鳳小栗街道(もう一つの熊野街道)

 

付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は、現在のように堺に向け西流するようになった。

つまり、熊野街道はここで途切れ、大和川を渡る唯一の公儀橋が、大和橋であった。

これがすなわち紀州街道で、大道筋(綾之町交差点~御陵前交差点)から大鳥大社までを、道の旅人は、もうひとつの熊野街道として、辿ることにした。

この大道筋だけをとらえれば、御堂筋に匹敵する道幅であるが、その歩道は比べものにならないぐらい広い。

紀州街道を選ぶ人は西側の歩道をえらび、熊野街道を行く人は、東側を進むのだが、道路の中央を阪堺線が走っており、その妙国寺前駅を東に向かえば妙国寺(堺市堺区)である。

もう一つの熊野街道は、この妙国寺から始めることにする。

正親町天皇の永禄5年(1562年)、阿波国より兵を起こして畿内を支配していた三好長慶の弟・三好実休が日珖に帰依し、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領500石を寄進し、日珖を開山とする当寺が設立された。

しかし、同年3月の久米田の戦いで実休が戦死し、しばらく寺の建物は未整備の状態が続いた。 そこで、永禄9年(1566年)に日珖の父である堺の豪商油屋(伊達)常言、兄の常祐が協力し、境内に堂塔伽藍を建立して広普山妙國寺と称し、永禄11年(1568年)に完成した。

寺名は日珖の師日祝の号である「妙國院」からとられた。

境内の大蘇鉄には、次のような伝説が残っている。

織田信長はその権力を以って天正7年(1579年)、この蘇鉄を安土城に移植させた。

あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。

この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。

 

しかし家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。

しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。

哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。

そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。

これにより徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。

爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという。

天正10年(1582年)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は妙國寺に宿泊していたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝える。

花田口(堺市堺区)は、長尾街道の交差点であり、大小路(堺市堺区)で菅原神社・開口神社、堺山之口商店街から宿院へと行く。

住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。

なぜ摂津国から、和泉国への巡行は続いたのであろう?

 

大寺(開口神社)の南一町にあり、摂州住吉大明神の御旅所也。

方二町の地にして、西には大鳥居太しく、北東を名越岡といふ。

こゝに二祠あり、北を楫取、南を宝御前といふ。

岡の前に、朱の鳥居、朱の瑞籬(みずがき)あり。 毎歳六月晦日、荒和(あらにご)の御祓には、神輿こゝに幸ありて、禊祀を修し給ふ也。      【和泉名所図会】

 みな月のけふのさかひにみそきしてちとせをのふる神の宮人  【壬二(みに)集 家隆】

みな月のなこしの山の呼子鳥おほぬさにのみ声の聞ゆる    【六帖 読み人しらす】

すみよしのなこしの岡の玉つくり数ならぬ身は秋そかなしき  【曽丹集 曽根好忠】

しら露のなこしの岡のうすもみちかつ〱秋の色やそふらん   【夫木(ふぼく) 為家】

六月のなこしの杜の夕すゝみみそきもまたぬ秋の下風     【千五百番 季能】

みな月のなこしの杜の郭公こゑのかきりはこれにや有らん   【夫木 資隆 】

古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内西側にある飯匙堀(いいがいぼり)で「荒和大祓神事」が行われてきた。

明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国・和泉国両一宮の頓宮となった。 現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。 海幸彦が海神から授かったという、潮の満引きを自在にあやつることのできる2つの玉、「塩満珠(しおみつたま)」と「塩乾珠(しおふるたま)」。

 

その一つが埋まるとされる飯匙堀は、強大なパワーを秘めた神聖な地と考えられてきました。 その証に大阪一帯の地をお祓いする住吉祭の神事は、この場所で毎年行われています。 

このまま、南に進むと、環濠都市の一端である土居川に突きあたる。

その端を渡る前に、東に位置する南宗寺を訪れる。

南宗寺(なんしゅうじ)は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。

茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。

古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。

3年(1557年)当時、畿内随一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。

創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。                 

時は慶長20(1615)年、大坂夏の陣。

豊臣方が優勢となり、徳川軍はちりぢりばらばら。

勢いに乗った豊臣方の猛者、後藤又兵衛が見ると、一目散に逃げていく網代駕籠(あじろかご)がある。

「なにやらあやしき駕籠、家康か」と思い、その駕籠ごしに槍(やり)でひと突き。

「手応えあり!」と一気に引き抜いたが、まったく血のりがついていない。

不思議に思った又兵衛だが、その隙に駕籠はもう遠くまで行ってしまった。

そのとき家康は、たしかに駕籠に乗っていたが、痛いのを我慢して着物の袖で血をぬぐったというから、たいしたもの。

その後、深手をおった家康は逃げきることができず、当時、宿院(しゅくいん)の南にあった南宗寺で息たえ、遺骸は敷地内の開山堂の下に埋葬された。 以後、家康の代役を影武者が務め、立派に江戸幕府を開いたとか ・・・。

