枚方宿本陣跡

文明7年(1475年)、吉崎御坊を退去した蓮如(1415-1499)は、河内国茨田郡の出口村(現・枚方市出口)に移り住んだ。

当時、出口はわずか9戸の寒村であったが、蓮如はここに出口御坊の建立を進めるとともに3年間在住し、近畿一円の教化を進めた。

山号の淵埋山(えんまいざん)は、当時この地にあった大きな池を埋め立てて諸堂を建立したことに由来し、寺号の光善寺は、出口に草庵を建てて蓮如を支えた、門弟の御厨(みくりや)石見(いわみ)入道光善から取られたものとされる。

御坊の建立に伴って周辺には多くの門徒が移り住み寺内町が形成され、文明10年(1478年)、蓮如が山科本願寺の建立のため山科に移る際に長男の順如を住職に指名。

順如は大津の顕証寺(現・本願寺近松別院)から、当寺に移り住んで2世住職となり、また、蓮如は出口御坊を近畿一円の御坊の筆頭格とした。

蓮如上人が来られた頃の出口には、わずか9軒しかない小さな村落でした。

上人はこの出口の村人にも親しく法を説かれ、現在も出口の中央部に上人が腰をかけて語られたという、「蓮如上人腰かけ石」が残されています。

光善寺から東に1km離れた東中振の小高い丘の上に、上人のお廟「蓮如廟」があります。

今はこの丘の上からは、残念ながら駅近辺のマンションに遮られ光善寺を見ることが出来ません。

 

江戸時代に数々の名園を手がけた漢詩家・書家としても有名な石川丈山(1583-1672)は、この光善寺書院を「萬象亭」と名付けこよなく愛しました。

当時は淀川が庭園のすぐ西側を流れていて、書院からの眺めは三十石舟が上り下りし、遠くに天王山が借景になり、風流な美しさだった。 

寝屋川市木屋(こや)から、大阪府淡水魚試験場の裏の淀川沿の道を枚方市出口へと向かうのだが、途中の京街道は埋没しており、出口六丁目辺りでは、現在の堤防の下に、家並みの添った弓道が残されており、道は緩やかに右に曲がり、用水路のところに一里塚がある。

【右、出口・光善寺・三島江・わたしば/左、大坂道】だが、この一里塚を東へ、右手に蹉咜(さだ)小学校の校舎を見ながらまっすぐの道をとれば北へ大きく曲がり、古い集落に入る。

この辺りには、まだ往時をしのばせる家が残っており、やがて、小さな橋の手前に三坪ほどの石の玉垣をめぐらした一角があり、「蓮如上人御遺跡」という石柱のそばに、横幅が30cm位の平べったい楕円形の石が、台石の上に丁重に乗せられているのが、「蓮如上人御腰掛石」と言われるものた。

七月一日に

日ごろいたみぬるむし歯の

おちけるは、

夏はきのふ けふは秋 きりの

ひと葉おちて身にしみて

こそ

  南無阿弥陀仏

 

光善寺の東側の道を北へ、伊加賀小学校に向かって歩き、さらに北へ進むと枚方西高校に行き当たるが、旧街道はその道筋から少しずつ左にそれながら埋没し、校内に消えている。

 

 明治18年6月中旬、大雨により各地の堤防が決壊、最も被害の大きかった現在の枚方市伊加賀の地名から「伊加賀切れ」と呼ばれているが、7月にも再び豪雨に見舞われ、被害が拡大。

淀川周辺域のほか、現在の大阪市平野区や同府松原市地域にまで浸水し、2万6千戸以上が流失、約290人が死亡したというのだ。

しかも7月にも洪水が起こり、前回の洪水ではそれ以上の被害を防いでいた寝屋川の堤防が現・鶴見区の徳庵で決壊し、寝屋川に注ぐ他の河川も水が溢れ出した結果、洪水は寝屋川以南にまで拡大し、大阪市の北半分は浸水した。

御堂を流され、境内も荒れ果ててしまった大長寺(近松門左衛門の人形浄瑠璃、「心中天網島」の舞台)であるが、1887年(明治20年)頃に藤田伝三郎にその土地を売却し、寺は移転して再興を果たした。

まさかここで、大長寺があったその地に伝三郎は網島御殿と呼ばれる邸宅を建てたが、現在は藤田美術館、藤田邸跡公園、太閤園、大阪市公館まで戻るとは思わなかった。

京街道が再び姿を現すのは、現在の道から西方向に三矢団地が見えて来る辺りで、道はほぼ直角に曲がり、国道170号線の枚方大橋の南上がり口へとまっすぐ向かっている。

 

 京街道はこの道を横断して桜町へと入るのだが、その国道から北東へ200mばかり進み、三差路を右に曲がるのが京街道のルートだが、左に曲がって明治時代の終わりごろに開けた一角に寄り道してみる。

