阿保神社

当地には、古くから土師氏(後の菅原氏)祖神のを祀る穂日の社があったというのだが、直接現代に連なる由緒としては、第61代朱雀(すざく)天皇(923-952)の時代に、釈道賢(905?-967?)という人が参詣した際に十一面観世音(舊梅松院)のお告げがあり、道賢は現地の住民と協力して天慶5年(942年)、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を祀ったのに始まるとされる。

 

その後、鎮座地は畠山氏の国人衆である三宅氏の居城跡でもあり、三宅天満宮と称していたが、明治時代の頃より屯倉(みやけ)神社と称するようになった。

と言うのも、同地は古墳時代、松原市北部から、大阪市住吉区南部あたりを範囲とする、天皇家直轄の依網(よさみ)屯倉の旧跡と伝えられていたからである。

  

ところでこの道賢のことだが、道真と対立した三善清行の子とされ、12歳のときに金峯山椿山寺(ちんざんじ)で剃髪し、穀物を断って修行に励み、延喜年間に如意輪寺を開基し、後に山城国東寺に住み、次いで大和国の室生山龍門寺に住んで「学問は真言を究め、神験極まりなかった」(『本朝神仙伝』)という。

なお、本朝神仙伝では、老年になっても幼い顔のままであったといい、老年になって前世に埋めた鈴杵(れいしょ)を掘り当てたので「前世と今世を知る人物」としている。

 

 また、金峯山寺内にご鎮座の威徳天満宮は、如意輪寺の開基・日蔵(初名:道賢)上人が菅原道真をその地に祀ったものであるとのこと。

 

日蔵上人が大峯山中の笙の窟で修行していたところ、急に仮死状態になって間魔宮へ導かれ、天子の衣服を身に着けてさまよっている人(醍醐天皇)に出会う。

 

醍醐天皇は、日蔵上人に「生前善政を行ったつもりであったが、藤原時平の告げ口により菅原道真を太宰府に流してしまったため、その罪により現在苦しんでいる。生き返って道真の霊を祀ってほしい、そうすれば自分はこの苦しみから逃れられるだろう」と伝えると、日蔵上人はこの世に蘇ったというのだ。 

大阪府松原市では、毎年1月1日~15日の期間「開運松原六社参り」が行われ、屯倉神社もその一つであり、ほかには「阿保神社」「我堂八幡宮」「柴籬神社」「布忍神社」、そして東住吉区にある「阿麻美許曽神社」(大和川の南側)を参拝する行事です。

開運の『開』は「ひらく・はじめる」、『運』は「はこぶ・めぐる」の意味し、年の始めに6つの神社を巡り良い1年を過ごせるようお参りします。

 

 

なお 本殿には、等身大の菅原道真坐像が安置され、挿首(さしくび)形式の頭部は南北朝時代(1336-1392)のものであるが、近世に後補された体内には、元和(げんな)8年(1622)に書かれた丹生講式 (にゅうこうしき )や杮経(こけらきょう)の法華経8巻、舎利(しゃり)2粒が納められていた。

また、近世初頭の近衛信尋(このえのぶひろ)自画賛の渡唐天神像、後陽成(ごようぜい)天皇宸筆(しんぴつ)の菅原道真画像、近衛基熙(このえもとひろ)の「南無天満大自在天神(なむ てんまだいじざいてんじん)」名号など、道真に関わる伝承品も多い。

拝殿前には穂日の社時代、道真が九州へ左遷の折、同社に立ち寄り座したという石が残っており、「神形石(かみがたいし)」と呼ばれ、妻屋 (つまや)氏が文久(ぶんきゅう)2年(1862)に標石を建立している。 

と言うのも、死後40年以上も経った天暦元年(947年)に、北野社において神として祀られるようになり、道真伝説が始まり、第66代 一条天皇(980-1011)の時代には道真の神格化が更に進んだという。

 

本殿北側には、同じく三宅に鎮座した延喜式内社の酒屋(さかや)神社(下記画像右)を合祀している。

酒屋神社は、西方寺(三宅中5丁目)の北側に鎮座していましたが、明治40年(1907)4月に屯倉神社(三宅中4丁目)に合祀されました。

旧社地は、いまでは三西町会児童公園(三宅中6丁目)になっていますが、その地には前方後円墳の権現山古墳(全壊)が築造されていました。

 

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』が編集された弘仁6年(815)以前、三宅に有力氏族中臣氏の一族である、中臣酒屋連が住み、津速魂(つはやむすひ)命の19世孫「真人連公」を祖先としていたが、その祖先神を酒屋神社として祀ったのでした。

 

朝鮮半島の新羅国からの使節をもてなす際に、「神酒」を三宅の近くの摂津の住道(すむぢ)神社(現在の大阪市東住吉区住道矢田2丁目の中臣須牟地神社)で醸酒していることが記されています。

このことから、中臣酒屋連は依網屯倉で収穫された米で酒造をしていたと考えられ、もともと、中臣氏は神事に関わる職掌を世襲していましたので、酒は神に捧げるものとして造られたのでしょう。

 

