。

 

参道奥に鎌倉時代中期に建てられた朱塗りの仁王門があり、重要文化財に指定されており、金剛力士像は建治元年(1275年)の作である。

嶽山城(だけやまじょう)は、元弘2年(1332年)に楠木正成(?-1336)が築城した南河内の山城で、大阪府富田林市彼方(おちかた)の嶽山山頂にあった。

中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれ、楠木七城の一つであり、上赤坂城・下赤坂城や千早城の正面入口にあたり、峰続きの南西には金胎寺城が、更に南西には烏帽子形城があった。

 城跡の比定地ではかんぽの宿の建設に伴い1983年度に発掘調査が実施されたが、城の遺構と同時期の遺物は見つかっていない。

かんぽの宿の西側にも城域が広がっていた可能性があるが、調査がおこなわれておらず詳細は不明である。

北側には千畳敷という小字名の緩やかな傾斜地があり、河内守護大名の畠山が練兵場としていたという伝承が残る。

戦国時代前期は山岳寺院を城郭として利用していた事例が多くあり、嶽山城においても龍泉寺を城郭の中心としていたと想定されている。

文献での記載は『多聞院日記』にある永正4年(1507年)に畠山義英(よしひで)が嶽山城に拠ったとする記述が最後であり、戦国時代末期まで城が機能していたと判断する材料は乏しいとする。

 

 南北朝時代(1336-1392)は、南朝方の佐備氏が守将となって防衛に当たっていたが、延元2年/建武4年(1337年)、北朝方の細川顕氏(あきうじ:?-1352)の攻撃により激戦の末陥落した。

 

その後、南朝方が奪還して楠木正儀(1333?-1389頃)・和田正武(生没年不詳)の軍が千人ほどいたが、正平15年/延文5年(1360年)に北朝方の細川清氏(きようじ:?-1362)、赤松範実(のりざね:生没年不詳)によって落とされた。 

 

嶽山の城には正成の子、正儀がたてこもり、北朝方は今の廿山のあたりに陣をとっていた。楠木軍らは、寄せ手が無理に攻めてこないことを知ると、100人ばかりを城に残し、木のこずえなどに旗をくくりつけて、大勢の兵がたてこもっているように見せかけた。ところがある時、土岐という一族の知恵のある老武者が嶽山をみて、山の上を飛ぶ鳥が少しも驚かないことに気付き、楠木軍の計略は見破られてしまった。土岐の一族500騎は夜明けに嶽山の城をおそい、これを見た他の武士たちもいっせいに嶽山に押し寄せ嶽山城はあえなく落城となった。

                             (『太平記』巻34-291) 

願昭寺は、真言宗系の新宗教である八宗兼学真修教(はっしゅうけんがくしんしゅうきょう)の大本山であり、信者達の手作りによる寺院として知られている。

八宗兼学とは、特定の宗旨宗派に偏しない教えで、釈迦如来の教えを八宗の教義を基として兼修することを意味する。

つまり、わが国古代仏教諸宗の南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)と天台宗・真言宗の八宗のことを指す。

 

昭和16年、教祖浄心と姉智信により開教され、昭和27年に初代願昭大和上と浄心大法尼により開山。

昭和29年、宗教法人として認証され、本尊である目白不動は、樹齢800年もののクスノキから一刀彫りで彫り上げられたものである。

 境内は梅の名所としても知られ、2011年11月には五重塔も完成した。

東日本大震災から1年も経過していなかったため、落慶法要を自粛し、2012年5月に執り行われ、木造では大阪府唯一の五重塔である。

 

建築設計主旨

心に和みと安らぎをあたえる「五重塔」 願昭寺・五重塔は、「木柄を太く、大地に根を張ったような逞しさ、青丹よしと歌われた丹塗り、緑青塗りを施した華やかさ、本瓦葺きの屋根の曲線の美しさ」を備えた平成の塔を目指し、地域のシンボルとして山並みの中腹に建立されました。

宮大工の卓越した技術、金物を極力使わない工法は、技術が最も進んでいた室町時代頃の技術を踏襲しています。

経験に裏打ちされた匠の技と最新の建築構造解析により、金物による補強を最小限に抑え、地震力や風に対する浮き上がりを検証し、法規制を遵守した地震と風に強い五重塔を建立しました。塔の軸組を構成する柱、長押、丸桁、軒の組み物は丹塗り、蓮子窓は緑青塗り、木口は黄土塗りを施した塗装は、古来より伝えられた技法で顔料を膠で溶いた塗料を用い華やかさ、美しさを表現しています。

