茨田堤(まんだのつつみ)

道の旅人は、いまだ守口の領域から抜けだせないで、淀川に沿った、佐太町へ向かう旧大庭庄を駆けているのだ。

明治の市町村制施行までは一番村から十番村までの番号がついていた村の総称なのだが、この大庭庄の歴史は古く「和名抄」に現われ、奈良時代には開発されており、行基が大庭の里に大庭堀川を築いたともいわれている。

 

やがて佐太西町二丁目、堤を右手に下りると、用水路にかかる天神橋の南側に「佐太の渡し場」の石碑がある。

この橋から、さらに一号線を超えると、佐太天神宮の鳥居が見え、古くはこの鳥居と天神橋を結ぶ延長線上の川岸のところが渡し場であった。

佐太は、守口宿と枚方宿との「間の宿」でもあり、『河内名所図会』に「此処、京街道にして、茶店(さてん)・貸食屋(りょうりや)あり」と書かれている。 


佐太天神馬場付近にも松並木が続き、街道に沿ってにぎやかな街並みが広がっていたようで、与謝蕪村(1716-1784)は淀川を夜船で故郷毛馬村へ帰る途中、詠んだ句碑が佐太天神宮の境内にある。

 

        窓の灯の佐太はまだ寝ぬ時雨かな     蕪村

 

既に往時の面影はすっかり消えているが、夜遅くまで明かりがともり、陸路・水路で着いた往来の旅人や参詣人で宿場が華やいでいた様子がうかがえる。

当神社はその名が示す通り、菅原道真(845-903)を祀った神社で、道真自作の木造をご神体として天暦年間に創建された。

また、後水尾(ごみずのお)天皇(1596-1680)ゆかりの「勅梅」と言われる梅の木にも、帝から歌がおくられ。『摂陽奇観』に、「四万の人々これを拝して感涙、肝に銘じ拝観の人、群れをなせり」とある。

 

家の風世々につたえて神垣や絶えたるをつく梅もにほはむ   後水尾天皇

 

大徳寺天裕の手記にも「この宮に詣でたるもの幾千万人なるを知らず、その輪奐(りんかん)の美(建物が美しい様子)感ぜざるものなし」、さらに儒家の林道春(羅山:1583-1657)は「天下三天神のひとつなり」と述べている。

 

また、一説によると道真公が当地に滞在したのは宇多上皇の計らいにより無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったとされる。

 

しかも、『菅原伝授手習鑑』(初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作)にある「佐太村の段」(茶筅酒の段)ではこの神社がゆかりとなっている。

 

桜丸( 三つ子の三男・斉世(ときよ)親王の舎人で、優しい気立て)は梅王丸( 三つ子の長男・菅丞相の舎人、腕っ節が強い)、松王丸(三つ子の次男・藤原時平の舎人、兄弟の中の切れ者)と三つ子の兄弟で、梅王・桜丸は吉田社参詣(さんけい)の時平の車を襲うが、松王に妨げられる。

三兄弟は佐太村に住む父白太夫(しらたゆう)の70歳の賀の祝いに、それぞれ女房を連れて集まるが、松王は自ら望んで父に勘当され、桜丸は道真流罪の責を負って切腹する。

仁和寺(にわじ)氏神社の創建は室町時代初期と考えられ、そのころは白山権現社と呼ばれていました。

1633年(寛永9年)に永井信濃守尚政が領主になり、菅原道真を祭るようになって以来、天満宮とも称されるようになりました。

以前、淀川堤防が決壊した際に社殿が流されたので、村の中央にあたる現在の位置へ移されたといわれています。

なお、地名は京都仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。

 

鎌倉時代初期に後鳥羽(1180-1239)・後高倉院(1179-1223)の生母であった七条院(1157-1228)が京都仁和寺殿を管領(寺務を司る権利を所有)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職は室町院(暉子内親王)へ寄進され、持明院統の所領になりました。

この時の『室町院御領目録』を見ると、仁和寺庄は上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後上下ニ庄として史料にあらわれます。

南北朝時代に入って、持明院統の花園上皇は暦応5年(1342年)に妙心寺を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。

しかし、応永6年(1399年)大内義弘が将軍足利義満に謀反(むほん)を起こし(応永の乱)、敗死した大内義弘と妙心寺の拙堂(せつどう)が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され、事実上の幕府御料所となり、いわゆる「河内十七カ所」の一部となっていきました。

 

