フロイス『日本史』Ⅰ

九州平定(1587)後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたとの讒言(ざんげん)を天台宗の元僧侶である施薬院全宗から受けたとされ、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し、① なぜ信仰を強制するのか ②なぜ牛馬を食するのか ③なぜ日本人を奴隷にして売買するか の三カ条について詰問した。

さらに、「何が理由でキリシタンたちは神仏の寺院を破壊し、その仏像を焼き、その他これに類する冒濱を行うのか」という詰問を行った後、バテレン追放令を発布したのだが、バテレン追放令で人身売買を禁じたとされているのに、実際に発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚書から削除されており、追放令を命じた当の秀吉にしても、勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。

 

秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反して、ロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している。

1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した。

 

秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった。

勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し、豊臣秀吉は時折宣教師を支援した。

第1章

「大坂教会」は、天満橋のたもとが、船着場のあった所ですが、「永田屋昆布本店」の一画に「八軒家船着場の跡」の碑が建てられており、その近くの階段道を登っていきますと、上は高台になっていまして、「北大江公園」として整備・利用されています。

この場所に、髙山右近が中心になって、多くのキリシタン達が協力し、美しいことで評判だった河内の「岡山教会」(四条畷市)を解体して、大坂まで運んで移築し、その甚大な経費全てを右近が引き受けたのです。

第2章

1583年12月25日、「降誕祭」(ナタル)の日に、大坂教会で初ミサがささげられ、新築された「大坂教会」や、近くにあった「髙山右近屋敷」を舞台にして、多くのキリシタン達が生み出されていくことになるのです。

ロレンソ了斎(りょうさい 1526- 1592)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本人イエズス会員で、名説教家として知られ、精力的な布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たした。 

第3章

天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じる。

そんな中天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。

これに対して中村一氏と松浦宗清は城兵8000兵で守り切った(岸和田合戦)のだが、この時、無数の蛸に救われたという、『蛸地蔵伝説』がある。 

第4章

 秀吉は世界規模で日本を見て、天下統一の拠点として大阪を選び、大阪城を築城し、当然京の都と大阪を結ぶ大動脈としての淀川を重要視して、淀川にちなんだ数々の足跡を残している。

天正11年(1583)から大阪城の築城が進められ、およそ2年間で巨大な石造りの外堀に守られた巨城が作られた。

城の周りには、北は淀川(今の大川)・大和川、東は猫間川、西は東横堀、南は玉造から末吉橋にかけて空堀に囲まれた、およそ2km四方の区域が大阪城となった。

第5章

ルイス・フロイスによると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。

それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げている。

フロイスは言及していないが、5つめの共和国は熊野三山と思われ、共和国と表現されたように、これら寺社勢力は地域自治を行っていた。

第6章

太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である。

本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられるが、水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。

第7章

時に天下は太平で、各地の武将たちは頻繁に成長を訪ねるためにお坂に出入りし、その機会に彼らの説教を聴聞し、われらの主なるデウスから選ばれたものが常に洗礼を受けていた。

彼らは何一つ物質的な代価を求めることなく、純粋な意図から改宗し、それまでの堕落した生活を一変し妾女・快楽・非道・不正義・残忍、その他の悪に染まった生活を放棄した。

第8章

大坂の街は、わずかに二里離れたところに海辺に位置し、日本の主要な市場である堺を有していることと、都に通じる街道筋にあることは、同市の発展に少なからず貢献した

そこに造営された宮殿・大坂城、居室・堀豪・庭園などは、万人が証言する通り織田信長が安土で実現したあらゆる構築、およびその雄大さもしのいだのである。

第9章

1586年(天正14年)には地区責任者として畿内の巡察を行ったガスパール・コエリョは、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。

秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟豊臣秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、大型軍艦の売却を斡旋してくれまいかと依頼したのである。

