フロイス『日本史2』

ルイス・フロイスは、太閤秀吉より一年早く、1597年(慶長二年)7月8日に長崎で病死したので、秀吉の臨終を叙述することができなかったが、その著『日本史』の記事は1593年までであるが、その後も通信や年報を執筆し続け、1597年3月15日付で、長崎からいわゆる「日本ニ十六聖人殉教事件」を報じたのを最後に、多年にわたる文筆活動を終えた。

 

ゼウスは、全き善なる方ですから、聖なる御名の栄光のためにかくも長く続いた迫害を終結せしめ給い、教会の名声を減じるどころか、信徒未信徒を問わず一同のもとにおいて、いっそう増大するよう取り計らい給うたのでありますから、わたしは尊師に対し、全ての御身の子である在日イエズス会員の名において、尊師が善きゼウスに対し奉り、当然払うべき感謝の念を、一層お重ねくださるよう切にお願いします。

 

最後に我々が洞察するところ、他の諸地方、ことに下地方ではすべて収穫する準備が整って言いますので、われらは、「諸国は、はや黄ばみて収穫時になれり」(ヨハネ伝4-35)と言えようかと存じ、それ故わたしたちは聖なる王を全く信頼をし、もし尊師がいつもの寛大さを以って、新たなご援助をこの日本の地に賜りますならば、キリストの十字架の敵たちから得られる巨大な勝利について、ほどなくもっとも喜ばしい知らせに接せられることを信じております。

              【聖主における賤しき子にして僕なるフランシスコ・パシオ】 

第20章

オルガンティーノ師が、「1588年3月3日に小豆島からしたためた書状の写し」があり、そこには秀吉を、「かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣ったものとなり果てました」と言い、彼の淫奔(いんぽん)な醜行(しゅうこう)にふれているが、ガラシアと打って変わった夫のことが述べられている。

第21章

肥後国人一揆を鎮められなかった佐々成政は、天正16年(1588年)2月、謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉され、安国寺恵瓊による助命嘆願に耳をかすこともなく、加藤清正を検使として、成政の切腹を命じ、墓は摂津国尼崎の法園寺にある。

その辞世歌は「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」

第22章

秀吉は、北条征伐を決めるまでに、再三にわたる北条の非なる行動に我慢をしており、まず一つは、後陽成天皇の聚楽第行幸への列席を拒否したこと。 二つめは、行幸欠席の弁明のための北条氏政の上洛の約束を破棄したこと。 三つ目は、真田領の名胡桃(なぐるみ)城への侵攻を勝手に行ったこと。 四つ目は、北条氏邦の下野国の宇都宮国綱を侵攻したこと。

これらはすべて秀吉の施策に反する行為であり、北条氏の度重なるこれらの行動に際し、秀吉は「北条氏政」もしくは「北条氏直(嫡男)」の上洛を求めていましたが、それをすべて拒否していたのである。

第23章

 小早川藤四郎は、久留米を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、受洗し、洗礼名をシマオ(Simao)とした。

以後はキリシタン大名としての活動が目立つようになり、天正19年(1591年)には大友家の依頼により、高良山座主麟圭(りんけい)・了巴(りょうは)父子を鴻門の会のような計策で誘殺し、城下に天主堂を建設、キリスト教信者は7,000人と言われる。

第24章

1587年の秀吉による伴天連追放令を受けて、吉統はキリシタン教界の根絶を表明し、領内からの宣教師の退去を命じたが、キリシタンであった志賀親次の反対もあって、実行できずにいた。

しかし、1589年7月27日、親次の留守の間、吉統の命によって高田のキリシタン教界を世話していたジョラン一家が斬首され、また由布院の教界の主要な人物で、野津で教化活動をしていたジョウチンも殺害された。豊後での最初の殉教者である。

第25章

貴殿(右近)には、妻や幼い子どもがあり、一族および家臣が見な貴殿に依存しているので、もし貴殿が隠遁すれば、彼らは貴殿から見放されてしまう。

というのは、貴殿については、まだ幼い貴殿の息子については別の顧慮がなされていたからであり、その上貴殿はまだ四十歳に達していないから、主なるデウスが貴殿に行うよう命じたもうたことは、今に至ってもわれら現世のものにはわからないからである。

第26章

インド副王より天下の主関白殿への書状を記すと、「彼らは島嶼国の主導者にして尊敬に値する者どもであり彼らの掟に従い、神の救いの道を教えんがために、世界のあらゆる地に赴いており、予は彼らから、殿下が彼らに与えたもうたご好意を聞知し、深くこれを喜びとしている」