【河内十七箇所】は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。 文禄3年(1594年)の文禄堤完成までは淀川には現在の寝屋川市大間付近から南流する支流が存在し、この支流は宝永元年(1704年)に付け替えられるまで北流していた大和川と大東市住道付近で合流して西に流れを変え、大阪市の天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。(現在の寝屋川、古川はこの名残である) 茨田郡はこの淀川南流によって東西に二分されていたが、この西半分が河内十七箇所に当たり、仁徳天皇の時代に築かれた茨田堤はこの茨田郡西部を水害から守る囲堤防、すなわち輪中(わじゅう)であった。

仁和寺本町・寺町の東南に対馬江という町名が見え、継体天皇の時代に、「毛野(けな)臣、召されて対馬に至りて、疾(やまい)にあいて死ぬ。葬送するときに、川のままに近江に入る」とある。

 

近江毛野臣は、失政によって都へ呼び戻されて帰る途中、この対馬で病気になって亡くなったわけだが、今は1km以上も隔たった陸部に対馬江は位置する。

はるか飛鳥時代には、「江」の文字が示すように、淀川はこのあたりでも深く湾入していたか、あるいは支流の川筋を持っていたのか、ともかく対馬江は船が泊まれる港であったようだ。

 

当時の淀川には、いくつもの島が点在しており、仁和寺と対岸の鳥飼の間にあった「馬島」もその一つで、馬を刈っていた島すなわち牧場であり、「鳥飼御牧(みまき)」であった。

 

平安末期の終わり頃、「鳥飼の御牧といふほとりに泊まる」(紀貫之『土佐日記』)とあり、後世の『摂津名所図会』には、「淀川の馬島は御牧の古跡なり、長さ一里ばかり。いにしへより洪水にも崩流せず」とある。

なお、このあたりの点野(しめの)という地名も、御牧の一般人立ち入り禁止区域の標(しめ)野[禁野]からであろう。

上の画像は、鳥飼仁和寺大橋であるが、自転車及び歩行者も通行ができ、無料ではあるが、自転車での通行は、上流方の自転車用スロープをご利用することになる。

 

本橋が架かる鳥飼の地名は、日本書紀に垂仁天皇が鳥養部を設置したとの記述に由来し、また仁和寺の地名は、京都仁和寺の所領であったことに由来し、由緒ある橋の名前なのである。

 

なお淀川には、両岸を結ぶ交通手段として、渡しが古くから各所にあり、「仁和寺の渡し」には、1614年大坂冬の陣を前に、片桐且元が居城の摂津国茨木城に帰る道筋に充てたという話が残っており、片桐と言えば、次の場面が想い出される。

 

【片桐邸奥書院の場】(坪内逍遥『桐一葉』)

 且元は屋敷を立ち退くことを決意し、庭の桐の葉が静かに散りゆくのを見ながら「我が名にちなむ庭前の、梧桐尽く揺落なし、蕭条たる天下の秋、ああ有情も洩れぬ栄枯盛衰、是非もなき定めじゃなあ」と嘆息する。 

 

これは歌舞伎の演目なのだが、「桐一葉(きりひとは)落ちて天下の秋を知る」の故事に由来している。

 

見一葉落(一葉のおつるを見て)而知歳之將暮(歳のまさに暮れんとするを知り)睹瓶中之冰(ヘイチュウの氷をミて)而知天下之寒(天下の寒きを知る)以近論遠(近きをもって遠きを論ずるなり)(『淮南子(えなんじ)』説山訓)

近世になると点野のフナが茨田郡(ごおり)の名産として『河内名所図会』に挙げられているが、今も木屋(こや)町に大阪府淡水魚試験場があり、古くから川魚が多く獲れ、それを漁る人たちがここに集まっていたのかもしれない。

 

それで茶屋ができ、枚方と間の宿・佐太をつなぐ街道の立て場(休憩所)となり、繁盛したようで、近松門左衛門の『淀鯉出世滝徳(たきのぼり)』には点野のお鍋茶屋も登場する。

 

さて、京街道は点野辺りからしばらく旧姿を残してはいるが、仁和寺本町二丁目と点野五丁目の境界のところを国道一号線から川堤に上がる道があるが、堤防はそこから二段になっており恥部は河川敷に張り出し埋没し、また消滅しているところもあるが、ほぼ太間町、木屋にかけては手前の低い方の道が文禄堤の旧街道である。

