山中宿

 

 

道に旅人は、山中宿を目指していた。その途中、波太(はた)神社伏拝(ふしおがみ)の鳥居がある。その眼下に和泉鳥取駅があり、街を見下ろすことになるのだが、ここから波太神社に向かい、旅の無事を祈ったのであろう。

ところがその神社はと言うと、当社の創建年代は不詳だが、『延喜式』神名帳には「波太神社」と見えるのだが、当社に伝わる『八幡宮来由記』によると、日根郡鳥取郷に居地を持っていた天湯河板挙(あめのゆかわたな)が、波太邑(桑畑字奥宮)に社を建て(垂仁天皇の時代)、祖神の角凝(つのこり)命を祀ったという。その後、永徳年間(1381~84年)に兵火のために焼失したが、波太村より当地(阪南市石田)に移し、貝掛の指出森より八幡宮を勧請し、相殿として合祀したが、1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻め兵火で焼失、1600年(慶弔5年)豊臣秀頼の命により片桐旦元が修復を加えるも、1638年(寛永15年)に本格的に再建された。

 

街道沿いにある、この鳥居の東側が、平安の径(こみち)で、本来の熊野の古道なのだ。ところが、道幅が三十㎝ほどである名所【琵琶岸懸(びわがけ)】は、当時でも最難関の場所であったが、今では廃道である。

 

石壁(せきへき)上(かみ)に聳えて、片岸(へんがん)下(しも)に懸かれリ。行路、狭隘(きょうあい)にして、動(ややもす)れば、車倒れ馬葬(ほうふ)る。相伝ふ、むかし、琵琶法師、この谷に隕(おち)しとぞ。
足下を見れば恐ろし、見上げれば、足下不安怖気つく。微風といえど、ぐらつけば、背負いし琵琶が、灌木(かんぼく)に・・・。
慌てふためく法師には、まさに突風ふきあがり、この谷底へ落ちにけり。澗泉(かんせん)咽び、琵琶の音にも、聞及ぶ。
            (和泉名所図会)
とても自転車を抱えて、渡れる道ではないのだが、この道を無事に越せば、地蔵堂王子に向かうことになる。ところで、熊野は他の山岳と異なり、女性の参詣に寛大であったけれど、上皇に随従する女院・女官の人々が、果たしてこの古道を通ったかは疑問である。

と言うわけで、山中橋・滑下橋(すべりしものはし)を渡り、地蔵堂王子廻りをして、次の馬目王子に向かう。

とは言え、御幸の行列の通行は、沿道の人々にとって少なからぬ負担でもあった。それだけに院政の力が衰えると、やがて各地の王子たちも廃絶していった。

 たとえ、武士や名主など庶民にひきつがれるにしても、庶民の熊野詣では、皇室や貴族のように、九十九王子に奉幣するような旅にはならなかった。こうして、もともと小さな祠であった王子は廃れたのである。
 そんなに距離が離れていないところの二つの王子も同じ運命をたどったのだが、ひょっとしたらこの地蔵堂王子で、琵琶岸懸でなくなった法師を弔ったかもしれない。また、馬目王子について言えば、“足神さん”と呼ばれ、わら草履を履き替えたり、足のたこを治療していたのかもしれない。

                     ところで、明月記の『国宝 熊野御幸記』には、「また坂の中において祓。次いで、ウバ目王子に参る。次いで地蔵堂王子に参る」とある。これは印刷のミスなのかどかわからないが、順番が違う。と言うことは、定家一行は、琵琶岸懸を避けて地蔵堂に参ったことになるのだろうか?
西三条の大臣藤原良相(よしみ)、身に重き病を受けて、日来(ひごろ)を経て死に給ひけり。即、閻魔王の使の為に搦められて、閻魔王宮に至りて、罪を定めらるるに、閻魔王宮の臣共の居並みたる中に、小野篁(たかむら)居たり。
 大臣、此れを見て、此は何なる事にか有らむと、怪しび思ひて居たる程に、篁、笏を取りて王に申さく、「此の日本の大臣は、心直しくして、人の為に吉き者也。今度の罪、己に免し給はらむ」と。
 王、此れを聞きて宣はく、「此れ極めて難き事也と云へども、申し請ふに依りて、免し給ふ」と。然れば、篁、此の搦めたる者に仰せ給ひて、「速かに将(ゐ)て返るべし」と行へば、将て返る、と思ふ程に活(よみがへ)れり。
(『今昔物語第20巻 第45話』)
『じごくのそうべい』(田島征彦)ではないが、小野篁は、地獄通いをしていた。それも、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと言うのだ。その入り口となった井戸は、京都東山の六道珍皇寺(死の六道)にあったとされ、また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像(江戸時代)が並んで安置されている。因みに出口は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)であった。 ところがその篁の名が、此処(山中渓)『子安地蔵尊縁起』に記されていたのだ。しかも安産の御利益として・・・

