『日本文学の歴史5』古代・中世篇5

源頼朝が鎌倉幕府(1192)を開き、政治の中心が上方から東国へ移ったが、京都は文化的中心であり続けた。

鎌倉時代には藤原定家らによって華麗な技巧に特徴がある『新古今和歌集』が編まれ、また、現代日本語の直系の祖先と言える和漢混淆文が生まれ、多くの作品も書かれた。

 

鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』などがこれにあたり、『平家物語』は琵琶法師により、室町時代には『太平記』が太平記読みにより語られた。

その他説経節等語り物の充実は、近世の浄瑠璃の隆盛へと繋がってゆき、御伽草子などの物語も一般民衆の間で読まれ、文芸が知識階級のみのものではなくなり庶民の間へも広まった。

 

女流文学も引き続き盛んであったが、平安時代中期とは異なり、日記文学が主流となったが、南北朝時代に、朝廷の衰微を背景にして、女流文学は途絶えてしまう。

室町時代には京都五山や公家が中心となり古典研究が行われ、また鎌倉時代から上句と下句を連ねる和歌である連歌も貴族から一般民衆までの間で行われた。

鎌倉時代の王朝物語

鎌倉時代に入ってからも、王朝文化をなつかしむ思いから多くの物語がつくられ、前代の物語文学の伝統を受けつぐものとしては擬古物語があり、『源氏物語』など王朝時代の古い物語に擬して作る物語の意で、多数の作品があり、初期(後鳥羽院政期から後嵯峨院政期の初頭にかけて)の『いはでしのぶ』・『風につれなき』などが成立した。

藤原定家作と思われる『松浦宮物語』(鎌倉時代初期)、平安時代の『落窪物語』の系譜をひく継子いじめの『住吉物語』(1221年頃)、『とりかへばや物語』を改作した『今とりかへばや』、また、『石清水物語』(鎌倉時代中期)、『海人の刈藻(あまのかるも)』(鎌倉時代前期)などが知られる。

評論の嚆矢をなす後述の『無名草子』には多数の作品名が記されているが、散逸したものが多く、現存するものは少ない。

一方では、激動する社会と武士の台頭を反映して軍記物語や歴史物語も多くつくられ、鎌倉時代末期になると、擬古物語は衰えをみせる。

 

鎌倉時代の日記文学

『飛鳥井雅有日記』(あすかいまさありにっき:1268-1275)は、雅有が記した4つの旅日記、『無名の記(仏道の記)』『嵯峨のかよひ』『最上の河池』『都路のわかれ』の総称として文永5年(1268年)から建治元年(1275年)にかけて、一括して翻刻した際に佐佐木信綱が命名した。

『十六夜日記』(いざよいにっき:1283年頃)は、藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記であり、『玉葉』は兼実の公私にわたる記録であり、その記述は1164年から1200年(正治2年)に及び、この時期は院政から武家政治へと政治体制が変動した時期と重なり、源平の争乱についても多数の記述がある。

深心院関白記(じんしんいんかんぱくき)とは、鎌倉時代の公卿・近衛基平の日記で、基平の公私にかかわる行事についての記述が主要で、蒙古との折衝に関する記述もあり、元寇を研究、検証する史料として貴重な日記である。

『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期、後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学であるが、昭和40年代における、小説家瀬戸内への影響を指摘する見解がある。

『中務内侍日記』(なかつかさのないしのにっき)は、著者は伏見院中務内侍こと藤原経子(つねこ:鎌倉時代後期の女官)で、仮名文による日記であり、有職故実の詳しい資料としても国文学者により書写され、『群書類従』にも収載される。

『花園天皇宸記』(はなぞのてんのうしんき)は、現存部分のほとんどが花園天皇宸筆であり、鎌倉時代後期を研究する上で貴重な一次史料で、特に正中の変・元弘の変などに関する記事が豊富かつ詳細であるため、後醍醐天皇の活動状況を研究する上での基本史料。

『平戸記』(へいこき)は正二位民部卿平経高が記した日記だが、鎌倉時代前期の京都の朝議や政局、朝廷の視点から見た幕府などを検証、研究するための史料としても重宝される。

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記で、治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録であるが、2019年日本天文遺産に選定されているのだ。

【追伸】

『夢記』(ゆめのき)は、鎌倉時代初期の華厳宗中興の祖といわれる明恵上人が建久2年(1191年)から、入寂前年の寛喜3年(1231年)まで約40年にわたって自ら見た夢を記録したものである。

徒然草

清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されているけれど、序段を含めて243段から成る。

内容は多岐にわたり、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学に位置づけられており、兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映している。

また、仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話も多いが、説話のなかには、同時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても広く利用されており、中でも『平家物語』の作者に関する記述(226段)は現存する最古の物とされる。 

中世軍記物語

軍記物語とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた歴史上の合戦を題材とした文芸のことで、実際の史実を元にしているが、説話的な題材や虚構も交えられていることもある。

『保元(1156)物語』、『平治(1159)物語』では、源為朝、源義平を英雄的人物像として描きながら、貴族政治の中での武家の位置付けの歴史的変転を表現するものとなっている。

『平家物語』はこういった作品の性格を受け継いで、また序章の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」以下に代表される詩的な表現と物語を支える理念により、英雄叙事詩的な性格を持つ優れた中世文学となった。

そして琵琶法師による語りで広く全国に伝えられ、同時に多くの異本を生み、作品自体がさらに成長していくことにもなった。

続く時代の『承久(1221)記』は、『保元物語』『平治物語』『平家物語』とともに「四部合戦状」とされる。

室町時代に成立した『太平(1318-1368)記』は数十年にわたる南北朝の争乱の時代を描き、40巻になる大部の作品になっている。

連歌

鎌倉時代初期に50、100、120句と連ね、同後期に100句を基本型とする形式の百韻が主流となり、南北朝時代から室町時代にかけて大成されたが、戦国時代末に衰えた。

多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持ち、百韻を単位として千句、万句形式や五十韻、歌仙(36句)形式もある。

連歌には様々な式目がありますが、連歌の流れは、発句・「脇句」(わきく)・「第三句」(だいさんく)に比重を置いており、これら3つをまとめて「三つ物」(みつもの)と称しており、その最後を締めくくる短句が「挙句」(あげく)である。