淀川新橋に差し掛かるマンション手、堤下の住宅街の一画にどっしりした石碑があり、点野の茨田樋跡を示しており、木屋の樋・太間の樋、仁和寺樋とともに施設され、淀川から農業用水を引き入れたのであるが、のちに太間と仁和寺の樋は廃止され点野は合同樋となり最後まで残り、一部は守口市内までの淀川沿いの農事を助けたのである。

太間町に入ると京街道は300mほどは消滅しているが、国道一号線に沿った用水路には「絶間橋」という橋が架かり、その近くに太間天満宮がある。(『京街道』より)

『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田(まんだ)堤」が築かれたのだが、話が繰り返されるので、別のひょうたんの話(仁徳67年)を記す。

 

この年、吉備(きび)の中国(なかつくに)の川島河の川股に、竜がいて人を苦しめた。 道行く人がそこに触れると、毒気にあてられて沢山死んだ。

笠臣(かさのおみ)の先祖の県守(アガタモリ)は、勇ましくて力が強かった。

竜のいる渕に臨んで、三つの瓢(ひさご:ヒョウタン)を水に投げ入れ、 「お前は度々毒を吐いて、道行く人を苦しめた。

私はお前を殺そうと思うが、お前がこの瓢を水に沈めるなら、私が逃げよう。

沈めることができぬなら、お前を斬るだろう」 と言った。

すると竜は鹿になって、瓢を引き入れようとしたが、ヒサゴは沈まなかったので、 そこで剣を抜いて水に入り、竜を斬った。

 

天皇は、早く起き遅く寝て、税を軽くし徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われ、 死者を弔い、疫者を問い、身寄りのない者に対し恵みを与えた。

それで政令はよく行われ、天下は平らかになり、二十余年無事であったが、 八十七年春一月十六日、天皇は崩御され、 冬十月七日、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬った。

この陵が築造された年も仁徳67年(379)なのだが、なぜここで『浮かびひょうたん』が挿入されたのかは、聖帝であることへの念押しであろうか?

 西正寺は山号を退魔山といい、茨田連衫子の子孫である茨田宗左衛門という人の開基と伝えられており、守口から枚方にかけては真宗の寺が多いが、当寺も、武士であって応仁の乱や畠山一族の争いなどを目の当たりにした宗左衛門が蓮如の布教で帰依し、弟子となって随喜と名乗り自宅を道場にしたのに始まるという。

寺になったときに衫子の故事に因み山号が退魔山とされたとあり、斜め向かいには衫子を祭神とた太間神社、河川敷は太間公園である。

親指と人さし指を合わせ、右手を胸の高さに上げ左手を下げた摂取不捨印(せっしゅふしゃいん=浄土真宗の特徴を表す姿)の阿弥陀如来像図です。

阿弥陀の本願を表す四十八条(しじゅうはちじょう)の光明を放って蓮台上に立っています。 裏書(うらがき)には文亀2年(1502年)に本願寺9世実如(きゅうせいじつにょ)から下付されたものとあります。
本市で最古の年紀をもつ絵画であるとともに、本市における浄土真宗の展開を示す資料として貴重です(通常は非公開です)。

このあたりは古くからの荘園で、鞆呂岐荘といいました。
鞆呂岐神社はこの付近の氏神として、昔から崇敬されていました。
明治初年に神社合併が奨励されたときにも、多くの村々が神社合併を行う中で、木屋村は財産をつくり一村でもって神社を維持してきたと言います。
この神社は六社大明神と称して六神をお祀りしています。


もともとは天照大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・稲荷大神・蔵王権現をお祀りしていたといいます。
その後、稲荷大神を末社として分離したので、代わりに神功皇后をお祀りしたそうですが、明治の初めに神仏が分離されたとき、蔵王権現は仏教的であるというので、代わりに豊受大神をお祀りしたということです。

奥の宮といって境内奥に若宮八幡の社があり、八幡さんということから祭神は応仁天皇ということです。

鞆呂岐神社の大黒様は「なで大黒」として神社にお参りになる方々の〝福徳と福寿〟を祈念して明るい陽光を浴びて参拝者の合掌をお待ちしておられます。

奥宮への鳥居で、赤穂浪士の村松喜兵衛秀直(1642-1703)、その四代目の子孫が寄進したといわれています。

 

命にも易(かえ)ぬ一つを失はば逃匿れても此を遁れん」秀直辞世

道の旅人は、淀川を離れて枚方宿へと入るのだが、どうもこの京街道は、蓮如上人と行脚してるかのように感じていた。