行基淵と恋の淵

久米田池付近の地図

 

奈良時代の734年、行基(668~749)が築いたと伝えられる久米田池で、築造当初のものとみられる堤と水を通した木樋(もくひ)が出土した。堤は、粘土と砂利を交互に突き固めた間に、葉を敷き詰めて強化する当時最新の土木技術「敷葉(しきは)工法」で造られていた。
平安時代や江戸時代の遺構も見つかり、1300年近く、改善を重ねながら現在まで使われてきたことを裏付けた。久米田池は広さ45.6ヘクタール、貯水約157万トンで、満水面積では大阪府内のため池で最大、下流域の水田約80ヘクタールを潤している。(読売新聞朝刊2007年9月22日)

 

そんな久米田池が、2015年に世界かんがい施設遺産に登録されたのだ。

干ばつに悩む農民の苦難を救うため、14年もの歳月(725~738)をかけて築造した行基について、少し述べておかねばなるまい。

 
久米田池の木樋行基は、百済から帰化した王仁(わに)の子孫で、和泉国(大阪府)に生まれる。生家は寺に改められて家原寺(えばらじ)となり、堺市にある。
十五歳で出家し、はじめ法興寺にあったが、薬師寺に移って法相宗を学んだ。
玄奘三蔵(602~664)に教えを受けた道昭(629~700)を師とし、強い影響を受けたが、とくに民間伝道と社会事業とは師の遺産で、行基はそれをいちだんと飛躍させた。
各地に道場をたてて人々に法を説いたほか、橋をかけ、堤を築き、道路を修理し、堀や池を掘って灌漑の施設をつくったり、修造するなど土木事業をすすめる一方、多くの地に布施屋を設けて、難民に食物を与えた。
当時は『大宝律令』による支配体制が確立した時代で、それに伴い庶民はかえって抑圧され、貧窮に苦しんでいたので、人々は彼を行基菩薩と尊称した。


反面、その活動が寺院以外に進出したことから、一時朝廷から強圧を受けたが、それに屈することなく、のちには聖武天皇の東大寺建立・大仏造営に起用され、さらに天皇・皇后・皇太后に菩薩戒を授け、日本で最初の大僧正位(745)を受けた。

道の旅人は、「行基のことを語らねばならない」と思いながら、未だに何の糸口も掴めないでいた。遥か和泉山脈にこころを落ちつかせ、“行基の想い”を映せよとばかり、久米田の池に佇んでいた。

 

ちっぽけな 善意でもよし 心満つ   (高橋操子)

川柳句碑(高橋操子) 道の旅人は、この句碑に出会って、ちょっとは慰められたが、自分にはまだ、「その“ちっぽけな善意”もないなぁ」という思いに駆られた。
 でも、“一人よがりの善意”ならある。旅をつづける人間にとって、それが精一杯の善意なのだ。
 だからと言って、“心が満ちる”と言うことにはならないが、肩の荷をおろすように、自分らしくなれるんよ。
 道の旅人が立ち寄ったのは九月であったが、冬の季語を使った句碑があった。

 旅人に久米田の池も日短か     (高野素十)

聖徳太子に匹敵できる僧といえば行基を挙げなければならないが、行基は役小角より約半世紀後の人であり、行基の中にはすでに役小角の影がさしているのである。
                            (梅原猛『日本仏教を行く』)

 日本を仏教国家にしたのは、間違いなく聖徳太子である。しかし、聖徳太子は仏教者だと思えないのは何故だろう?
 役小角も然りである。しかし、行基では見えなかったものが、聖徳太子や役小角では見えてくる。それは、人間らしい苦悩と言う二字である。そのことで、親鸞が悩んだように、行基もまた悩んだであろうと考えたなら、ちょっとは行基像を垣間見ることができるかもしれない。

行基淵

 

この久米田池を維持管理するために、天平10年(738年)、行基によって創建されたと伝えられている久米田寺がある。

その西側には久米田古墳群がある。この中に貝吹山古墳があり、久米田の戦いで三好実休(1527~1562:三好長慶の弟)が、貝吹山城の城郭として使用していたことが発掘調査から確認されており、当寺院も城郭の一部として使用されていたのではないかと思われている。

また、この貝吹山古墳は「橘諸兄塚」とも呼ばれ、さらに、聖武天皇皇后にして橘諸兄の異父妹にあたる光明皇后に関連する「光明皇后塚(光明塚古墳)」も存在するんよ。

 

 天平3年(731年)8月に弾圧を緩め、翌年には河内国の、狭山池の改修に、行基の技術力や農民動員の力量を利用したとされ、久米田池竣工の天平10年(738年)、朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。

その僧行基と橘諸兄(684~757)が農民を集めて当時の久米田池を築造したと言われているのだ。

天平9年(737年)天然痘の流行によって藤原四兄弟が死去してしまい、諸兄は一気に大臣へと昇り詰めることになる。

果たして彼が、行基と接触した時期はあるのだろうか? おそらく参議に任ぜられ、公卿に列せられた天平3年(731年)ころと思うが、母の氏姓(橘三千代)を継ぎ、【橘諸兄】と名乗るのは、天平8年(736)のことである。

