伝 阿弖流為(アテルイ)の塚

泥町・三矢・岡、そして岡新町の四ヶ村が枚方宿とされ、西見付から東見付まで、東西13町1間(1447m)、道幅2間半(4.5m)、北側の淀川と、南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山(御殿山)に挟まれた地域に、東西に細長く続いていた。

というわけで、枚方宿の東端東見附は天野川に接しており、道の両側に柵で囲われた松が植えられていました。

 

『河内名所図会』享和元年(1801)には、淀・伏見方向に向う大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た役人が待ち受ける光景が描かれています。

元文2年(1737)の『岡新町村明細帳』によると、天野川には、長さ17間、幅3間1尺の板橋が架かっていて、岡・岡新町両村が共同管理していましたが、修理・架替の費用は幕府が負担していました。

紀州徳川家は、参勤交代の際枚方宿に宿泊しましたが、天野川の渡河にあたっては、既設の橋の上流に専用の仮橋を設けさせました。     

天野川は、四条畷市田原を源流として磐船渓谷を刻み、交野市・枚方市を流れ淀川に合流するのだが、川砂白くゆるやかな流れは、古くから天上の銀河と見なされ、在原業平(825-880)をはじめ平安貴族のあこがれる歌どころでもあった。

 

古代中国の棚機(七夕)説話によると、天の川にかささぎが群れあつまって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをすると言われている。

           『淮南子(えなんじ)』

 

この説話にちなんでかささぎ橋と呼ばれるようになり、鎌倉時代、淀川を下った中務内侍は、「これやこの七夕つめの恋渡るあまの河原のかささぎのはし」と詠んだ(七夕つめ=織女)。

 

江戸時代、かささぎ橋は京街道の橋で、『河内名所図会』にはたくさんの橋脚を持ち欄干のない長い土橋が描かれている。  

明治時代の道路制により、京街道は国道2号線となり(後に同1号)、かささぎ橋は国道橋に昇格したが、昭和7年、下流に国道が新設されたのに伴ってかささぎ橋も移り、近代的な鋼鉄製の橋(平成8年)に変わり、今回の架け替えとなった。

鵲橋をわたり、天之川町という美しい名の町から、この先の磯島茶屋町、そして三栗(めぐり)、御殿山へと向かう。

御殿山駅周辺には、紀貫之の『土佐日記』にも登場する惟喬親王(844-897)の離宮渚院があり、「かくて舟ゆきのぼるに、渚の韻といふところを見つつゆく。しりへなる丘には、松の木どもあり、中の庭には梅の花さけり、これ、むかし名高くきこえたるところなり

 

渚院は、平安時代の初め850年ごろ文徳(もんとく:827-858)天皇の離宮(別荘)でしたが、惟喬親王にゆずられ、十歳半ばから、二十歳過ぎまでの短い青春を送りました。

惟喬親王は第一皇子で、天皇になるはずでしたが、弟の第四皇子の母が、このころ勢いのあった藤原氏一族から出た人だったので、「第四皇子を天皇にしよう」という人たちの意見から大きな争いが起き、第四皇子の惟仁(これひと)親王が、清和天皇(850-881)になりました。

【伊勢物語】には親王一行が交野ヶ原に遊猟にかたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じ、歌を詠むばかりであったと記してあります。

 

世の中にたえて桜のなかりせは 春の心はのどけからまし

 

この歌はこの時同行した在原業平(825-880)が 『渚の桜ことにおもしろし』と詠んだものですが、失意のうちにあって 『のどか』でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されています。 

 

この歌をうけて、紀有常(きのありつね:815-877)という人が、次のような歌をよみ、親王をなぐさめています。

 

散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しがるべき  

府道「三栗(めぐり)」の信号を渡り、三栗の信号を渡り、三栗郵便局の前を通ってやがて京阪の踏切を超えると、街道は緩やかに左カーブをとるが、この踏切からほぼ真東に800mのところには牧野車塚古墳がある。

こんもりした森は穂谷川左岸の台地上に形成されており、牧野車塚古墳は周囲に幅約10mの空濠(くうごう)を巡らせ、さらに墳丘の西から南にかけて外堤(そとつつみ)を設けた前方後円墳である。

東側の関西外国語大学の敷地と接する方が前方部、南側は緑地を整備した史跡公園になっている。

穂谷川を挟んで北側には片埜神社があり、この神社の創建が垂仁天皇の頃であり、野見宿禰が建速(たけはや)須佐之男命を祀ったのに始まるという。

社伝によれば、垂仁天皇の時代に、出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞として当地を拝領し、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀って一族の鎮守としたのに始まる。

