柴籬神社

松原市周辺の地図

 
竹内街道(岡→立部)を東に駈けていくと、松原南図書館で南北に走る中高野街道(三宅→丹南)に出会う。この中高野街道に沿って北側に向かうと、『岡センター』があり、その裏側に“正井殿(まさいでん)”が位置する。

正井殿 この正井殿の境内に、江戸時代前半ご ろ「連理の松」とよぶ河内でも評判の松が みられたのです。「連理」とは1本の木の枝 が他の木の枝につき、1本の木のように木 理(もくり)が同じになることです。

 巣やかけん比翼連理の松の枝

            意朔

 歌にある「比翼」は「連理」と結びついて 「比翼連理の契り」ということばになって、男女・夫婦の仲がきわめて親密なことのたとえに使われています。そこから、縁結び や安産の神木として崇拝されるようになり ました。

                狂歌 しなたれるひよく連理の松ヶ枝に 人目も恥もしら藤の花   利光
   

「家庭を持つ」とか、「家族をつくる」とか、と言うことになると、“比翼の鳥”ということもわかる。やがて子どもも大きくなり、夫婦も30年も連れ添うと、それぞれの生き方やリズムができ、枝振りの違いがあっても、似合いの夫婦と言うことになる。これが“連理の枝”なんだろうけど、足を引っ張ることもあるけれど、お互いが成長していくのが夫婦であろうと思うと、それを踏まえて“比翼連理”を用いるものかや、と考えたりする。
 次に掲げたのは『長恨歌』で、“恨”とはまたこの場にふさわしくないけれど、玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスと、その顛末を謳ったものである。

 在天願作比翼鳥     天に在りては 願わくば 比翼の鳥と作(な)り
 在地願爲連理枝     地に在りては 願わくば 連理の枝と為(な)らんことを
                             (白居易『長恨歌』)
       

 中高野街道を更に北へ進むと、四つ角に出る。そこを西に折れてしばらく行くと池を左手に見ることができる。松原第六中がその一角を占めているが、そこに、漢字を日本にたたえたと云う、“王仁(わに)の聖堂址”がある。

 十六年の春如月に、王仁來(まうけ)り。則(すなは)ち太子(ひつぎのみこ)菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ:仁徳天皇異母兄)、師(みふみよみ)としたまふ。諸(もろもろ)の典籍(ふみ)を王仁に習ひたまふ。通り達(さと)らずといふこと莫(な)し。所謂(いはゆる)王仁は、是(これ)書首(ふみのおびと)等の始祖(はじめのおや)なり。                                                                                                                      (日本書紀『応神天皇』)

 王仁(わに)の聖堂址六中前は、池に突き出た岬状となっており、そこに出岡弁財天(聖堂址)が祀られています。
 聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子 を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のことですので、王仁が聖堂を建てた事実は不 確かです。
 摂津、河内、和泉の各地に、王仁を祭る墳墓、王仁ゆかりの寺など、王仁に関する伝承地が散在している。段 煕麟(たん    ひりん)『大阪における朝鮮文化』などを参照してそのいくつかをあげてみると次の通りである。


 ①大阪市大淀区大仁町の「大仁」は「王仁」の転字であり、その地の八坂神社の裏の、
      一本松稲荷大明神は王仁の墓と伝えられ、「
王仁大明神」とも呼ばれていた。
 ②大阪府高石市の高師浜の高石神社は、『和泉名所図絵』に「高志の祖、王仁を祭
  る」とある。
 ③大阪府堺市三国ヶ丘には、もと東原天主社があって王仁を祀るとされ、後に旧郷社
  方違神社へ移転合祀された。

 
 次の歌は、王仁が仁徳天皇に奉ったといわれている。

   難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
                    (紀貫之『古今集仮名序』)

 

ただこの地に立ち寄った、王仁についてはわからないけれど、その歌碑なら、古代の地として有名な猪飼野(いかいの)に鎮座する、御幸森(みゆきのもり)天神宮境内(大阪市生野区)にある。さらに王仁塚なら、大阪府枚方市にあり、百済から日本に伝えたとされている千字文と論語の碑もある。
 
 
 
さらに中高野街道を北上して、スーパー玉出の手前の露地を東に折れると、柴籬(しばがき)神社である。


歯磨き面ここが反正天皇の都であった丹比(たぢひ)柴籬宮である。
 60歳で崩御された天皇の在位期間は、406年1月2日~410年1月23日で、宮としては短期間であった。
 この宮を訪れた文人は多く、井原西鶴の句もある。

「柴籬宮 “むくけうへてゆふ  柴垣の都哉”」
 
ここに歯の神様がおられ、その 歯磨き面”には、『上面歯 右(夷歯)・上面歯左(大黒歯)を指先で触って、健康と丈夫な歯でありますようご祈念下さい』とある。
 
もちろん、この神様の正体は、反正天皇の和風謚号、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)の立派な歯からきている。

 

歯は健康のもとであり、老いてなお、自分の歯で咀嚼できるのは喜びである。咀嚼できれば、胃腸も弱まることもない。旅する者にとって、歯は大事である。道の旅人は、歯磨き面にお祈りをして、次の道のことを考えていた。


 竹内街道では、この松原市を“あっ!”という間に通りすぎてしまうのだが、松原市を識るうえでもっとも重要な街道は、中高野街道だと言える。いずれその章で、松原市を語ろうと思う。