允恭天皇陵

大阪平野の南東部、大和川と石川の合流点にあり、市域はほぼ平坦。古代には河内国府が置かれ、堺と奈良を結ぶ長尾街道(古代の大津道)と竹内街道、高野山へ通じる東高野街道が通じていた。

大津道は東西に一直線に延びる道筋が推定されていますが、現在の長尾街道は必ずしも直線ではありません。

西から藤井寺市域に入る迄はおおむね直線の形態を残していますが、藤井寺市域に入ってからは突然南寄りのルートに変わります。

直進していれば、志貴縣主神社の北側付近を通過していたはずで、なぜこのようなルートに変化したのかはよくわかっていません。

街道が市野山古墳(允恭天皇陵)の後円部の堤の上を通っているので、陵墓管理体制が崩れた中世以降に大きな変化があったのかも知れません。 

羽曳野市から藤井寺市に入り、道なりに進むと、間もなく善光寺に出遭う。

 

天正年間まで津堂城山古墳の後円部外側に接する小字名善光寺屋敷址といわれる位置にあったが、天正年間織田信長の河内小山城攻めの折、小山城と共に戦火をうける。

堂舎焼失後、西誉宗珍によって慶長年間(江戸時代初期)になって現在地に移転再建される。

 

それにもまして、小山善光寺は南面山無量壽院善光寺と称し、本田善光の伝説を持っている寺でもあったのである。

 

推古天皇の御代若使主東人(オカオミアズマビト)本田善光が信州に帰国する途中、難波の堀江で一光三尊仏を拾ってこれを背負って小山の里の隆聖法師の庵に宿泊した。

法師はその仏像をまつらせてほしいと善光に所望したが一体しかないので二人で三日三晩にわたり念仏したところ第三日目に一光三尊仏が二体になったので隆聖法師はその一体を入手して本尊とし河内小山に一寺を建立した。

 

本田善光は他の一体を背負って信濃に帰り信濃の善光寺の本尊とし、日本で最初に建立されたので日本最初の善光寺と称するようになった。

 

善光寺式阿弥陀三尊(ぜんこうじしきあみださんぞん)は、日本最古の仏像と伝承される。 

善光寺の前の街道が南北に走っている古市街道で、東西の長尾街道と交わっているのだが、ここで道の旅人は古市街道を北に走り、津堂城山古墳に向かう。

どの古墳がどの天皇のお墓であるかの選定考証は明治初期に開始され、明治20年ごろには陵墓が定まったのですが、城山古墳は陵墓参考地の選にももれてたのです。

その理由は、中世の築城で墳丘が大きく削り取られ、大型の前方後円墳だという認識がされなかったのではないかと推測されます。

明治の末年、地元津堂村でこの古墳の命運を左右する決議がされました。

 

それは、先年神社令によってとなり村の産土神社に合祀され、廃社となった村社八幡神社の石碑を建立しようという内容でした。

そしてその石材は城山古墳のてっぺんから調達しようというもので、城山古墳の後円部頂に石碑にもってこいの石材が埋まっていることは村人の多くが知っていたようです。

この石は古墳の埋葬施設である竪穴式石槨の天井石だったのですが、石材の掘り出しにかかってまもなく巨大な石棺が現われ、人々を驚かせました。

このニュースは新聞にも大きく報道され、多くの考古学者が駆けつけることになり、東京帝国大学の坪井正五郎博士や京都帝国大学の梅原末治博士等の報告が学会誌を飾り、城山古墳の石棺がこれまで知られていた石棺の中で最も大きく、しかも極めて精巧な作りであることが明らかにされたのです。

ところが、この当代一の石棺が埋められていた城山古墳は、陵墓や陵墓参考地ではなかったのです。

 

宮内省は急きょ対応を迫られ、苦心の対応策は次のような内容で、石棺は現地に埋め戻し、城山古墳の後円部頂を「藤井寺陵墓参考地」として追加治定し、出土した鏡や刀剣等の副葬品は一括して国が買い上げる。

このような経緯があって城山古墳の後円部頂が藤井寺陵墓参考地になったのです。(教育広報『萌芽』第5号 平成4年7月号より)

