孝徳天皇陵

 

太子町の地図

 

竹内街道は、六枚橋を渡って、第36代孝徳天皇(596-654)陵に至るけれど、梅鉢コースをとった道の旅人は、小野妹子の墓から、餅屋橋から竹内街道に入った。

ところで“六枚橋”とは、かつて六枚の木橋か石橋をならべて、飛鳥川を渡ったのであろうと想像はつくが、道の旅人はこれを、六道輪廻に結びつけていた。


餅屋橋六枚橋わたしには、生きるために殺生を繰り返すという、“地獄の罪”がある。


わたしには、物事にとらわれ過ぎて周りが見えないという、“餓鬼の罪”がある。


わたしには、やりたいことをして人を悲しませるという、“畜生の罪”がある。


わたしには、説明することができずに我侭を通そうとする、“修羅の罪”がある。


わたしには、煩悩に振りまわされ自分が理解できないでいる“人間の罪”がある。


わたしには、夢を持ちつづけながら人生に旅の塔を築こうとする“天上の罪”がある。

 

  飛鳥川 明日も渡らむ 岩橋の
       遠き心は思ほえぬかも
          (万葉集 2701)


これは“六枚橋”を歌ったものではないが、『明日にも渡って、遠く離れた人に逢いに行きたい』という想いが伝わってくる。ここは峠道で、ここからさらに急な坂道がつづいていく。そしてまた橋に出会うー“餅屋橋”という。

          大道横町のお菊の店で
              のれんの向こうの紅だすき
                  餅は食いたしお菊は見たし
                        おかげ参りの餅屋橋♪


伊勢参りで賑っていた頃、この橋の辺りで餅を振る舞っていたそうである。つまり、江戸時代のことなのだが、飛鳥時代の終末期に、官道沿いに孝徳帝が葬られたのはなぜであろう?道の旅人は、その梅鉢の、“ひとひらの謎”に迫りたいと思った。


孝徳天皇磯長(しなが)陵是(こ)の歳に、太子(中大兄皇子)は奏上して、「冀(ねが)はくは倭京(やまとのみや)に遷(うつ)らむ」とまをしたまふ。天皇(孝徳)、許したまはず。皇太子、皇祖母尊(皇極上皇)・間人皇后(はしひとのきさき)を奉(ゐたてまつ)り、并(あは)せて皇弟等(すめいろどたち)を率(ゐ)て、往(ゆ)きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはへのかりみや)に居(ま)します。
                        (日本書紀『孝徳天皇』)

このために孝徳天皇は恨んで皇位を去ろうとお考えになり、宮を山碕(やまさき)に造らせ歌を間人皇后にお送りになって、

金木(かなき)着け 吾(あ)が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか

 

中大兄皇子(626-672)が、難波長柄豊崎宮から、母の皇極(孝徳の姉)と妹の間人皇后、それに弟の大海人皇子を引き連れ、まるで叔父たちと縁を切ったように去って行ったのだ。  (653年)

 

難波に宮を置いた孝徳帝により、世に言う大化の改新(645年:初めて元号)が行われたのである。日本書紀』の評によれば、「天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した」とある。

もちろん、中大兄を皇太子とした。そして周りに、阿倍倉梯麻呂(有間皇子の祖父)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(“乙巳の変”の合図)を右大臣にした。さらに、中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とし、僧旻(みん)と高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士としていた。孝徳”の名が示すように、失政はなかったと思うのだが・・・。

大化2年(646年)には、「吾の墓は丘の上の開墾できないところに造り、代がかわった後には、その場所が知れなくてもよい」としたのだ。

ところが653年、ブレーンであった旻が亡くなり、中大兄皇子が吼えたってわけだ。

 

  陵(みささぎ)は、うぐひすの陵。かしはぎの陵。あめの陵。(清少納言『枕草子』)

 

このうぐひすの陵が、鶯塚古墳(若草山)じゃなく、この孝徳天皇陵をさしてるかもしれない。と云うのも、この竹内峠に鶯の関があり、歌にもなっているからだ。


  我思ふ 心もつきぬ 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関    (康資王母『明玉集』)

 故司馬遼太郎氏の筆による碑が、県境にある。この和歌の作者は康資王(やすすけおう)ので、和歌は鎌倉時代中期の『明玉集』に所収されている。しかし、作者は平安時代の歌人であり、必ずしもこの峠を歌ったものではないと思われる。

 山に入って鶯の声を聞くと、道の旅人も、しばし足を止めて周りを見渡し、耳をそばだてることがある。そのように、鶯が旅往く人を留めるところから、各地の峠で“鶯の関”として歌われたのではないだろうか?

大阪府と奈良の県境 私が、昭和十八年の秋にこの竹内への坂をの
ぼったとき、多少いまから思えば照れくさいが、まあどうせ死ぬだろうと思って―兵隊ゆきの日がせまっていたので―出かけたのだが、登ってゆくその坂の上の村はずれから、自転車でころがりおりてきた赤いセーターの年上の女性(
といっても二十二、三の年頃だと思うが)がいて、すれちがいざまキラッと私に()微笑し、ふりかえるともう坂の下の長尾の家並みの中に消えていて、ばかばかしいことだがいまでもその笑顔をおぼえている。
   (司馬遼太郎『街道をゆくニ 竹内街道』)

 大和側からのぼってきた坂の出来事である。そこで司馬氏は、葛城の乙女とすれ違うわけだが、道の旅人も、このまま一気に国道を降りれば、その自転車は麓まで五分もかかるまい。いや、三分とはかからないかもしれない。しかし、出会いの誘惑に負けず、竹内街道にこだわりたければ、傍らの山道を下っていくべきであろう。

 ここに“長尾の家並み”とあるのでついでに言っておくと、この竹内街道の北側をほぼ平行に東西に通じているのが長尾街道である。この長尾街道を知れば、竹内街道を走って、長尾街道で戻ってくるということもできる。