因みに住道は、住吉津から東に延びていた古代の道である「磯歯津路(しはつみち)」のことであると本居宣長が唱えて以来、この説が有力なようです。

『日本書紀』の雄略天皇十四年の記事に、住吉津に到着した呉の賓客のために道を造り磯歯津路を通わせ呉坂と名付けたとあります。

しかも当社の東方には、呉が転訛した「喜連(きれ)」という地名があり理にかなっており、古代にあっては高野大橋を渡る必要もなかったのですからね。

 

一方、延喜式・玄蕃寮(げんばりょう)に「新羅の客が来朝したとき、神酒を給した。その酒を醸すために、住道社を含む大和・河内・和泉・摂津の8社が合計240束の稲を住道社に送り、・・・神部造に命じて中臣一人を差遣わして酒を給する使いとし、・・・住道社が醸した酒は難波館で給す」(大意)とある。

この玄蕃寮の和名は「ほうしまらひとのつかさ」と読み、「玄」は僧侶(ほうし)、「蕃」は外国人・賓客(まらひと)のことなのだ。

その8社と言うのも、大和国賀茂・意富(おほ)・纒向・倭向四社、河内国恩智一社、和泉国安那志一社、摂津国住道・伊佐具二社のことらしい。 

しかし、釈然としないのは大和国4社であり、賀茂とは高鴨(御所市)・意富は多(磯城郡)・纒向(まきむく)は桜井市、そして倭向となると全く分からないのだ。

三宅中5丁目の古い町並みが残る一角に、融通念仏宗の安養山西方寺が建っています。

同寺は、融通念仏宗大本山の大念仏寺(大阪市平野区)7代住職の法明(1279-1349)が、鎌倉時代末期の元亨年間(1321~23)に創建したと伝えられています。

この西方寺観音堂には、二体の古仏が並んで安置されていることで有名です。

その一つが、近くの屯倉神社の神宮寺であった梅松院の本尊・十一面観音像です。

 

平安時代後半の作で、像高90センチメートル。桧材の一木造、漆箔に仕上げられています。

この本像が、各地の人々に信仰されたことは、江戸時代後半(18世紀)につくられた木製刻画の版木が現存していることからもわかります。

版木に紙を貼って墨を塗り、紙に刷られた観音さまが大量に生産され、版木は長谷寺式の十一面観音像を中央に配し、「天満宮本地十一面観世音聖徳太子御作」「河内国丹北郡三宅邑梅松院」と記しています。

 

天満宮とは屯倉神社のことで、明治時代以前は神も仏も同じとする神仏習合が一般的でしたが、 明治4年、梅松院は廃寺となったことから観音像は西方寺に移されたのです。

本像は、方違や安産に霊験あらたかと信じられていましたので、昭和50年代まで西方寺は河内西国三番札所として賑わいましたー「今世をばかけてぞたのむ三宅寺神も仏もへだてなければ」の御詠歌が境内に響きわたったものです。

 

もう一体は、やはり平安時代後半につくられた阿弥陀如来立像で、像高67センチメートル、桧の一木造です。

肉身は金泥漆箔、撫で肩で肉づきが厚く、穏やかなお顔の本像は、融通念仏宗の仏法山豊興寺の本尊でした。

その豊興寺は、西方寺と同じく法明の念仏勧進道場としておこり、今の三宅中4丁目の東集会所あたりにありました。

明治30年、豊興寺は廃寺となり、阿弥陀如来像が西方寺に移され、旧地には、豊興寺地蔵が祀られています。

また現在、観音堂の前には西国三十三カ所の各本尊を安置する御影堂もあり、西方寺は市域でも数少ない観音信仰の寺といえるでしょう。

道の旅人としても、これだけ謂れのある客仏が西方寺にあるこが不思議なのは、当の寺が路地の一角にあり、現代ではとてもお参りできるような境内もないのだ。

 

(一)本尊阿弥陀如来立像は、十二世紀後半の平安時代後期につくられ、ヒノキ材で、一本の木で彫ら れた一木造(いちぼくづくり)です。

像高は八九、四 cm、面長のお顔立ちで、小さく目や鼻を 表しており、体部は漆箔を施し、 撫で肩で、衲衣(のうえ:僧侶が身に着ける 全身を覆う一枚の布。袈裟 ) をまとっています。

右手はひじを曲 げて手のひらを胸の前にかかげ、第 一、第二指を捻じ、他の指を軽く曲 げています。

一方、左手は下に垂れ て手のひらを前に向け、第一、第二 指を捻じ、他の指を伸ばす来迎印を 結んでいます。

両足はやや開いて、 蓮華座の台座上に立っており、本像は、融通念佛宗になる前の西 方寺前身寺院の本尊であったと考え られます。

 

平安時代後期は、浄土思想(現世で阿弥陀仏を心に念ずれば、来世は極楽浄土に往生できるという考え)の 影響から阿弥陀如来像が各地で製作 されます。

 