伴林氏(ともばやしのうじ)神社の創建の年代は明らかではありませんが、『三代実録』によりますと、清和天皇の貞観9年(867)2月26日、河内国志紀郡「林氏神」が官社に列せられ、 同15年12月20日に御祭神・天押日命に従五位が授けられたと記されています。

また、『延喜式』神名帳(907)に志紀郡・伴林氏神社と記載されていることから、 それよりはるか以前より道臣命の子孫がこの土地に住み、大和朝廷時代の名門として祖先を祀ってきたと考えられる由緒ある神社です。

 

つまり、『新撰姓氏録』河内国神別に、大伴宿祢の同祖で、室屋大連公の子、御物宿祢の後裔であるという「林宿祢」が登載されており、この氏族が当社を奉斎したものと思われます。

貞観九年(867年)の条には「志紀郡林氏神」が見え、当社と見て間違いないでしょうが、少なくともそれ以前から当社が存在していたと考えられます。

大伴 室屋(おおとも の むろや、生没年不詳)は、第19代允恭天皇(412-453)から第23代顕宗(けんぞう)天皇まで5代の天皇に大連として仕えた。

 

海行者(うみゆかば)美都久屍(みずつくかばね)
山行者(やまゆかば)草牟須屍(くさむすかばね)
大皇乃(おほきみの)敝尓許曽死米(へにこそしなめ)
可敝里見波(かへりみは)勢自等許等太弖(せじとことだて)【大伴家持:万4094より】

大井水みらいセンター」は、南河内地区を中心とする、6市(堺市・八尾市・富田林市・柏原市・羽曳野市・藤井寺市)2町(太子町・河南町)1村(千早赤阪村)が供用区域となる下水処理施設です。

藤井寺市中央部の北寄りにあり、大和川のすぐ近くにある敷地の南北は450mもあります。
西側に接して流れている小さい川は、雨水幹線の下水道でもある大水川(おおずいがわ)で、その水は大和川の南側堤防に沿って流れる落堀川に流入しています。

この大水川は、もともと昔からあった大水川のバイパス水路として造られた川です。

下水処理施設とセットで計画され、大井水みらいセンターの建設に先立って造成されました。

もとの大水川の流路は、現在も水路としてそのまま存在しており、南側に位置しています。

 

下水道は処理水(水みらいセンターできれいにした水)や汚泥(下水をきれいにした後に残る物質)等多くの資源をもっており、今後ともそれらを効果的に活用してより一層府民のみなさまに親しんでいただける水みらいセンターを目指して事業に取り組んでいるという。

 

大井水みらいセンターは歴史ある古墳群の中に位置しており、『古墳群の中の処理場』をコンセプトに、こんもり盛られた丘のうえに下水処理施設がつくられ、全体がまるで古墳のようなかたちをしています。

その特性を生かしながら、大井水みらいセンターでは、生駒山系の山並みや大和川などの周辺の自然景観を楽しめるような場内修景整備を進めています。  

允恭天皇(376? - 453)は、日本の第19代天皇(412-453在位)。

『日本書紀』での名は雄朝津間稚子(おあさつまわくご)宿禰(すくね)天皇。

中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

 

南北朝の宋の文帝時代の年号元嘉(げんか)20年(西暦443)、倭国王済、使いを遣わして奉献し、また以て安東将軍・倭国王となす。

元嘉28年(西暦451)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故のごとく、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。

倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群・古市古墳群(大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市)で営造されているため、済の墓もそのいずれかの古墳と推測される。

これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に済の墓は市野山古墳(現在の允恭天皇陵)に比定される。

また他の考古資料として稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の「王賜」銘鉄剣について、「王」と書くのみで自明な人物であることから、この「王」を済(または珍)に比定する説がある。

ただし稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文の「大王」とは一線を画する点が注意される。

 

倭の五王たちの時代は、漢字文化が成立していた時期であり、【済】は与えられた称号だとしたら、道の旅人にはそれは評価であると思えた。

つまり、【経世済民(けいせいさいみん)】(『抱朴子』)であり、【見賢思斉(けんけんしせい)】(『論語』)をあらわした倭王だと思うのだが、それが允恭天皇ということになる。