屋根瓦は隣接した奈良県産の土を用いた燻瓦で鬼瓦、軒の宇瓦、唐草瓦は古代に倣ったデザインを施し、軒の美しい曲線と、本瓦葺きの力強さ、安定感を見せています。

頂部の相輪は青銅鋳物に金箔で仕上げ華やかさと人々に慧眼な気持ちの中に「希望と和み」を与えています。

構造設計主旨

本五重塔は、中世の五重塔(醍醐寺(京都)、明王院(広島))をモデルとしており、構造形式も中世の側柱積重、四天柱長柱構造としています。

構造設計は、可能な限り金物等による木材の補強を行わない、木の耐力のみで自重はもとより地震、風に抵抗できることをコンセプトとしました。

本五重塔の主な耐震要素は、柱梁の貫による半剛接合ラーメン、落とし込み板壁、柱の傾斜復元力です。

これらの耐震要素を適切に評価し、限界耐力計算法、および振動解析を用いて耐震、耐風安全性を確認しています。

なお、富田林市で一番高い山が金胎寺(こんたいじ)山296.2m(右側)で、伝承では楠木正成によって築城され、その際に山頂にあった金胎寺を西麓の嬉に移転したと伝えられる。

現存する城郭の遺構は、山頂付近の主郭と周辺尾根上の曲輪からなる連郭式山城であり、使用最終段階にあたる戦国時代末期の様相をよく留める。

  

金胎寺山は尾根の稜線に沿って行政界線が設定されており、城郭は山頂の東側が大字甘南備、西側が大字伏見堂、山頂から西に伸びる尾根の一部が大字嬉に属し、その西麓の嬉からは登山道が整備されており、山頂まで至ることができる。

 

嶽山城には顕著な遺構が確認できない一方、金胎寺城には本格的な城郭遺構が残っているのだが、この二つの山城は、南河内の同じ独立山塊に立地し、台形状を呈した標高約280mの嶽山に嶽山城、南の標高約300mの城山に金胎寺城が存在する。

西山麓の長野谷は、京都から東高野街道とからの西高野街道が合流して紀伊へと向かう交通の要衝であり、東側の佐備谷は、千早・赤坂方面と連絡している。

東側中腹には、古代以来の20以上の坊院を擁した龍泉寺が存在し、城山周辺には近世に西側山麓に所在した金胎寺があったとされる。

 

室町時代中期になると畠山氏にお家騒動が発生、畠山政長(1442-1493)に家督や河内・紀伊・越中・山城の守護職を奪われた上に治伐(じばつ)の綸旨(りんじ)まで出され、朝敵にされた畠山義就が長禄4年(1460年)12月、籠城を開始する。

 

史料としては、畠山義就(よしひろ:1437?-1491)が嶽山城に籠城した際、『新撰長禄寛正記』寛正2年(1461年)に「金胎寺と嶽山両城に兵をこめ」とあるのが初出である。

翌寛正3年(1462年)4月に金胎寺で合戦があり、金胎寺城は天険の要害であったため、寄せ手-泉州勢を散々に打ち破ったという。

 しかし義就方は寡兵であり、また寄せ手の筒井勢の計略もあって、同年5月に金胎寺城は落ち

た。

 

やがて、紀伊や大和で勢力を挽回した義就は、文正(ぶんしょう)元年(1466)大和国を出立し、千早城付近を通って金胎寺城に入り、敵方の烏帽子形城をせめ、さらに嶽山城を奪還する。

 戦国時代前期(1467前後)は山岳寺院を城郭として利用していた事例が多くあり、嶽山城においても龍泉寺を城郭の中心としていたと想定されている。

 

明応2年(1493年)、第10代将軍足利義材(よしき:1466-1523)や畠山政長が河内を攻めると、北畠基家(1469-1499)は誉田(高屋城)に籠城し、基家方の甲斐庄氏などが金胎寺城に入った。

 以降は両流に分かれた畠山氏の争いに際して利用され、永正(えいしょう)4年(1507)に畠山義英(義就の孫:1487-1522)が嶽山城に拠り(『多聞院日記』)、 永正5年(1508年)には細川勝元の孫の澄元と合戦となり、嶽山城に立て籠もった。

しかし、澄元の家臣である赤沢長経に攻め落とされて落城し、義英は城を捨てて逃亡したが、 城はこの後の畠山氏の没落と共に廃城になった。