(大阪日日新聞『大阪ロマン紀行 南宗寺』)

戦火にまみえることが多く、因みに中興の祖は沢庵禅師である。

ところで、三好長慶について、もう少し詳しく述べておかなくては、遺恨を残しかねない。

細川晴元の重臣であった父は、主君らの策謀もあり、一向一揆により殺害された。

当時10歳の長慶は、母とともに堺から逃れ、阿波に逼塞(ひっそく)していた、

ところがその一揆は、晴元でも抑えられなくなり、翌年、石山本願寺と和睦させたのが長慶なのだ。もちろん、代理人を立てたかもしれないが・・・。

しかしそのことは、三好一族が揺るぐことなき、臥薪嘗胆の故事を思い起こさせるのだ。

 

菩提寺を創建した三好長慶の像もあるが、一時機内の支配者として君臨し、織田信長に先行する、“最初の戦国天下人”とも呼ばれたりするが、“下剋上をした悪党”とも酷評されたりした。

近年、再評価の兆しがあるとだけ付け加えおく。

たしかに、畿内に限れば、1550年代~60年代の三好政権は、足利将軍をしのいでいた。

その長慶を支えていたのが、3人の弟【実休・安宅(あたぎ)冬康・十河一存(そごう

かずまさ)】である。

そして父よりも早く亡くなった嫡男の義興(よしおき)、さらに重臣松永久秀など人材は揃っていたようである。

だが、長慶42歳の死は、畿内を統一する時間しか残されていなかったのかもしれない。否、天下を前にして、自身の病と身内の不幸に蝕まれていったのである。

この三好長慶を扱った朗読劇『蘆州のひと』(高橋恵)がある。 設定にはかなり苦労したことが窺える。

まずこの‟蘆州”が、何を意味しているのか分からなかった。

するとそのエピソードが、司馬遼太郎著『阿波紀行 紀ノ川流域 街道をゆく32』に収められていた。

飯盛城での連歌興行の時期、長慶は弟の三好実休(三好義賢)に兵をあたえて畠山高政と戦わせていた。

その折、誰かが「薄にまじる蘆(あし)の一むら 」と句をつけたとき、皆がつけあぐねて苦吟しているところへ注進が入ったのだ。

その書状には、‟実休戦死のよし”が書かれていたが、長慶は一見して懐に入れ、「古沼の浅き方より野となりて 」とつけた。

満座大いに感じ入ったというのだが、「実休、敵の為にうたれぬ。今日の連歌此の句にて止むべし」と言って、弔合戦を遂げて畠山軍を追いはらった。

足利幕府をしのぐ勢いで畿内統一をなした三好兄弟も、実休の死によって、やはり体制を覆す天下人:織田信長の登場を待つしかなかった。

石津神社(いしづじんじゃ)は、大阪府堺市堺区にある神社である。

社伝では、八重事代主神(戎神)が、五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。

つまり、「日本最古の戎宮」を称している。

ところが同じような云い伝えが、紀州街道の堺市西区にある、石津太神社(いわつたじんじゃ)にもある。

もとは一つかもしれないが、こちらが農業の神(陸のえべっさん)としたら、浜に近い石津太は、漁業の神(浜のえべっさん)になるようなことを、裏方さんは云われていた。

ここにある石碑【笑姿(エミシ)】は、本来なら蝦夷であろうが、エビスのことである。

確かに、“えべっさん”といえば、「商売繁盛笹もってこい」で、賑やかなめでたいことであり、“笑う姿”に違いない。

しかし、この“えびす神”は、一般的に耳が遠いとされており、石津神社では、本殿横に木槌で叩いて願い事を唱える板が設置されている。

と云うわけで、この二つの神社は、石津川でつながっており、蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。

 

その石津川を詠った晶子の歌碑がある。

 

人とわれおなじ十九のおもかげを うつせし水よ石津川の流れ

石津川ながれ砂川髪をめでて なでしこ添へし旅の子も見し

 

ところでこの先、熊野街道を行くと、小栗街道の標識が目につくようになる。 説教浄瑠璃の『小栗判官』にちなんでいるのだが、もとはと云えば常陸の国の話であり、この摂津・和泉の国に立ち寄るはずもないのだ。

しかし、府道28号線の交差点には、【鳳・小栗街道】の道路標識があり、これを渡れば、大鳥大社に辿りつくのである。

江戸時代、小栗判官と照手姫(てるてひめ)が、夫婦仲良く熊野詣をしたことを思いやりながら大鳥大社に向かう。 山之口橋のすぐ北の南宗寺や鳳南町の2基の道標が熊野街道の目印です。