「片埜」(片野、交野)はこの一帯の古名で、交野市の地名の由来でもある。

平安中期、野見宿禰の後裔である菅原道真が天神として祀られるようになると、天徳4年に当社でも菅原道真が配祀され、社家の岡田家は野見宿禰の後裔でもある。

 

『延喜式神名帳』では「河内国交野郡 片野神社 鍬靫」と記され、式内小社に列している。

かつては広大な社地を有し、「交野の御野」「牧野の桜」と呼ばれる桜の名所として歌枕ともなっていた。

戦国時代の戦乱で荒廃したが、豊臣秀吉によって復興され、大坂城の鬼門の方角にあることから鬼門鎮護の社とされた。

大坂城天守の北東の石垣に鬼面を刻み(これは現存しない)、当社と対面させたという。

 

慶長7年(1602年)には、子の秀頼によって本殿、拝殿などの社殿が大造営され、そのうち本殿と南門が現存し、本殿は国の重要文化財に指定されている。 

藤原俊成(としなり:1114-1204)は交野の桜を思って、

またや見む 交野のみ野の桜狩 花の雪散る春のあけぼの」(新古今和歌集)と詠んでいるように、交野ヶ原と呼ばれた枚方・交野地域は、桜の名所として都の貴族たちに親しまれ、歌枕として多くの歌も詠まれていたのだ。

桜の名所として枚方八景の一つに選ばれている牧野公園は、桃山時代の華麗な建築を伝える片埜神社の北側にあります。

和暦 西暦 日付        (旧暦) 内容

延暦8年 789年 6月3日:朝廷軍が阿弖流爲(アテルイ)の居に至ったころに巣伏の戦いがはじま

           った                        (続日本紀)

延暦21年802年 4月15日 :大墓公(タモノキミ)阿弖利爲(アテリイ)と盤具公母禮(イワ             グノキミモレ)が種類500余人を率いて坂上田村麻呂に降伏した                                  (類聚国史・日本紀略)

延暦21年802年 7月10日 大墓公と盤具公が坂上田村麻呂へ並び従い平安京へ入京(日本紀略)

 

7月に2人は田村麻呂に従って平安京に入り、田村麻呂は、「このたびは,2人の願いに任せて故郷に返し,蝦夷の残党を招き寄せたい」と述べて 2人の助命を求めた。

しかしこの主張は、「野性の獣の心は,いつ背くかわからない。たまたま朝廷の威光によってこの族長をとらえたのだ。もし申請の通り奥地に放還すれば虎を養って患いを遺すようなものだ」と、延暦21年(802年) 8月13日 アテルイとモレは、河内国で斬られた   (日本紀略)のである。

 

平城京から長岡京(784)および平安京(794)への遷都を行った、第50代桓武天皇(737-806)の時代である。

牧野から樟葉へ向かうのだけれど、地名の由来としては、『古事記』崇神天皇条に、武埴安彦命が謀反を起こして崇神天皇の軍に敗れた際に、逃げ落ちた兵士が恐怖のあまり袴に便を漏らし、その場所を「くそばかま」と呼んだものが転じて「久須波(くすは)」になったと記されており、『日本書紀』にも同様の話が登場する。

せっかくここまで来たからには、京街道とは外れてしまうけれど、駅の北東にある継体天皇樟葉宮へ行きたくなった。

 

507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。

 

手白香皇女(たしらかのひめみこ)を立てて皇后とし、後宮に関することを修めさせられた。 やがて一人の男子が生まれた。 これが天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと:欽明天皇)である」『日本書紀 継体紀』

交野天神社(かたのあまつかみのやしろ/かたのてんじんじゃ)は、『続日本紀』及び『岩清水神宮 縁起』によると、桓武天皇が延暦6年(787年)、交野に父光仁天皇を祀るための郊祀壇(こうしだん)を設けたとあり、ここがその地とされている。

 

本殿の北東に貴船神社の末社があり、その場所が継体天皇の樟葉宮跡と伝えられているのだが、交野天神社を樟葉宮の跡地であるとする伝承・文書は記録されていない。

しかしこの地が、京都府・奈良県との府県境に位置しており、『日本書紀』に拠ると、ここから遷都が始まり、現在の皇室につながっていくと思うと、感慨深くなる。

 

507年2月?、樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)で即位。

511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市か)に遷す。

518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。

526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。