大宮神社

大阪城が完成し、豊臣秀吉(1537-1598)が文禄3年(1594)伏見城築城の際、大阪城下町整備に大阪城から伏見桃山城を結ぶ街道を整備した。

 

野江からこの先の今市までの京街道は、かつては屈曲が多く「七曲(ななまが)り街道」あるいは単に「七曲り」と言われた道だった。

というのも、大坂城から見れば盆地のような形状であり、城から物見するには格好の条件だったのかもしれないが、そこに蛇行道を備え、敵の進軍の速度を遅くさせてその軍容、兵数を知ることができ、これこそ、日本式築城の名残である七曲りなのだが、合戦で攻める側は、 大阪城を目標として行軍してくるが、急に城が見えな くなったりしたという。 

昔、京街道に面する旧大宮1丁目(現在高殿4丁目) に「一の鳥居」があり、ここより神社の馬場先まで道 の両側に松並木があった。  

長さ十二町は約 1,300 メートル、現在の地図で確 認できる。

今回、大宮神社のはからいで昔の絵図をお見せいた だいた。

絵図には、京街道京街道の七曲がりが描かれ、探し求め た「一の鳥居」、大宮道と松並木、一里塚がある。

周辺には、内代村、江野村、参道の先に「南島村」、 森小路村が見える。

 

境内は樹木がうっそうと茂り、四周 に清らかな流れがひかれている。

橋を渡り神域に入り、右手に御手洗、 櫻門をくぐると、二の鳥居、拝殿へと 進む。

ここに、大宮神社の本社があり、本 社の神門東には影向梅(えこうばい)、神門西には 亀甲石(きっこうせき )が、そして本社を取り囲むよう に、若宮、高良社、鬼門守護社、北斗社、 三元殿、七社相殿、御輿殿が見える。(旭区役所)

伝承によれば、寿元年(1185年)2月、平家追討の最中に源義経(1159-1189)がこの地で宿を取ったところ、宇佐八幡神の霊夢を見、目覚めると梅の木に鏡がかかっていた。

それを手にした義経は軍神であり源氏の氏神でもある八幡神の力を得たとばかりにその鏡を奉じて平家を打ち滅ぼした。

このことを後鳥羽天皇(1180-1239)に奏上すると神社の建立を許され、この地に大宮八幡宮(摂津誌には「南島神社」)を建立した。

天正11年(1583年)、豊臣秀吉によって大坂城が築かれると大坂城の鬼門守護神とされ、秀吉の保護を受けて境内の整備が行われ、毎年1月、5月、9月には幣帛(へいはく)を献じられ大いに栄えた。

江戸時代にも引き続いて大坂城の鬼門守護神とされ、大坂城代の交代時には当社への参拝が行われた。

「関目の七曲り」を整備した際に須佐之男尊を祀り、更に大坂城の鬼門封じとして毘沙門天王も併せて祀ったのが関目神社(城東区成育)の始まりである。

関目より古市森小路の間十余町の道路を特に屈折させて(俗に七曲り)敵兵の進軍を俯瞰したというのだ。

関目という地名は古くは榎並荘の時代からあったもので、関目と言うのは、この地に見張所(目で見る関所)があったことから起こったと言われ、関目発祥の碑が境内にある。

 

ところで古市という地名だが、平安時代の荘園の発達とともに『古市郷』が 消えてゆき、代わって「榎並荘」の地名が登場してくる。

そこで『古市郷』は、ほぼ後世の「榎並荘」と考えら れるのだが、とすれば現在の城東区(北半分)、旭区、都島 区にわたる広い地域が含まれることになる。

 

ここから高殿を経て、道の旅人は森小路へ向かうことになるのだが、「森小路」は江戸時代からある地名で、かつては付近一帯に樹木がうっそうと茂り、その中に小路が続いていたことから言われる。

森小路駅(京阪本線)から南東400mの新森には森小路遺跡がある。

昭和6年に発見された弥生期から古墳時代までの集落跡で、その範囲は新森中央公園を中心に半径500 - 600mにわたる。

森小路遺跡は、淀川南岸の自然堤防上に人が住んだ ムラ跡で、海抜 2.5 ~5メートルの低層(平地)遺跡 として貴重である。

弥生中期と古墳中期の出土品は多数あるが、弥生後 期から古墳前期の出土品はなく、その間森小路の人々 は、河内湖や淀川の洪水被害のため移動したと推測されている。

その後人々は、海から海への交通の要所で、 大陸文化の受け入れや物資交流の盛んな所に定住し栄え、農耕地の開拓により強大化したと考えられている。

現在住宅地の新森4~5丁目付近では、地面をわずか1メートル掘り下げた道路工事や調査時の砂層から6世紀頃のもの、榎並の庄の荘園期、室町期のものが出ている。

ところで、京阪本線の開業当時、すでに森小路と名の付く駅は設置されていたのであるが、それが現在の千林駅に当たると言えるかもしれない。

というのも、1910年 京阪本線(旧線)開通と同時に森小路停留所として開業(現在地より西約250m)しており、1931年京阪本線の蒲生(現在の京橋) - 守口(現在の守口市)間の専用軌道化と同時に、10月に現在地(千林駅)に移設し、12月には森小路千林駅に改称し、1942年に千林駅に改称したことから現在の森小路駅(1931年当時:新森小路駅)になったのである。 