“当所(地福寺)に安置し奉る子安地蔵尊は、平安期嘉祥年間(848-851)、参議小野篁卿(802-853)が、深き御信仰のもとに一刀三礼、御自作の霊仏と伝へられ、御丈一尺五寸の尊体なり。爾来一千有余年、利益あまねく遠くは平城天皇(774-824)・宇多法皇(867-931)・後白河院(1127-1192)・後鳥羽上皇(1180-1239)・後嵯峨上皇(1220-1272)の諸帝御参拝あらせ給ひし史実は熊野山御幸記・大阪府誌・泉州誌等の古記録に明らかな所です。
往古この堂は、琵琶岸懸の辻にあり、如何なるときにか炎上、そのとき奇しくも本尊は煙の中より飛びさリ、この地に安座し給ふ。

後来此処に一宇を建立、地蔵院地福寺と号するに至る。由来婦人とお産は、天来の深き関係にあり、一たび子を宿す者誰人か無事安産を願はぬものはありましょう。

これが救済はただ子安地蔵の霊験にすがるよりほか道なく、此処に深き信仰が要求されるゆえんであります。

 

ところで、平安時代、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸のはずが、院でもない平城天皇の名があるのはなぜだろう?すると、日本三大熊野の一つ、山形県の熊野大社の社伝に、大同元年(806年)、平城天皇の勅命により紀伊国熊野権現の勧請を受けて再興されたとある。また篁が仕えた、次の嵯峨天皇(786-842)・淳和(786-840:嵯峨の異母弟)・仁明(810-850)・文徳(827-858)と続くのだが熊野参詣には至らなかった。

しかし、【地獄と安産】と言うおもしろい組み合わせには、おそらく閻魔大王の対として地蔵尊が作られたと思うのだが、どう言う経緯でこの地に安置されたかは謎である。

                           
 熊野街道と山中川沿いに、古くから家が建ちはじめ、平安の時代から江戸時代にかけて、全盛をきわめた。
 旅篭も本陣をはじめ二十数軒あり、紀州徳川播の参勤交代時には、近郷より三千人もの人夫、助っ人がこの山中宿に集まり、炊飯・運搬・補給などの仕事にあたった。街道沿いの宿駅、馬継ぎ場として栄えた面影は、今も、残されています。

 

【左:旧庄屋屋敷(江戸時代中期)右:旅籠とうふや(昭和の初めに消滅、資料より抜粋)】
この旅籠の説明書きには、「座敷は上中下の三段になり、明りとりの天窓、内庭の七つの竃(へっつい)六枚に仕切られた腰高障子、また旅に必要な牛馬舎などは裏庭に残されていた」とある。

山中宿の辺りは、和泉国と紀伊国を結ぶ交通の要衝であった。『日本後紀』延暦23年(804年)10月13日条に、桓武天皇が紀伊国行幸の帰路に通ったとの記述があるほか、『民経記』永保元年9月25日条、『台記(たいき)』久安9年(1148年)3月19日条・久安5年(1149年)5月5日条などにも通行の記録が見られる。また、平治の乱のとき、切目王子から引き返した平清盛が「於の中山」で京都からの使者に出会った(『平治物語』)とされているが、この「於の中山」とは雄ノ山峠のことであると考定されている。

ところで、山中宿の南に鎮座し、南からの邪神、疫病が入り来るのをさえぎり、また熊野詣の旅人の道中の安全を守ってきたのが賽之神(さえのかみ)なんよ。江戸時代、紀州藩では、毎年12月20日に犯罪者や悪疫の病人を境橋から和泉の国に追放していました。

山中のこの地では、「はての二十日のろうばらい」といって戸を閉めきり悪疫の退散を願いました。当時、山中で被害が少なかったのは、賽之神のおかげだったといわれています。

 安政四年(1857年)土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた。大六の一子岩之助は、当時江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた。(安政五年)
 岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へ改めて、あだ討ちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国払いとし境橋より追放するので、仇討をしたければ境橋付近、和泉側にて、すべし・・・」と伝えられた。
 文久三年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ちうけ、見事に仇討を果たした。

 


 熊野街道は続くけれど、道の旅人は、この雄ノ山峠で終わる。それにしても、院の道であることが、強く印象に残る街道であった。しかし、小栗街道とも呼ばれ、説経節などを通じて、庶民の道へと樣替りしていった風景なども読み取れる。
 明らかに、熊野への道は、伊勢への道とは違うようにおもえる。このあと、道の旅人が、伊勢をかけぬける日があるかどうかはわからないが、熊野は生死を交えた信仰であり、伊勢は生死を交えた祀りのような気がする。
 熊野は世界遺産であり、そこへ通じる街道がこの府下にあるということは、同じように見守っていかねばならない道があると言うことである。
 ここはとりあえず、後白河法皇の撰である『梁塵秘抄』で締めくくりたい。


遊びをせんとや生(う)まれけむ
戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