さらに、「予は本書状を通じ、殿下が今後ますます、巡察師ならびに貴国に滞在する他の司祭たちに慈愛を垂れた給うよう殿下にお願い申し上げ、その恩恵を無上の喜びとするものであり、ここに親交の印として・・・」と、贈呈品が羅列されたのである。

第27章

なんと、大坂城攻略法が記されており、半日ですべてを破壊できるとしるされているのだから、家康も夏の陣ではその手を使ったわけである。

関白によって強制的に造られた町は関白殿が死去すると消滅するであろうと思われるからで、われらの都市や建造物は、住民を束縛することなしに造られており、永遠に存続するものなのであると述べているのは、街づくりの参考になる。

第28章

「副王」 というからには、「ポルトガル国の正王」 がいたわけですが、実は、この時期、1580年~1640年 までの60年間、「ポルトガル」 という独立した国は 存在しませんでした。

というのも、スペインに征服されて、併合されていたのですが、形の上では、それまでの ポルトガルの王国機構は残されていました。

第29章

関白がインド副王に宛てて返書をしたためるべき時期が到来していたが、われらの反対者たちは、この度の施設の使命に関して関白を動揺させ、疑惑の念を生死占めるに至った。

そのために彼は、爾後いよいよ憤激し、インド国王に宛てて、すこぶる傲慢と曲解に満ちた書簡を作成するように命じた。

第30章

天正二十年七月二十五日の書簡が述べられ、「当日本王国は神の国にして、吾人は神を心と同一のものと信じ、けだし万物の起源にして、心は即ち万物の実体にして真の存在なり。

シナにおいてはこれを儒道と言い、天竺にては仏法と称し而して日本の礼賛と為政とはこの神の道守に存するところなり。

第31章

梅北国兼のことが語られているが、その妻は、死に及んでも取り乱さなかったため、宣教師のルイス・フロイスは「異教徒ながら天晴れ」と褒め称えている。

また右近は、「自分としては政庁のわずらわしさの中で生きるよりは静かに隠退し、ひとり安らかに余生を過ごしたいけれども、妻子ならびに両親のことを思えば自分の考えを貫くわけにはいかない。

今は過ぎ去った苦悩と危険から解放されたことを非常に喜び、かく計らい給うたわれらの主の御憐れみに対して限りなく感謝している」と伝えてきた。

第32章

あの日本に1 人の暴君(=豊臣秀吉)が台頭し、短時日の内に日本の諸島および諸王国全体の支配者となった。そしてあの地域の改宗に従事している修道士たち全員に対し、直ちにそれら日本諸島・諸王国の領外に退去するよう、福音を宣布しないよう、通告させた。

それが、彼らの先祖たちの法に反する法だからであるからだが、最後のよりどころである長崎においても、彼らからコレジオを奪い、彼らが持っていた教会を焼却した、と。(1591 年、文書74)

第33章

 聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成したために、秀吉は妙顕寺城より移った。

秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる新たな大仏を、京都で造立することを発願する。

第34章

巻狩(まきがり)とは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)の一種であり、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟である。

その『富士の巻狩り(ふじのまきがり)』を、建久4年(1193年)5月から6月にかけて、源頼朝が多くの御家人を集め駿河国富士山麓の藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市一帯)・富士野(静岡県富士宮市)にて行ったのだが、まさに、征夷大将軍たる権威を誇示するためでなく、軍事演習などの目的があったとされる。

第35章

関白は、対馬国主宗 義智(そう よしとし:1568-1615)と関係を保ち、その援助を得るために、アゴスティノ津の守殿(行長)の娘マリアを娶らせ、彼女は極めて善良なキリシタンであったので、夫が関白を訪れるために都に旅立つにあたっては、巡察師が滞在されているので、是非ともキリシタンになって帰国していただきたいと言った。

秀吉の命令で、小西行長らと共に、李氏朝鮮との交渉に尽力し、文禄・慶長の役では一番隊の先導役として活躍、講和交渉にも尽力したのではあるが・・・。

第36章

朝鮮を制圧するにあたり豊臣秀吉は、対馬島主・宗義智宗義智からもらった「朝鮮八道図」を赤国(全羅道)、白国(慶尚道)、青国(京畿道と忠清道)、黄国(江原道と平安道)、黒国(咸鏡道)、緑国(黄海道)と六つに色分けし、その色分けに基づいて諸将の分担地域を決めました。

その内訳が、慶尚道(キョンサンド,경상도):毛利輝元・全羅道(チョルラド,전라도):小早川隆景・忠清道(チュンチョンド,전라도):四国衆(福島正則)・江原道(カンウォンド,강원도):毛利吉成・京畿道(キョンギド,경기도):宇喜多秀家・黄海道(ファンヘド,황해도):黒田長政・咸鏡道(ハムギョンド,함경도):加藤清正・平安道(ピョンアンド,평안도):小西行長などである。 

