島泉丸山古墳・島泉平塚古墳

 大塚山古墳の東側は、南恵我之荘なのだが、恵我という地名は、会賀・餌香・恵賀・衛我とも書かれ、餌香川や餌香市として『日本書紀』にも出てくる古くからの名称です。

また、大和王権の仲哀天皇の墓を「恵我長野西陵(にしのみささぎ)」、応神天皇の墓を「恵我藻伏崗(ふしのおか)陵」、允恭天皇の墓を「恵我長野北陵」とよんでいますが、これらの伝承陵は、それぞれ藤井寺・古市・土師ノ里駅付近に所在しています。  

こうしたことから、恵我の名は松原市東北部から藤井寺市や羽曳野市西部・北部までを含む広域地名とみることができる。

 

平安時代には、荘園の発達に伴い会賀荘あるいは会賀牧とよばれる後院領(天皇の譲位後の御座所のことで皇室領)であった。

会賀荘の住人は、河内牛を飼育して皇室に貢進していましたが、御牧の威光により各種の賦課を免除されていました。

 

こうしたことから、彼らはほかの荘園や公領の住人に対して優越感を持ち、皇室領の住人であることを誇りに感じていたようです。

時には、権威をかさに横暴な振る舞いもみられ、 会賀荘の有力農民のうちには鎌倉末期ごろから土豪化し、武士となるものもいました。

河内大塚山古墳(西大塚・南恵我之荘)に城をかまえた丹下氏は、その典型であると考えられています。

丹下城の創築年代は明確でないが、鎌倉時代初期、この地方に鎌倉より下向し土着した佐々木高綱の子孫の丹下氏が築造したものである。

 丹下氏は市域東部の西大塚から羽曳野市南恵我之荘周辺を根拠とした土豪武士です。

とくに、丹下城は羽曳野市誉田の応神天皇陵古墳を利用した誉田城につぐ巨大な城郭であったと思われます。

 

 建武4年(1337)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市(羽曳野市)に陣を張っていた南軍を攻めました。

しかし、野中寺(羽曳野市野々上)前で合戦となり、南軍の岸和田治氏(はるうじ)によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われました。

また、翌年も南朝方の和田氏の攻撃を受け、数日間の攻撃に耐えていたが、当時の城主は丹下八郎太郎といったようで、丹下氏は松原荘にも城郭を構え(支城か)、そこを攻められ息子が討たれている。

以後、戦国時代末期に至る間、丹下氏の動向は不明だが、天正三年(1575)の織田信長の河内国城郭破却令によって丹下城は破却。

南恵我之荘の東側に恵我ノ荘の駅があり、その北側が「西川八幡神社」で、東除川左岸(西岸)の旧河内国丹南郡西川村集落の西のはずれに当たる場所です。

そこから東に向かうと、明教寺があり、現在の建物は江戸時代(17-19世紀)に再建されたものですが、もとは推古天皇の頃の創建と伝えられています。

山門・鼓楼・本堂・庫裏などがあり、寺宝として明教寺旧境内古図、豊臣秀吉や徳川家康らの書状などが残されています。

598 年、推古天皇が見た夢は、白衣の老婦が鳳凰に乗っ て舞い降りる夢だった。

 

その老婦は天皇に、「志那津川(しなずがわ)の周 辺は、高鷲の井がこの上なくきよらかでけがれのない特別な地域なので、 そこに寺を建立すれば、世の中は安穏になり、住みやすくなるでしょう。

私は高鷲の地主でこれからつくられる寺をまもる者です」と告げたのだと 言う。

 

 

推古天皇からその夢を聞いた聖徳太子は、高鷲の地に「鳳凰寺」を 建立した。

 

志那津川とは、狭山池を水源とする、現在の東除川の事である。

 

これに由来して、明教寺の住職の姓も、不死川 (しなずがわ)と言うのだが、島泉の地名の由来についてはこんな話もある。

 

764 年。孝謙天皇が「鳳凰寺」に行幸した折、随 行の官人らが志那津川の中の島を掘ると、清水が湧 き出たといい、その事から、この地を島泉と呼ぶように なったという。

 

1615 年、大阪夏の陣で焼失した明教寺はその後再建され、本堂は 1984 年の大修理を 経て今に至る。

常時開かれているという本堂の中は静寂に満ちており、その欄間は江戸 時代から変わらず使われているものだ。

内陣に安置された阿弥陀如来像の上の天井には、 鳳凰寺の名に相応しく極彩色の鳳凰の絵が描かれており、またその壁にも鳳凰が羽ばた いている。

 