(二)客仏の旧豊興寺阿弥陀如来立像も十二世紀後半から末にかけての 平安時代後期につくられました。

やはりヒノキ材の一木造で、像高は69.5cm、丸顔に小さく目 や鼻を表し、体部は漆箔で、肩 幅はやや大きく、衲衣をまとってい ます。

両手は、本尊像と同じく来迎印を結んでおり、両足も、やや開 いて蓮華座の台座上に立っています。  

本像は、もともと同じ融通念佛宗 で、近くの三宅中四丁目に所在した豊興寺の本尊で、『大阪 府全志』(大正十一年)によると元亨年間、法明が開いた念佛勧進道場が 前身とされます。

やはり前身寺院の本尊と考えられ、仏徳山と号し ますが、延宝五年時には豊興寺の寺号も有していました。

 
豊興寺は、明治時代初期には無住になっていましたが、西方寺住職 が兼帯したことから、明治30年 (1897)、同寺の廃寺とともに、 本尊が西方寺に移されたのでした。

 

(三)観音堂本尊(旧梅松院本地 仏)十一面観音立像は、同じく十二 世紀後半の平安時代後期の作です。

針葉樹系材で一木造で、像高93.2cm、体部は淡箔に仕上げており、ふっくらとした丸頭の、頭  上に頂上化 仏 と頭上面をつけ、右手 を下ろして手のひらを前に向け、左 手はひじを曲げて水  瓶 (すいびょう)をとり、岩座 ・反花(かへりばな)・蓮華座などからなる台座上に足先をそろえて立っています。

本像は、屯倉神社境内に所在した神宮寺である梅松院の本地仏で、江戸時代には、河内での西国 三十三か所の札所としても知られて いました。

梅松院は菅應山と号する 真言宗でしたが、明治四年(1871) に廃寺となり、西方寺に仏像が移さ れ、観音堂の本尊となり、観音信仰を代表する貴重な古仏 といえます。

 

 なお、これら仏像の参拝については、 西方寺(安岡剛史住職)か教育委員会 文化財課にお問い合わせください。

【市指定文化財となった三宅・西方寺仏 西田 孝司(松原市文化財保護審議会)】より



阿保(あお)の地名の由来は、第51代平城(へいぜい)天皇(774-824)の第1皇子である、阿保(あぼ)親王(792-842)の別荘地があったことによる。

親王は、平安時代初頭の弘仁元年(810)に起こった、薬子の変に関連して、大宰権帥(だざいのごんのそち)として九州へ左遷されましたが、弘仁15年(824年)平城上皇の崩御後、叔父の第52代嵯峨天皇(786-842)によってようやく入京を許された。

 

天長3年(826年)子息の行平・業平等に在原朝臣姓を賜与(しよ)され臣籍降下させられ、ここからなじみの在原業平、“男ありけり”が登場するのだ。

 

翌天長4年(827年)上総(かずさ)太守に任ぜられるが、親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介ではあったが・・・。

天長10年(833年)第54代仁明(にんみょう)天皇の即位後まもなく三品に叙せられると、仁明朝では上野太守や治部(じぶ)卿・兵部卿・弾正尹(だんじょういん)等を歴任した。

目まぐるしい忙しさだと思うのだが、承和元年(834)に河内国丹比郡田坐に別荘を造営したと伝えられており、その地が現在の阿保から田井城のあたりと考えられている。

 

阿保親王が河内国丹比郡に別荘を造営したと伝える背景には、平城天皇の更衣(後宮の宮女)であった母の葛井宿禰藤子との関わりが考えられます。

葛井氏は百済系渡来氏族で、飛鳥時代から奈良・平安時代にわたって、河内国志紀郡長野郷(藤井寺市)を本居としていました。

 

7世紀半ばに建立された葛井寺は、葛井氏の氏寺でした。永正7年(1510)、三条西実隆が記した寺記『西国三十三所名所図会』には、阿保親王が同寺を再興したと伝えています。

親王の母が葛井氏の出身であったことから、親王が当地に住み、伽藍の修復をしたと伝えられたのでしょう。

 

『続日本後紀』によれば、親王は性格は謙退で、文武の才能を兼ね、絃歌に秀でて、この地の灌漑や農業生産を奨励し、善政を施したいたといいます。

 

しかしこの後再び事件が起こるのだが、承和9年(842年)橘逸勢(782?-842)らから東宮・恒貞親王(825-884)の身上について策謀をもちかけられるが、阿保親王は与せずに逸勢の従姉妹でもあった皇太后・橘嘉智子に密書にて報告し、判断を委ねた(承和の変)。

 

ところが親王は、変の3ヶ月後の10月22日に急死し、最終官位は弾正尹三品であったが、葬儀にあたって、承和の変で反乱を未然に防いだ功績により、一品の品位を追贈。

 

死因は明らかでないが、親王が変後全く参内しなかったことや、その死がきわめて急であったことで、いろんな憶測ができるのだ。

 

嵯峨上皇〈承和9年7月15日〉・橘逸勢〈承和9年8月13日〉、そして親王が〈承和9年10月22日〉と並べてみると、三筆と称された空海(774-835)らとのサロンも懐かしく思われ、ひょっとしたら親王は、逸勢の死を悔悟していたかもしれないと道の旅人は思った。