隼人石

駒ヶ谷駅・上ノ太子駅付近の地図

 

道の旅人は、石川を渡って駒ヶ谷に向かった。竹之内街道は、近鉄南大阪線に沿って走っているのだが、その駒ヶ谷駅の南側の踏切を渡って大黒寺へと向かう。と云うのも、ここが大黒天発祥の寺なのである。

 

大黒寺境内の打出し小槌

 「日本に来りては、大黒天と称す 福徳自在の福の神である。 左の手に袋を持つ、この中に一切の福徳を納めている。 右の手に槌を持つ、この槌は一切の悪魔を降伏(ごうぶく=打ち負かす)し 諸々の災難を除き、宝福を打ち出だす 打ち出の小槌なり。

我に五つの福を授ける誓願あり、第一に父母に孝行の福 第二に子授け、子孫長久の福 第三に病気平癒の福 第四に武運長久の福 第五に農民には五穀豊穣、商人には商売繁盛の福である。 甲子(きのえね)の日に礼拝し帰依信仰すれば、この五つの福徳寿命が授かり、諸願成就せしめん」と告げられた。

と云うわけで、天智天皇の四年(665)、役の行者(631?~701?)が、金剛山で修行中、桜の木を刻んで大黒天をつくり、本堂を建てて安置したのが始まりである。

 

ところで、役の行者の大黒天は、暗黒のイメージを持ち、戦闘神である。だから顔も憤怒の形相をしていたと思われる。この大黒天が大黒さんと親しまれるには、最澄(台所の守護神として)や空海(護法の神として)を待つ必要があったんよ。

つまり、インドの神様が、中国を経て日本に入り、出雲神話の大国主命と結びついて、神仏習合の大国(だいこく)さんともてはやされたってわけ。まぁ、闇の神(鎌倉時代まで)が、福の神(室町時代以降)になっていったんだよなぁ。

 

 

その大黒さんが、この寺の駐車場から入ると迎えてくれる。しかも、境内へと進むと、所狭しと、残りの六福神が待ち受けてるんよ。そこで次のような、”めでたい話”が浮かんできたんだ。

      

                            ぐるりっと家を取り巻く貧乏神
                      七福神は外に出られず (仙涯和尚?)

 

大黒寺は、駒ヶ谷駅の南西の方角にあり、それとは逆に逢坂橋を渡ると、延喜式内大社の杜本神社がある。この本殿に獣面人身を刻まれた隼人石があるのだ。子(ネ)のようにも見えるし、戌(イヌ)のようにも、丑(ウシ)のようにも思える。はたまた午(うま)と言われても納得しそうだ。

 

隼人石ズームイン隼人石
























 

隼人といえば、薩摩か浮かぶように、南の武人なのだが、この“隼人石”と名付けたのは、江戸時代の考証家、藤原貞幹(さだもと)である、それまでは「狐石」と呼ばれていたようだが、貞幹は「延喜式」に載る隼人が、宮中に仕えて警固の時に犬吠をするという記述から、獣頭人身像に隼人を連想したようだ。さらに伴信友は、『隼人と狗犬』の中で、儀式で犬の仮面をかぶったと推定しています。魂魄(こんぱく)となった天皇を、石像の隼人が守衛していると見たのである。奈良市の聖武天皇(しょうむてんのう)の皇太子の「那富山墓(なほやまのはか)」にある十二支を表しているという、4つの石像に似ているんよ。

 

 隼人(はやひと)の名に負ふ夜声いちしろく わが名は告(の)りつ妻と侍ませ

                               『万葉集 巻Ⅺ-2497』

 

火酢芹(ほすせり)命の苗裔(のち)、諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠(ほ)ゆる狗(いぬ)して奉事(つかえまつ)る者なり

 とあるが、この故実にもとつくように、隼人は朝廷に仕えるに際しては、狗の吠え声を発していたと云う。

 

中国の古典『周礼(しゅらい)』を注釈した後漢の鄭玄(じょうげん)《117~200》は、「朱雀」を「鳥隼(ちょうしゅん)にあてはめている。 (中村明蔵『隼人の古代史』)


こうして、隼人の謎は尽きぬのだが、道の旅人は 杜本神社からそのまま街道を行くと、月読橋が架かっている飛鳥川に出くわす。その上流50メートルほどに歌碑があるが、月を読んだものでなく、この川に流れる葛城(二上山)の紅葉を歌ったものである。


  あすか川もみじ葉ながる葛城の 山の秋風吹きぞしぬらし (『新古今集』人麿)
 本歌は人麿の歌と称される、万葉集の“詠み人知らず”である。
  あすか川もみじ葉ながる葛城の 山の木の葉は今し散るらし (万Ⅹー2210)
 
駒ヶ谷の金剛輪寺の住職だった覚峰が建てたのは、この歌が大和の飛鳥川でなく、河内の飛鳥川であることを知らしめるためである。そのために、詠み人知らずより、人麿の名が必要であったのであろうか?しかし、みずから命名した月読橋に立てば、この新古今集にこそ、下二句のイメージが明らかになるのだ。

 

「役行者錫杖水」碑この葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行ったのが、役行者である。

その役行者と思われる像に、駒ヶ谷から上ノ太子へと向かう途中出会ったが、どうやら地蔵さまであった。

それでも、道の旅人は、この地蔵さまに憤怒の行者小角を見る思いがしたのだ。

しかし、何故そんな思いがするかというと、彼が生涯修験者であり、その内面は常に研ぎ澄まされていたからだ。
修験者は、山の旅人であるが、当時、未曾有の山に入るということは、生きて戻れるかどうかわからなかったはずだ。

この役行者については、もっと学ばねばならない。しかし、空を飛ぶ役行者に、道の旅人は、どうしても謎の域を脱することができないでいる。

しかも、『続日本紀』では、その能力が天皇の力も及ぶことができないと、はっきり読み取れるのだ。

 

まさに神出鬼没なのだが、寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表し、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡が贈られたのだ。実はその役行者の道が、この上にあった。