明治42年、旧堤防沿いに枚方宿の旅籠20戸が移転してきて「桜新地」と呼ばれたのだ。

堤には桜が植えられていたが、さらに桜の若樹を植えたし多様だが、現在、町の中を流れる用水路が「水面廻廊(みなもかいろう)」として公園整備され、柳を映す川べりに三十石船をかたどった小さな船が一艘、昔日をしのぶように据えられている。

そして通り筋では、櫺子(れんじ)格子や高欄などを配した建物が当時の風流を伝えているが、そんな楽しい町筋を抜けると、枚方宿の西見付はすぐである。 

江戸時代の枚方は、東海道の延長部“京街道”の宿場町で、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でもありました。

旧枚方宿の町並みは、平成7年(1995)に枚方市の歴史街道モデル事業地域に指定されており、「市立枚方宿鍵屋資料館」は町並みのメインスポットとして平成13年(2001)7月に開館し、水陸交通の要衝地として栄えた「枚方宿」の歴史を紹介する唯一の展示施設となっています。

当資料館は、平成9年(1997)まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用しており、京街道に面していた「鍵屋」は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川 三十石船の「船待ち宿」としても繁盛し、近代以降は、枚方きっての料理旅館として、枚方周辺の人々に宴席の場を提供してきました。

敷地内には、「主屋」と「別棟」の2つの建物があり、19世紀初頭の町家建築の構造を残した「主屋」は、枚方市有形文化財。

一方、「別棟」は昭和初期に建築されたもので、1階には枚方宿関係の史資料や発掘遺物、民俗資料、模型を展示しており、枚方宿の歴史を学べる展示施設であるだけでなく、歴史的建造物の中で往時の旅の雰囲気を体感し、また彫刻欄間や格天井など、料亭だった頃のしつらえを楽しむことができます。

江戸時代後期の鍵屋は、商人宿として記録され、比較的安価な宿屋でしたが、幕末には江戸町奉行方なども訪れており、格式の高い旅館に成長したと考えられます。

江戸時代の淀川は、枚方側に食い込むように流れており、鍵屋が立地する堤町のあたりでも、屋敷のすぐ裏手が淀川河岸に面していました。

そのため、この立地を生かし、淀川を往来する乗合船の“船待ち”を兼ねた宿屋が現れたようで、そこで作られた料理は「煮売り」されてこの場で味わうことができた他、「くらわんか舟」に積まれて淀川を運行する三十石船の旅客にも売られました。

「くらわんか舟」は、旅人に「酒くらわんか、ごんぼ汁くらわんか」などと声をかけて軽妙にやりとりした枚方名物の行商舟で、枚方宿鍵屋浦の賑わいは、次のように唄われていました。

 

ここはどこぞと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦。鍵屋浦にはいかりはいらぬ、 三味(しやみ)や大鼓で船とめる

文禄5年(1596年)に発せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が、大坂京橋から京都伏見へ向かう京街道 (大坂街道)として用いられるようになったというが、天正年間(1573年 - 1591年)にはすでに、宿場としての起源があったという。

 

1565年、都から追放されたルイス・フロイスは、飯盛城や三箇(現在の大東市)のキリシタンたちのいる河内の国に向かう途中に、枚方で夜を迎えたが、真夜中には飯盛城の麓の教会に到着したという記録がある『日本史』が、まだ宿場町にはなっていなかった。

 

【ドイツ人医師・博学者:エンゲルベルト・ケンペル 1691年】

約500戸が枚方の町がある。われわれは5里の道を進んで午前9時半にこの町につき、半時間で昼食をしたためた。

ここにはたくさんの旅館や料理屋があり、わずかな銭で茶や酒を飲み、また温かい食べ物を食べることができるし、どの店にも、めかした若い女中がいる。      『江戸参府旅行日記』

 

【ドイツ人医師・博学者:フィリップ・シーボルト 1826年】

枚方は大坂の人たちが遊楽地としてたいへんよく訪れる大きな村で、そのためどの通りにも売春婦がいっぱいいる。

わたしが1時間も行列に先立って数人の同行者と通りを進んで行ったときに、彼女たちは好奇心に駆られて、みんな戸口の前に出ていたので、なおさら女たちがよく見えたが、我々はここで昼食をとり、それから伏見へ旅をつづけた。

枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は、わたしのに祖国のマイン河の谷を思い出させるところが多い。『江戸参府紀行』

 

 【イギリス人外交官:アーネスト・サトウ 1867年】

大阪に出張した帰途に枚方村で食事をした時、食事代があまりにも安かったので問うと公務の旅行者は通常料金の4分の1との旅館規則があること知った。(ちなみに彼には日本側の警護役人が同行していました)