ザビエル公園

ザビエル公園(ザビエルこうえん)は大阪府堺市堺区櫛屋町西1丁にある公園で、正式名称は戎公園である。

もちろん、かのフランシスコ・ザビエル(1506-1552)のことなのだが、彼が堺を訪問したとき、もてなしたのが豪商・日比屋了慶(生没年不詳:1564年受洗名ディオゴ)で、その屋敷跡なのだ。

 

ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇(1497-1557)および征夷大将軍・足利義輝(1536-1565)への拝謁を請願していたが、献上の品がなかったためかなわなかった。

 

その彼は、日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」と高評価を与えている。

天文19年(1550年)12月 聖ザヴィエル堺に上陸し日比屋了慶の館に入った。是(こ)れ西洋文明伝来の始(はじまり)で近世日本文化は茲(ここ)に花と匂った。

 

ルイス・フロイス(1532-1597)もまた、1563年に上陸し、戦国時代の貴重な資料となる『日本史』を記してくれるのだ。

堺に到着したのは1565年だが、この時の同行者がルイス・デ・アルメイダで、商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を導入し、日本初の病院を作ったことで知られる。

 

日比屋モニカは、貿易商人・豪商で堺のキリシタンの中心人物である父了桂のもとで育った敬虔なキリシタンであったが、その婚約は彼女の意に染まぬものであったため、宣教師に相談して結婚を拒否しようとした。

 

その相談を受けたのがアルメイダで、自分自身のことに大いに警戒するようにと切に言い聞かせて、彼女に別れを告げた翌日、彼はその父に三つの課題、第一にその人が異教徒であり、第二に彼女の叔父であること、第三に彼女は結婚問題に全く関知しないと申しました。 

ザビエル公園を南に進み、大小路をわたると、『さかい利晶の杜』にあるが、その向かいが千利休屋敷跡なんよ。

さらに東側の宿院頓宮のあたりには、武野紹鴎屋敷跡や今井屋敷跡があるのだ。

つまり、今井宗久(1520-1593)に津田宗及(?-1591)、そして利休(1522-1591)の三人が天下三宗匠と呼ばれているのだ。

了慶は生没年不明だが、彼らと交流があり、もちろんお茶会が開かれ、宣教師たちもおもてなしを受けていたかもしれない。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。

死後、利休の首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)され、首は賜死(しし)の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

 

人生七十(じんせいしちじゅうなり) 力囲希咄(つとめきせつをかこむ)

吾這寶剣(われはこのほうけんぞ)  祖佛共殺(そぶつをともにころす)
提我得具(われをさげてぐをえるも) 足一太刀(たりるかなひとたち)
今此時天抛(いまこのとてんになげる)

上記の画像は、利休居士聚楽屋敷跡であり、切腹した場所だが、【利休と織部】のことを考えても不思議としか言いようがない。

 

ここに、『利休切腹』(中村修也)があり、細川三斉(忠興)の、「利休は堺で切腹した」(1591年)で始まっている。

細川氏の家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』では、その介錯と検死役は細川家の家臣なのだ。つまり、巷では利休像の処刑とか売僧(まいす)の梟首で騒がれてはいたが、利休生存説が浮き彫りされたのである。

その証拠が、大政所付き侍女宰相秀吉書状(1592年)に、「りきうのちゃにて」とあり、朝鮮出兵のために在陣していた、九州の名護屋城からの返書なのだが、さらに前田玄以宛書状には、「ふしみのふしんの事、りきうにこのませ候て」とあるのだ。

 

少庵(養子)が千家を再興した後、秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、秀吉は「宗易が手前によく似たる」と褒めた。『茶話指月集』

呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん、1565年? - 没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人である。

 

『太閤記』などによれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た。

文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉に対して、蝋燭・麝香・真壺(まつぼ)・ルソン壺(呂宋壺)・唐傘、そして香料など珍品を献上し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。

 

慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した。

豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物に、曽呂利新左衛門がおり、落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残している。

 

それも、堺で刀の鞘を作っていた杉本新左衛門(坂内宗拾)という鞘師で、作った鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。

茶道を武野紹鴎に学び、香道や和歌にも通じていたという(『茶人系全集』)のだが、『時慶卿記』に曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなどがあり、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある。 

秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせた。

秀吉から褒美を下される際、何を希望するか尋ねられた新左衛門は、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と指数関数の法則で日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望したおり、米粒なら大した事はないと思った秀吉は簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。

御前でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに「おならして国二ヶ国を得たりけり頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)」という歌を詠んだ。

ある時、秀吉が望みのものをやろうというとに「耳のにおいを毎日嗅がせてほしい」と願い、人々の前で口を秀吉の耳に寄せるようになったけれど、大名たちは陰口をきかれたかと心落ち着かず、新左衛門に山のような贈物を届けたという。

花田口を東に進み、南海高野線堺東駅の北側の地下道を潜ると、方違(ほうちがい)神社に出遭うが、その社伝では、崇神天皇8年12月29日(紀元前90年)に、勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を、茅渟の石津原に遣わせて須佐之男神を祀らせたとあり、これが創建の起源だという。

その後、神功皇后が三韓征伐終了後に忍熊王の叛乱に遭った際、当地に天神地祇を祀って方災除けを祈願し、合戦に勝利したのだ。

更に応神天皇が須佐之男神と天神地祇の他に三筒男神(住吉大神)と神功皇后を祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と号し、この社を方違宮と称したとされる。

三國山(みくにやま)木末尓住歴(こぬれにすめり)武佐左妣乃(むささびの)此待鳥如(ここまつとりに)吾俟将痩(われまちやせむ)【万1367】

題辞が『獣に寄せる歌』となっており、必ずしも、三国山がこの地を指しているとは言えないが、「三国ヶ丘の、梢にいるという鼯鼠(ムササビ)のように、今はその“身細(むささ)び”というわけではないが、ここで待つ鳥になって痩せぼそっていくのでしょう」

摂津、河内、和泉の三国の境界なるが故に、“三国山”また“三国丘”とも称され、この三国の境(ちなみに“堺”の地名はこれに由来する)で何処の国にも属さない方位の無い清地であるという考え方に依り、その境内の御土と菰の葉にて作られた粽は悪い方位を祓うという信仰を以て、古きより方災除の神として御神徳を仰ぐ参詣者が全国より訪れます。


それをこの歌から読み取ると、どこへいてよいかもわからずただ待ち続けるだけの姿が見えてくる。

古来より方災除の神として知られ、普請、転宅、旅行等には御神札、御砂、粽を受け、方除の祈祷を望む人が多いのです。

この神社の南側にある古墳(百舌鳥耳原北陵)が、第18代反正天皇の御陵なのだが、第16代大鷦鷯(おほさざき)天皇(仁徳天皇)の第三皇子であり、天皇の崩後(399年)、叛乱を起こした第二皇子住吉仲皇子(すみのえなかつみこ)をその近習である曽婆訶理(そばかり)を利用して誅殺した。

第一皇子である第17代去来穂別(いざほわけ)天皇(履中天皇)が崩御(405年)し、第三皇子であった、瑞歯別(みつはわけ)皇子が即位し、和風諡号は多遲比(たじひ)瑞歯別天皇(『日本書紀』)なのだが、この多遲比が蝮(まむし)であることに、道の旅人は気になったまま次の道を急いだ。