フロイス『日本史5』

織田信長篇 I 将軍義輝の最期および自由都市堺(3巻、五畿内編I)

織田信長篇 II 信長とフロイス        (4巻、五畿内編II)

織田信長篇 III 安土城と本能寺の変      (5巻、五畿内編III)

 

布教の記録(『日本史』)を作成するため、九州に退いたフロイスの後任として都に派遣されたのはイタリア人司祭オルガンティーノ(1503-1609)で、この伴天連は、宣教師たるものは日本語を学び、日本の風習を良く知り、日本人と深く交わり、彼らから愛され尊敬されねばならない、といつも主張していた。

そうした考えから、着衣にも着物を選び、和食を食べ、「宇留岸伴天連」と呼ばれることを喜び、この伴天連もフロイス同様に、信長の信任が厚く、巡察師の要望に沿う形で、若者の教育に熱心なこの司祭の肝いりで、安土にセミナリオ(キリシタンの少年たちを教育する伊一種の西洋式学問所)が作られることになった。

 

当時の比較的身分の高いキリシタンの子どもたちに、国語・数学・音楽・絵画などがそこでは教えられ、西洋の語学、例えばポルトガル語も習っていたことだろう。

セミナリオと呼ばれたその建物は、信長の城を除けば、安土で最も美しく、気品のある邸であったことが伝えられている。

 

信長は城に近い特等の場所をこの学問所の敷地に指定し、自らも建築の現場にしばしば足を運び、この設立は日本人司祭の養成を目論む、布教の将来を見据えた画期的な試みであった。

ヴァリニャーノ(1509-1606)はあえてこの計画の実施に踏み切り、そのための第一歩が、少年たちに西洋式の学問を施すことであった。

 

第47章

 オルガンティノ師( 1533年 - 1609年)は、人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。

来日は1570年6月18日(元亀元年5月15日)で、天草志岐にその第一歩をしるし、着任後まず日本語と日本の習慣について学び、1573年(天正元年)から1574年(天正2年)にかけて法華経を研究した。

オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事し、1577年(天正5年)から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。

持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があり、パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者数を1500から1万5,000に増やしたという。

 

第48章

オルガンティノは1576年(天正4年)に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成させ、1578年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。

1580年(天正8年)には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建て、オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働き、最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであり、第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。

 

第49章

天正6年(1578年)、10月末、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した。

村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗した。

右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めと、神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」とアドバイスした。

 

第50章

信長は、「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命じ、まず村重の室(継室もしくは側室)だしら荒木一族と重臣の併せて36名が妙顕寺に移送、ついで12月13日辰刻(午前9時頃)に尼崎城の近く、信忠が陣をはっていた七つ松に有岡城の本丸にいた人質が護送され、97本の磔柱を建て家臣の妻子122名に死の晴着をつけ、鉄砲で殺害されたようである。

なお、高山右近の人質は彼に返却したが、高山友照(ダリオ)は越前で牢に入れられ、しばらく後に許されている。

天正5年(1577年)多羅尾綱知によって「毛利氏と内通している」との讒言を受け、近江の永原に閉居を命じられた三箇 頼照は、翌年許されて三箇に戻り、この時に家督を子の三箇頼連(洗礼名:マンショ)に譲って、自身は会堂に籠り信仰生活に没入した。 

第51章

安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。

安土問答とも称される。 織田信長の斡旋により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われ、信長の望まぬ騒動であったため、敗れたとされた法華宗は処罰者を出した上、以後他宗への法論を行わないことを誓わされる結果となった。

 

第52章

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539年 - 1606年)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。

ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。 それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。

 

第53章

1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。

また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。

 

第54章

右近の父ダリオは、荒木村重謀反の際に村重側に付いたとして、信長は彼を越前に追放したが、 父ダリオは落胆するどころか、ますます布教の情熱を燃やし、自分達夫婦の信仰と越前でのキリシタンの布教のために、司祭を派遣するよう要請した。

巡察師ヴァリニャーノは、ダリオを都地区のキリシタンの 大黒柱と考え、この要請に応えており、ダリオは越前で勝家から布教許可をもらうと、教会をつくり、司祭の 当地での布教を全面的援助したのである。

 

第55章

安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。

建造当時は郭が琵琶湖に接しており(大中湖)、地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートルで、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。

 

第56章

1582年5月29日、信長は中国出陣の準備をして待機するように命じ、小姓衆をつれて安土より上洛した。

その際、茶道具の名器38点を携えており、6月1日、近衛前久を主賓として茶会を開き、京都滞在は5日間の計画で、先に淡路で信孝の閲兵に向かうと伝えられ、 同日夜に、後継者の信忠は、村井貞勝をつれて本能寺を訪れ、父と酒を飲み交わしていた。

