等乃伎神社

等乃伎神社周辺の地図

 

聖帝と呼ばれた仁徳天皇には、5人の女性がおられた。磐之媛命(葛城氏)・八田皇女(和邇氏)・髪長媛(日向国)・宇遅之若郎女(和邇氏)・黒日売(吉備国)なのだが、道の旅人には、これが聖帝になるための条件のようにも思える。つまり、大和国・日向国、そして吉備国を抑えているってわけ。

 

この御世に、兔寸河(とのきがわ)の西にひとつの高樹有りき。其の樹の影、旦日(あさひ)に当たれば淡道島に及び、夕陽に当たれば高安山を越えき。   (古事記『仁徳天皇』)

等乃伎神社
 高石市から淡路島まで、直線距離にしてざっと四十㎞、高安山までは二十㎞余りある。まるで和算の問題を掲げられたかのようである。
 そこで、高安山の標高を調べると、約480メートルあまり。三平方の定理を使って斜線を計算すると、約63㎞になる。しかし、巨木の高さになると、ちょっと想像もつかない。いかにピタゴラスでも、これは不自然だと感じるに違いない。山を超える高さなんて、まるで“ジャックの豆の木”になってしまう。

 因みに、大阪あたりで初日の出を拝むのに、二上山の見える大和川の土手に上るが、堺の人に訊けば、信貴山(430メートル余り)に行くと言う。
 その信貴山と高安山はハイキングコースでつながっているのだが、参考になるかどうか分からないけれど、7世紀後半に大和朝廷により大和国防衛の拠点として高安城が築かれたことで知られている。

 この高安山の所在地が、八尾市服部川と生駒郡平群町の府県境になる。

 

この平群氏も古代豪族であり、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになっていた。これでお分かりだと思うが、難波天皇は決して大和を疎かにしていなかった。長男履中天皇の住まいが、磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市)に置かれていたようにね。

 

「とのぎ」という言葉は古代の太陽信仰と密接な繋りがあり、古代朝鮮の新羅語では「日の出・朝日」を意味するといいます。巨木伝説の説話で巨木の影がさしたといわれる高安山の頂上に立てば、当神社の方角に冬至の太陽が沈みます。当神社の側からみると、高安山の頂上に夏至の「日の出」を拝む事になります。この冬至の日は、1年のうちで最も日中の時間が短く、太陽の活力が弱まっています。そしてこの日を境にして、太陽の活力は夏至の日に向って盛り返すのです。

等乃伎神社では、この冬至の日に太陽の恵みの復活を祈って重要な祭が行われ、夏至の日に太陽の恵みに感謝して祭が行われたと伝えられています。このように、当神社は太陽祭祀の重要な場所であったのです。                            (等乃伎神社由緒『太陽信仰』)


 ところで、天皇は吉備の黒日売に会いに行くため、皇后に「淡道島を見まく欲りす」と騙したりするが、それだけの口実ではなく、祀ごとにおいて淡路島も重要であったことが窺えるのだ。

 さらに、異母妹八田若郎女と結婚をしたりするが、その兄に菟道稚郎子皇子がおり、彼こそ応神天皇の皇太子なのだ。ところが、自殺して仁徳天皇に皇位を譲った。この「菟道」は山城国宇治のことであり、あの磐之媛命も、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市)に移り、同地で没したとある。この嫉妬深い皇后が、葛城国でなく山城国にこもったのはなぜだろうか?そして妃にも、菟道稚郎女皇女がおり、八田皇女の従姉妹である。

 山城国もまた、重要であったように思われる。京都と云えば、渡来系氏族の秦氏が浮かんでくる。新撰姓氏録によれば、秦始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるのだが・・・。

 こうしてみれば、日向・吉備と大和は安泰であり、河内と淡路島(摂津)の領域も支配し、群雄割拠の古墳時代から抜きん出たことになる。しかも、この高樹のある場所が和泉の国であり、誇大広告的に云えば、太陽神まで支配したことになるのだ。。

 故(かれ)、この樹を切りて船を作りしに、いと速く行く船なりき。時にその船を号(なづ)けて枯野(からの)と言ひき。故、この船をもちて朝夕淡道島の寒泉(しみず)を酌みて、大御水(おほみもひ)献(たてまつ)りき。       (古事記『仁徳天皇』)
                            枯野という船

ところが、『日本書紀』では、応神天皇31年秋8月、群卿に詔して云われるのに「官船の“枯野”は、伊豆の国から玉割った奉られたものであるが、今は朽ちてきて用に堪えない。しかし、長らく官用を務め、功は忘れられない。その船の名を絶やさず、後に伝えるには、何か良い方法はないか」。

群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。五百籠の塩が得られた。それをあまねく諸国に施された。そして船を造ることになり、諸国から五百の船が献上された。それが武庫の港に集まった。

そのとき新羅の調の使がが武庫に宿っており、そこから出火した。その延焼で多数の船が焼けたので新羅の人を責めた。新羅王はこれを聞き、大いに驚いて優れた匠を奉った。

 

少々、長すぎた引用だが、仁徳の時代を考えるとき、その父応神の時代も視野に入れる必要があるからだ。応神天皇については、いずれ東高野街道で述べることになるが・・・。

 

ところで、記紀の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が、最初に創造した島である。そしてこの淡路島に夕陽が沈んでいくのが古事記でのイメージである。

 

この国生みと日想観から考えれば、淡路島が古代天皇と関係が深かったと思うのは、あながち間違いではないようにも思える。河内湖が広がっていた土地柄である。船がいかに重要な交通機関であったか想像がつくし、ひょっとしたら大和の豪族たちも、河を下って、高津宮まで船で行き来していたかもしれないんよ。そしてその先に、当時の淡路島が見えたであろう。しかもこの島を鳥瞰すれば、古代の謎を解く、鍵穴に見えて来ると云えば、妄想かもしれないが・・・。


 枯野を 塩に焼き 其(し)が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門(と)の 門中の海石(いくり)に 触れ立つ 浸漬(なづ)の木の さやさや     (古事記『仁徳天皇』)

淡路島全景
 ここに仁徳天皇は、全ての事業を終えた。「今、この国を見るに、田畑は少なく川の水は橫さまに流れて河尻では淀んでいる」と仰せになり、古代淀川に茨田(まんだ)堤をお造りになった。
 さらに、大和国には丸邇池・河内国に依網(よさみ)池を造り、また難波の堀江を掘って河水を海に通し、住吉(すみのえ)に港をお定めになった。

 
国見をなされ、民のことをお考えになった聖帝は、枯野をお焼になり、瀬戸内に塩田を奨励なされたのだ。
 “琴に作り かき弾くや”との歌謡は、その御世がいかに太平であったかを称えられたものであろう。

 この等乃伎神社の項は、古事記の仁徳天皇に費やしてしまったけれど、仁徳天皇が愛すべき妻がいるにもかかわらず、他の女性を求めたのは、国を平定することと関わりがあったのだと、身勝手に考えたりする。