関目高殿交差点には5車線が交差しており、 南北に「国道1号線」、西南方向に「都島 通」、東方向に「国道163号線(大阪四日市線)」が交わり、国道1号線と国道163号線 の間を斜め(北東方向)に「京街道」が通じている。

城北川(昭和15年12月開削の もと城北運河)に架かる「古市橋」を渡り、京阪電鉄「森小路駅」の東方付近から「森小路 京かいどう商店街」を通れば、「千林商店街」に交差する。


京街道と野崎観音を結ぶ「野崎街道」(千林駅の北側)沿いに形成された商店街で、明治43年(1910) 4月に開通した京阪電気軌道の「森小路駅」(京街道の東側)が設けられたことを機に、付近に商店が店開きし、明治45年頃から呉服・衣服・身廻品及び生鮮三品等の生活 用品が何でも揃う商店街として発展してきた。

デュークエイセスの ”いち(一)・じゅう(十)・ひゃく(百)・せん(千)・せんばやし(千林) ♪ 親しみの町、千林♪ ” のテーマソングでその名が知られ、戦災を免れた 「日本一 安い商店街」として 「天神橋商店街」 と並び称される。

また、スーパー「ダイエー」(現・イオン)発祥の地としても有名で、昭和32年(1957)に「千林駅前」に伝説の「主婦の店・ダイエー薬局」が店開きしており、これがダイエー第一号店になる。

茨田(まんだ)堤が築かれた場所について、『旭区史』によれば、いまの守口から今市を経て毛馬に至る淀川左岸という説と、寝屋川の北端・太間(古くは絶間)付近から南へ、門真、大和田を経て茨田町に至る古川という二説があり、『大阪史蹟辞典』にも同様の記述があります。

また、強頸絶間の所在については、「強頸の方は海に近い千林あたりで、当時はこのあたりは海岸に近く、波が押し寄せる難所だったらしい」『旭区史』とあります。

『日本歴史地名大系大阪府の地名1』には「強頸絶間跡は千林村字一の絶間、衫子絶間跡は茨田郡太間村(現寝屋川市)に比定されているが確証はない」とされています。

 

『大阪府全史』の大字千林の項では「往時に於ける茨田堤の末に当れる所にして、絶間の池あり、強頸絶間の址なり」とあり、『角川日本地名大辞典27 大阪府』でも、「現在の旭区の千林町に比定される」としています。

この伝承にもとづいた強頸絶間跡碑が千林2丁目、千林商店街三井住友銀行北側にありますが、個人宅邸内にあるため見学はできません。

北の河の塵芥(ごみあくた)を防ぐために、茨田(まんだ)の堤を築いたが、築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二ヶ所あった。

天皇が夢をみられ、神が現れて教えたー「武蔵の人である強頸と、河内の人である茨田連(マンダノムラジ)杉子の二人を、河伯(かわのかみ)に奉れば、きっと防ぐことができるだろう」

それで二人を探し求めて得られたので、河伯に生贄とし、強頸は泣き悲しんで水に入れられ、その堤は完成した。

衫子だけは丸い瓢(ひさご)(ヒョウタン)を二個とって、防ぎにくい河に臨み、その中に投げ入れて神意を伺う占いをして、「河神(かわのかみ)が祟るので、私が生贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、この瓢を沈めて浮かばないようにせよ。そうすれば、私も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もし瓢を沈められないなら、偽りの神と思うから、無駄に我が身を亡ぼすことはない」と言った。

旋風(つむじかぜ)が俄かに起こって、瓢を水中に引きこもうとしたが、瓢は波の上に転がるばかりで沈まなかった。

速い流れの水に浮き躍りしながら、遠く流れ去り、衫子は死ななかったが、その堤は完成したが、これは、衫子の才智でその身が助かったのである。

当時の人は、その二ヶ所を名づけて、それぞれ強頸の断間(たえま)、衫子の断間といった。『日本書紀』

武蔵国の人が犠牲になり、河内国の人が生き延びたことに、違和感を感じながら、道の旅人は次の市に向かった。