この明教寺の北に吉村家住宅がある。 

吉村家住宅は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣でそれまでの建物を焼失し、直後に建築された豪農の住宅は、客室に桃山時代の書院造様式を残す建物で、独特の風格と美しさを持っている。

長屋門、武者窓、土間、座敷など見るべきところは多く、主家は民家で最初に国宝(現重要文化財)に指定されている。

吉村家の祖先は、鎌倉時代初期、当地付近に土着した佐々木高綱(ささきたかつな:宇治川先陣争い)の子孫と伝えられ、天正(てんしょう)年間 以後は姓を「吉村」と改め、江戸時代初期には庄屋兼代官、正徳(しょうとく)年間以後は18ヶ村の大庄屋をつとめてきた名家である。

代々丹比野(たじひの)の有力名主で、南北朝から戦国時代にかけては丹下一族と言われる土豪でありました。

 

吉村家はかつて、周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めた家柄である。 主屋は大坂夏の陣で焼失後、間もなく再建された歴史ある家屋である。

その後幾度か増改築が行われ、現在の姿となったのは寛政年間の頃であり、屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。

これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいい、上層農家の家格を示すものである。  

長尾街道に話を戻すと、東除川に架かっている高鷲橋(明治7年:1874)を渡れば、羽曳野市で、当時街道中央を境に、南東詰は丹南郡南島泉村、北東詰は丹北郡島泉村、南西詰は丹南郡西川村(現:恵我之荘)が羽曳野市で、ちなみに北西詰が松原市の丹北(たんぼく)郡一津屋村なのだ。

高鷲の地名は、『古事記』や『日本書紀』の中に、雄略天皇の陵が河内国多比(たじひ)郡の高鷲原(たかわしがはら)にあるとして、陵名を「多比高鷲原陵」と記していることによる。

島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)または高鷲丸山古墳(たかわしまるやまこふん)は、大阪府羽曳野市島泉にある古墳で、形状は円墳、古市古墳群を構成する古墳の1つ。

 

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として、第21代雄略天皇の陵に治定(じじょう)されている。 島泉平塚古墳(しまいずみひらつかこふん)または高鷲平塚古墳(たかわしひらつかこふん)は、丸山古墳の東南東約100メートルの位置にある古墳(位置)で、形状は方墳。宮内庁により丸山古墳と合わせて雄略天皇の陵に治定されている。

元治元年(1864年)までは丸山古墳のみが雄略天皇陵とされ、平塚古墳の古墳域は小高い田畑であったという。同年に平塚古墳は雄略天皇前陵として陵域に取り込まれ、後年の修陵で両古墳は合わせて前方後円形に整形された。

現在では一辺約50メートル・高さ8メートルの方墳とされ、墳丘は2段または3段築成とされるが、主体部の埋葬施設は明らかでない。

篭毛與(こもよ)美篭母乳(みこもち)布久思毛與(ふくしもよ)美夫君志持(みぶくしもち)此岳尓(このをかに)菜採須兒(なつますこ)家告閑(いへのらせ)名告紗根(なのらさね)

虚見津(そらみつ)山跡乃國者(やまとのくには)押奈戸手(おしなべて)吾許曽居(われこそをれ)師吉名倍手(しきなべて)吾己曽座(われこそをれ)我許背齒(われにこそは)告目(のらめ)家呼毛名雄母(いへをもなをも)【万Ⅰー01】雄略天皇御製

 

こもあたへ びなるかごもち ふくしもと びなるふくしも このをかに なをさいするこ

いへつげし なをつげさりね そらみつの やまとのくには おしなべて われこそおらめ

しきなべて われこそいませ われこそは つげてめをかけ いへよもなをも 

大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇の御代に編纂された延喜式神名帳河内国丹比郡に「大津神社三座 鍬靱」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていた。

 

三座:百済第14代近仇首王(きんきゅうしゅおう)・第16代辰斯王(しんしおう)、そしてその子である辰孫王(しんそんおう)である。

 

続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に、

「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫(シンソン)王を入朝させた」とある。

ところが、記紀には「辰孫王」の記述は無く、『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されているだけなのだ。

 

 当社由緒略記によれば、 

応神天皇(270-310在位)の頃、この地方には、百済貴須(きゐす)王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。

この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である

 

このようにして、大津神社は津氏一族の守護神として創祀されたが、津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ヶ村の人々の氏神として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられた。

その後、仏教の隆盛に伴い、本地垂迹説に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に真言宗の宮寺大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けることとなる。

広く世の人々からは「北宮の午頭さん」と称えられ、明治維新になると、新しい神社制度によって神仏混淆が厳しく禁じられたため、高鷲・埴生両村の氏神とし大津神社に改称された。