日本文学の歴史1 古代・中世篇1

日本の詩歌は『古事記』にはじまるのではないが、一世紀以上も前に万葉集が編まれ、一般に、そこにこそ日本詩歌の日本詩歌の最高傑作が多く含まれていると認められている。

だが、『万葉集』表記は複雑で、収められている歌を読み解く方法は、十七世紀まで完全には明らかにされなかった。

 

『万葉集』が完成してから読み解かれるまでの九百年間、家人は『古今集』を宮廷歌の最高峰とみなし、それを用語や主題のモデルとし、その詩型(和歌)を踏襲した。

和歌の三十一音では思うところを表現しつくせないと考える歌人には、漢詩という選択肢があり、そこに可能性を探った学者もいる。

 

『古今集』の歌人は、与えられた三十一音節の制限を乗り超えようとはしなかったし、歌の中にむやみに意味を詰め込んだり、こっそり字余りを作ったりもしなかったのは、混ざすものが完ぺきな歌だったからである。

和歌にこそ、完璧な作品というものがありえたとしたら、『万葉集』の精華であり、『古今集』の時代には時折つくられていた長歌が、以後の日本でほとんど詠まれることがなかったことも理解できるのだが・・・。

 

古事記

紀元712年に朝廷に献上された『古事記』は、日本最古の書物であるが、さらに古い記録があったことがその序文に記されているが、その大部分は645年に焼失した。

720年に編まれた『日本書紀』にも、古い記録がおさめられているが、この二種類の歴史書の内容は、おそらく文字の伝来以前から伝わる材料を含んでいるだろう。

 

とくに、多くの歌謡はそうだと思われ、日本文化史に『古事記』が占める地位は極めて大きく、単に最古の書物というだけでなく、十八世紀以降には神道の聖典としてとして扱われたし、文化の黎明期における日本人の信仰をうかがい知るには、これが最良の資料でもある。

太安万侶は、序文の中で、日本語を漢字で表記することの難しさに触れているのだが、漢字の意味を無視し、発音だけに注目すれば、これを単なる表音文字として日本語の表記に使用できる。

 

ただこの序文において、稗田阿礼について述べている箇所があるにもかかわらず、歴史に一度も顔を出さないのでなく、もし男性なら役職に就き名を記録されているはずであり、畏れ多い女性であったからこそ、雁の名をもって素性を伏せているように思われてならない。

その序文は、「その頃、氏は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)。年は二十八歳になる舎人(とねり)がお側に仕えていました。 この人は生まれつき聡明で、一目見ただけでロに出して音読することができ、一度耳に聞いたことは記憶して忘れません」とあるのだ。

 

奈良時代の漢文学

日本の漢文学の黎明(れいめい)は飛鳥(あすか)時代と思われるが、まだ純文学の作品を生み出すほど成熟していないが、『懐風藻(かいふうそう)』序によると、近江(おうみ)朝では宮廷に文学の士を招いて君臣唱和の詩が詠ぜられたとある。
ところで、『古事記』より8年遅れて、720年に完成したのが『日本書紀』であるが、序文がなく、成立の背景はよくわからない。
しかし書紀には、天武十年(681年)のこととされる記事に、「天皇の系譜と古の叔父を記録に残すよう」十二人の貴族に命じたとあるが、それから40年近くたったことになる。
おそらく、漢委奴国や卑弥呼の時代と古墳時代との、神武天皇以来の万世一系を実証したかったに違いないのだ。
一方、漢文では『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』や『万葉集』の序、『経国集(けいこくしゅう)』の対策(官吏登用のための最高試験の論文)などに駢儷(べんれい)文がみえる。

元明天皇の詔(713年)により各令制国の国庁が編纂した『風土記』も、主に漢文体で書かれた。

 

淡海(おうみ) 三船(722-785)は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人であり、弘文天皇(大友皇子)の曽孫であり、始めは御船王を名乗っていたが、臣籍降下し淡海真人姓(751)となる。
 奈良時代末期に文人として石上宅嗣と双璧をなし、二人が「文人の首」と称されたという。 『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(当時は帝に数えられていなかった曽祖父の弘文天皇と、すでに諡号を贈られていた文武天皇を除く)と15代帝に数えられていた神功皇后の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。
「文武天皇」の初出は『懐風藻』であり、この諡号にも三船が関与した可能性があり、『広辞苑』第7版では「淡海三船」は「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したともいわれる」と記されている(ただし弘文天皇と淳仁天皇は除くと考えられる)。
また、宝亀10年(779年)には鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記し、『続日本紀』前半の編集にも関与したとされているのだ。

 《万葉集

第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多く、代表的な歌人としては額田王(630年代~700年前後)がよく知られている。第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂(660年ころ~724)・高市黒人(生没年不明)がおり、そして持統天皇(645-703)である。
第3期は、733年(天平5年)までで、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人(665-731)・人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(660~730)がおり、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(?-736頃)などである。
第4期は、759年(天平宝字3年)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄といるが、大伴家持(718-785)がその最後を編集したのであろう。

「万葉集」は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集であり、すべて漢字で書かれており、全20巻4,500首以上の和歌が収められている。

7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる。

 

巻1の前半部分(1 -53番):万葉集の原型ともいうべき存在で、持統天皇(645-703)や柿本人麻呂(660-724)が関与したことが推測されている。

巻1の後半部分+巻2増補:元明天皇の在位期(707-715)を現在としており、元明天皇(661-721)や太安万侶(?-723)が関与したことが推測されている。

巻3 - 巻15+巻16の一部増補:元正天皇(680-748)、市原王(719?-不詳)、大伴家持(718-785)、大伴坂上郎女(生没年不詳)らが関与したことが推測されている。

残巻増補…20巻本万葉集 :延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされている。

 

この万葉集は、漢字が渡来してより、倭漢も創り出され、万葉仮名の訓みともなり、漢詩もまた倭歌になったと言えるのだ。

そしてそれらは、古事記や日本書紀の記紀歌謡が、物語や史書の中に、挿入されることになることにもなりえたのである。

平安時代前期の漢文学

空海(774年-835年)といえば、真言宗の開祖であるが、唐で見も知られた能書家であり、嵯峨天皇(786-842)・橘逸勢(782?-842)と共に三筆のひとりに数えられている一方、勅撰三集の一つ『経国集』には8首の詩が入集しているのだ。 
嵯峨天皇は、熟達した漢詩人であり、優れた書家でもあり、中国文化の熱心な讃美者であり、漢語による文学作品の創作が奨励された。
五言詩が大部分であった8世紀の『懐風藻』と異なり、『凌雲集』の半数が七言詩であるのは、詩人が自信をもって長句を扱えるようになったことのほかに、中唐の文学的傾向を反映している。
とはいえ、この章の最後を飾るのに相応しい菅原道真(845-903)は、9世紀後半で最も重要な漢詩人であり、古今を通じて最高の漢詩人だという評価も多いが、道真の漢語は日本的だと遺、正格漢語からの逸脱は意図的ではなかっただろうが、後世の漢詩人に和風漢詩への道を開いた。