第37章

都に進出し、その地を破壊することは拙者には容易な業であると思われますが、朝鮮国王は、電化に使者を派遣してきたことですし、彼らはこの日本の企てに際して道案内を務めることを申し出ているのですから、その二点にかんがみ、拙者は都を破壊からきゅざいすべきだと考えます。

通過する道中で、拙者は治安を確保するために、電化のご署名入りの証明書を交付しており、朝鮮の領主たちは、農民を酷使していますので、今や電荷が恩愛と憐憫(れんびん)をもって彼らを遇せられるのに接し、彼らはこの上なく喜んでいます。(関白に宛てた津の守殿の書状)

第38章

 忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい、朝鮮語読み:忠州はチュンジュ)は、文禄元年(1592年)4月28日、忠州市付近の弾琴台(朝鮮語読み:タングムデ)で戦われた文禄・慶長の役初期の戦闘の一つである。

4月28日の早朝、申砬(シン・リプ)は敵情を得ぬまま忠州城を出て、北西の弾琴台に陣をしいたが、ここは北は漢江に面し、西にはその支流達川があって、前面には水田が広がり背後は(河岸の)断崖絶壁で、新羅時代の土城跡のある小丘陵の、所謂、背水の陣であり、逃げ場はなかった。

小西行長は斥候を派してこれを発見し、軍を三つにわけて三方向より攻撃する作戦を立て、行長の中央と松浦鎮信の右翼は、山沿いに東に進み、宗義智の左翼は達川を下るように北上し、三方を包囲して一斉に銃撃を仕掛けた。

第39章

この戦いで朝鮮人は、日本艦隊の七十艘を奪い、兵士の大部分を殺害し、日本の残余の艦隊は命からがら逃げのびた。

他の多くのことは割愛されているようだが、日本人は海戦の知識が乏しく、敵を撃退するための火器が不足し会場では常に不利な状況に立たされていた。

因みに有名な海戦を挙げると、閑山島海戦(かんざんとうかいせん) 文禄元年(1592年)・鳴梁海戦(めいりょうかいせん)慶長2年(1597年)・露梁海戦(ろりょうかいせん)慶長3年(1598年)

第40章

日本人たちは、最初の上陸地である釜山浦から都に至るまでの道中に、日本の八里ないし十里ごとに城塞を築いたが、戦地の状況をとどめて、グレゴリオ・デ・セスペデス師が、長崎から朝鮮へ渡航したことに触れ二書簡が紹介されている。

天正20年(1592年)に始まる文禄の役では、如安(ジョアン)は明との和睦交渉の使者となり、北京へ赴いて万暦帝に拝謁し、沈 惟敬(しん いけい)は欺瞞外交でのちに処刑され、石 星(せき せい、? - 1599年)は、和平路線を推し進めるも和平ならず獄死。

第41章

祖 承訓(そ しょうくん 生没年不詳)は、中国明代の武将で、文禄・慶長の役に明の朝鮮援兵の将として最初に参戦したが、文禄元年(1592年)7月16日、少数の日本軍守備兵が残るのみであった平壌奪還を図って5,000の兵を率い奇襲攻撃をかけるも守備兵の善戦により撃退された。

この章の最後に、天草のドン・ジョアン(有馬晴信)について、何びとも劣らぬ働きぶりを示したと記されており、アゴスチイノの眼前で、極めてりりしく勇敢に戦い、自分の乗馬が倒されると、すかさず率いていた代馬にまたがって奮戦したとあるが、その馬も斃され、家臣が敵の攻撃を身をもって食い止め、彼は死んだが、日本に宛て、命を助けてくれた家臣の妻に、食糧と六を与えるように書き送ったとある。

第42章

 天正20年(1592年)の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため小西隊が苦戦にもかかわらず戦況を見誤り撤退を吉統に進言してしまい、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。

文禄2年(1593年)正月、中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城(平安)を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。

第43章

アゴスチイノは、加藤虎之助が、彼と他の武将、ならびに老関白までも侮辱したシナ人あての書状が披露し、老関白は虎之介に対して激しく憤り、、使者を朝鮮に送って厳しい態度で名護屋へ出頭せよと命令した。

虎之介の城に兵を入れ接収し、そのほかそれに類した行動をもとる考えであったと言うが、老関白は元来、彼に青以上を抱いていたし、この度の朝鮮の戦役で彼がいかに奮闘したかを知るに及び、その怒りをやわらげたので今に至るまで、彼の身の上に別段変化は見られない。