そしてその異父妹が、光明皇后(701~760)なのだ。神亀5年(728年)、長屋王の変が起こるなど紛糾、翌天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。

 

光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺国分寺の設立を夫(聖武天皇)に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。そんな皇后のことだから、社会事業集団の僧行基には関心があったであろう。

 

その行基は天平12年(740年)から、聖武天皇に依頼され大仏建立に協力する。天平13年(741年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年(743年)10月東大寺の大仏造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、天平17年(745年)正月に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。(続日本紀)

 

と言うわけで、行基・諸兄・光明が一堂に会することはあっても、この久米田の地ではないような気がする。しかし、和泉国には光明池の名称が多くあり、光明皇后生誕地の伝説があることだけ記しておく。

 

 熊野街道を豊にしたのは、《白河院ノ御時、御熊野詣トイフコトハジマリテ》(慈円『愚管抄』)とあるように、それはまさに“院政の時代”であった。

 院政とは、譲位したかつての天皇=上皇(院とも呼ぶ)が行う政治のことである。ただし、直系の子や孫を天皇の地位につけることができた上皇が、その親権を行使して政治を行うのが院政であって、単なる元天皇である上皇が院政を行えるわけではない。   (美川圭『院政』)

白河上皇・後鳥羽院遥拝旧蹟地

「白河上皇(1053~1129)熊野御幸のとき、八木郷額原に於て、本社を遑(遙カ)拝あらせられ、芝草を積みて、舞台となし、舞楽を奏せしめ給ひし時、上皇傍の鳥居に掲げたる扁額の筆蹟の拙きをみそなはせられ、親ら筆を執りて『正一位 積川大明神』の八字を大書して之に代へさせ給ひしといふ」(1090年ころ)

 

そもそもが、積川神社の氏地が、紀州街道が走る牛滝川下流の磯上町付近にまで及び、遠方の氏子たちが参拝できるように、その中間地点にこの遥拝所が設けられたって言うんよ。

ところが、熊野街道に面している為、熊野参詣をする皇室・公家の方々が、この地から勅願社である積川(つがわ)神社(創建:崇神天皇の御代)を遥拝され、旅路の安全を祈願されたと言うわけである。

 とりあえず道の旅人は、この遥拝所から積川神社まで駆けてみることにした。

 

尾生町から蜻蛉池公園を目指し、170号線へ出るまでなのだが、ずいぶん広域であり、2回ほど道の確認をせざるを得なかった。直線コースではなく、山手へ向かうだけに、それ以上の距離なのだ。とは言えその本殿は、慶長年間に豊臣秀頼が、片桐且元に大修理を命じて行わせたものであり、重要文化財に指定されている。

 

和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入った和泉式部(978頃~没年不詳)は、娘小式部(999頃~1025)を授かり、一番幸せな日々だったかもしれない。ところが帰京後は、道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇(950~1011)の第三皇子・為尊(ためたか)親王(977~1002)との熱愛が世に喧伝される。しかし、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。

為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道(あつみち)親王(981~1007)の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出する原因を作ったのだ。その顛末を記したのが、『和泉式部日記』である。

そんなスキャンダラスな女性ではあるが、みずから恋の淵に沈んだ女ではなく、われわれが沈ませた女のような気がするのだ。その‟恋の淵”がこの地にあった。


あらざらむ この世のほかの思ひ出に
            いまひとたびの 逢ふこともがな  (和泉式部)

                        恋の淵
 親王の死後、一条天皇中宮藤原彰子(988~1074)に女房として出仕している。つまり、紫式部(生没年不詳)・赤染衛門(生没年不詳)とは同じ職場ってことになる。

その紫式部が、「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。」と日記に評しているけれど、”けしからぬ”とは歌を論じているのであり、素行のことではない。

 また、彰子の父・藤原道長(966~1028)は、‟浮かれ女”と軽口をたたいたりしたが、武勇をもって知られた道長四天王の一人、藤原保昌(958~1036)と再婚させていた。

 その赴任国が丹後であり、小式部内侍の有名な、”まだふみもみず”の歌につながるのである。

 

ところが万寿2年(1025年)、その娘も亡くなり、胸を打つ哀傷歌を残しているのであるが、いったい式部は、”この世のほかの思ひ出に”逢おうとしたのは誰であろう?

道の旅人としても、このままでは浮かばれまいと思っていたら、その近くに”恋ざめ乃淵”があった。ところ碑だけであり、それにふさわしい歌を選ぶことにした。

 

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月 ( 拾遺和歌集1342和泉式部 )

 

作歌の年代は前後するかもしれないが、”性空上人(910~1007)のもとによみてつかはしける”とあ歌である。おそらく式部にしても、‟いまひとたびの”法の月・法の灯であるように思えるのだ。

とは言うものの、この和泉の国にあって、その歌の情念は、与謝野晶子に受け継がれたのかもしれない。つまりその歩みは、みずからを主張する女性たちの伝説となって、現在(いま)に至っているのである。