 

第57章

この日、フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めた。

その後、銃声がして、火の手が上がり、また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智が信長に叛いて包囲したものだという報せが届いた。

 

第58章

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた。

まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦して光秀を敗走させ、

清洲会議でその功を認められて加増され、また、安土にあったセミナリヨを高槻に移転した。

 

第59章

曲直瀬 道三(まなせ どうさん、1507年 - 1594年)は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師だが、日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。

天正12年(1584年)、豊後国府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。

 

第60章

1577年(天正5年)長崎に来着、大村で日本語を学んだのち、岐阜・大坂など各地で布教にあたった。

1587年(天正15年)大坂の教会で細川忠興の正室・細川ガラシャの入信を取り計らい、指導司祭となった。

同年の豊臣秀吉によるバテレン追放令で平戸へ移り、1592年(天正20年)の文禄の役では小西行長軍に従軍し朝鮮へ渡ったが、 布教には至らなかったものの、記録に残るキリスト教宣教師として初めての朝鮮入りであった。

第61章》 1587年6月19日(西暦7月24日)、ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡され、キリスト教宣教の制限が表明された。

 

第62章》 九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意、ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。

 

第63章》 オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

 

第64章》 天正16年(1588年)に前田利家に預けられて加賀国金沢に赴いたものの、囚人のような扱いを受けていたとされる右近ではあったが、天正18年(1590年)になると、右近は利家から父高山図書の分を含めて2万6000石の扶持を受けて暮らしていることが確認されている。

この待遇の変化は秀吉の意思によるものと考えられ、秀吉は右近を豊臣政権に復帰させようとしたが、右近の棄教を拒否する意思の前に秀吉も断念し、前田家の管理下に置くことで、相応の待遇を容認したのではないかと指摘されている。

 

第65章

父三箇頼照から家督を譲られた、三箇頼連(よりつら:マンショ)は、多羅尾綱知(つなとも)から執拗に讒言(ざんげん)され、最後には織田信長も、頼連を誅殺するよう、佐久間信盛に命じたが、この時も織田信長を説得して三箇頼連を救いました。

ところでフロイスが、「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた」と記したのは、黒田孝高(官兵衛:シメアン)だという。

第66章

黒田官兵衛がキリシタンであったことは、よく知られており、彼が入信したのは天正11年(1583)頃とされ、 毛利氏との領土画定問題や、大坂城普請などに奔走していた時期だ。 キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった」という。

宇喜多家では仏教日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから、家臣団に対し、キリシタンへの改宗命令を出したことなどもある。

蒲生氏郷については、キリスト教宣教師のオルガンティノはローマ教皇に、「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と報告している。

第67章

天正12年(1584年)の春頃、三好康長の養子になっていた秀次は。羽柴姓に復帰して、羽柴信吉(孫七郎)と名乗りを改め、この段階で三好康長のもとを去ったと思われる。

池田丹後守教正(15??-1595?):河内キリシタン大名として有名だが、1563年に日本人修道士ロレンソによる集団洗礼を受けキリシタンとなり、池田シメアン丹後と呼ばれた。

三好義継が若江城城主だった頃に彼を補佐していた三好家の筆頭家老、のち義継を裏切り佐久間信盛与力となり、松永久秀に仕え、久秀の後織田信長に仕えたという。

茶人としても名が残っており、津田宗及の茶会によく参加していたが、本能寺の変の後は美濃池田家の池田恒興に仕えた。

恒興のもとで小牧・長久手の戦いでは池田隊先鋒を務め、恒興らが討死するなか恒興次男輝政(姫路城築城城主)とともに生き延び、そのまま輝政に仕え、のち輝政の家老になったともいわれるが、秀次(秀吉の甥)に仕えていたということかなぁ。

第68章

前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされたオルガンティノは、1597年(慶長2年)には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取り、涙を流してそれらを押し頂いたという。

1605年、長崎のコレジオに移った[1]。半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年(慶長14年)、76歳で没した。

 

日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べている。

また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べている。

第69章

1593(文禄2)年、ポルトガル船が長崎に着くと、ジョアン・ロドゥリ-ゲスは船長らを引き連れて名護屋を訪問し、歓待の席で黒人のダンスや西洋楽器演奏などが披露され、たいへん興がられた。

このとき、徳川家康や前田玄以らと面会し、キリスト教の教義や、仏教の天体論と異なるキリスト教の天体論を説き、宗論を争わせた。 家康は禅僧のいる前でロドリゲスの話を聞き、それらが論理的であると評し、追放令が解除されるまで、自身の領地で秘密裏に生活することを認めたという。