第10章

①関白は全領国において自由にデウスの教えを説く許可を与える。

②われらのすべての修道院や教会において、宿営の義務を免除する。

③われらは外国人であるゆえに、賦課・奉仕の拘束を受けない

この三か条に、関白夫人の口添えがあったのである。

第11章

 1586年11月22日ルカスは大阪に於て礫刑に処せられたのだが、その根本的な原因は秀吉が欲しくなるであろう筈のその絵をルカスから没収する野心にあったという。

小島屋道察は茶会用の名品 2 点を持っていたが、秀吉に両方とも取り上げられ、ルカス宗札が父奈良屋宗井から遺された 8000 クルザード以上の価値があるという、茶会用の玉礀の水墨画「枯木」も、秀吉のものとなった。

第12章

 ルイス・フロイスは「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで記している。

なお、フロイスは『日本史』の中で高台院を「王妃」もしくは「女王」と表現しており、豊臣政権においては大きな発言力と高い政治力を持っていた。

第13章

関白は九州に出陣のためにお坂を去るに先立ち、国境の諸城を兵士・武器・糧食などで固め、近江には五千の守備兵を付して三カ国の領主っ前田利家を残し、都の城には一万の兵士を付して甥の孫七郎殿(秀次)をとどめたが、それは白を守らせるとともに、かの地でなされるべき諸計画に備えてのことだといい、大坂の城と街には、一人として卓越した指揮官なり高名な人物を守備のために残さず、そこには凡兵とかねて配置した武将だけを留めた。

第14章

関白は八代から薩摩の国境へと進出し、川内(せんだい)と呼ぶ大河の畔に陣営を構えたが、時あたかも七月にあたり、日本では暑気厳しい折で、降り続く雨のために、全軍は幾日もそこになすすべもなく硬直状態に陥り、兵士の中には病人が続出し、一方こうした悪天候で五畿内からの食料の海上輸送は困難となって餓死者がれ㎜實跡を絶たぬ有様であった。

関白は、莫大な兵員の損失と食糧尾不足から、薩摩国内に深入りすることを憂慮し、幾日も前から死者を通じ、薩摩の老国主(義久)が関白の許へ服従を表明に出向き、その主だった家臣たちを人質として引き渡すならば軍勢を引き上げると強く要請するところがあった。(20230906)

第15章

 天正15年(1587年)2月、義昭は一色昭秀を使者として、島津氏に再び講和を勧めているのだが、このとき、義昭は秀吉の弟・豊臣秀長の意見を伝えると書状で記していることから、義昭のこの要請は秀吉の意向を受けたものであり、義昭と秀吉が連携を取っていたことがわかり、この時点でもなお、島津氏は義昭を主君として仰いでおり、秀吉が島津氏の面目が立つように、義昭の上意という形で講和の勧告を行ったと考えられるのだ。

第16章

 ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。

岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている

第17章

 バテレン追放令の際、秀吉は右近にだけは棄教を求めたというのも、右近が棄教すれば、他のキリシタン大名も従うだろうという読みでした。

ところが秀吉の読みに相違し、右近は所領・財産すべてを棄てても信仰を守ることを選ぶのです。

右近殿の友である御税の異教徒の武将たちは、博多へ彼を訪ねてきたが、彼らにはキリシタンであることを固辞し、むしろ所領を失うことを望んでいることが理解できなかった。

第18章

 1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えていたが、南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉の、『 吉利支丹伴天連追放令』の5番目に次の個所がある。

「自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」[いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する](天正15年)

第19章

 関白は我等の教えの最大の敵であり、されば、我等は、デウスとその教会の前で、真の証人として、デウスの聖なる教えこそ、唯一の真の教えであることを遵守し、生命を賭して暴君の命に反抗する必要があります。

というような、オルガンティーノ神父の総告白とも言うべき書簡が記され、最後まで司祭の任務を全うすることが出来るようにとの神への願いが記されている(下の司祭、修道士宛、小豆島発信、オルガンティーノ書簡)