逢坂の道標

近世の竜田越奈良街道は 大阪市浪速区恵美須西1丁目・戎神社前交差点の紀州街道追分けを起点とし、現国道25線を東進して一心寺前の「逢坂」を上り四天王寺南大門前から門前町筋を南下する」とあるが、この『逢坂の碑』を出発点とする。

 

近代以前は馬車馬が音をあげるほど急な坂だったと伝えられ、道も狭く、事故多発地点だった。

明治9年(1876年)に茶臼山観音寺の住職(静明)が寄付を集めて坂を切り崩して緩やかにする工事を行った。

明治42年(1909年)には、大阪市電西道頓堀天王寺線(1968年全廃)の敷設に伴い、道路が拡幅されてほぼ現在の姿になった。

 

また、逢坂下の現在の公園北口交差点のあたりは合邦ヶ辻(西成区)と呼ばれ、のちに浄瑠璃『摂州合邦辻(がっぽうがつじ)』の舞台でもある。

合邦辻(がっぽうがつじ)は、現在の松屋町筋(下寺町筋)と国道25号線(竜田越奈良街道)の交差点(公園北口交差点)を指す歴史的な呼称。

合邦ヶ辻などとも表記されるが、 古くは「合法辻」と書かれ、聖徳太子が物部守屋と仏法について合論した地であると伝わるほか、「四天王寺の学校があったことから「学校が辻」と言っていたものが訛った」など、地名については多くの俗説がある。

江戸時代には大坂市街の南郊、摂津国東成郡天王寺村の一角であった。

つまり、合邦辻は四天王寺西門の西方に位置しており、逢坂(天王寺七坂のひとつ)の上り口に当たるのだ。

すなわち竜田越奈良街道はここから東へ、四天王寺門前まで上町台地の斜面を上って行くのだが、坂に向かって右手に一心寺、左手に安居(やすい)神社がある。

 

この天王寺七坂は、天王寺区の南西部、上町台地の斜面にある7つの坂の総称であり、北から真言坂(生玉神社北側にある南北の坂)・源聖寺・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂、そして逢坂である。

創建年は不詳であるが、昌泰(しょうたい)4年(901)菅原道真(845-903)が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母の覚寿尼を訪ねて行く途中、立ち寄って安井(休憩)したところ、安井神社(届出)と呼ばれるようになったという。

当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらい、これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれています。

 

とはいえ、四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居(やすい)」になったともいう。

なお安居神社の祭神(さいじん)は、少彦名神(すくなひこなのかみ)であったが、天慶5年(942)から、道真の霊を祀るようになった。

 

境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしがよく、遊客も多かったと言い、「浪速百景 安井天神社」(南粋亭芳雪/画)・「浪速名所図絵 安井天神山花見」(広重/画)でも花見の名所として選ばれている。

そしてここ安居天満宮は、「真田幸村戦死の地」とあり、この天王寺一帯が、NHK大河『真田丸』の冬・夏の陣の舞台なのである。

文治元年(1185年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」と称し、後に「源空庵」と改名して住んだという。

後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修したが、当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。

慶長元年(1596年)、三河国の僧侶であった本誉存牟(ほんよぞんむ)上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。

 

この寺には翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。

 

正午頃、豊臣方毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方本多忠朝勢を銃撃した。

これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。

毛利勢の勢いは凄まじく、二番手三番手も壊乱し家康本陣が無防備になった。

 

その時真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出したのだ。

 

 さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返し、これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。

三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も切腹を口走ったという。

 

この時の戦いが天王寺・岡山の戦いで、最後は力尽きた真田幸村も、安居神社(安居天満宮)で休息をとっていたところを討ち取られています。 

四天王寺七宮(しちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。

というわけで、北斗七星に倣うわけではないけれど、北には①上宮之址(上之宮町)があり、熊野九十九王子の4番目上野王子でもある。

②大江神社(夕陽丘町)には、上之宮神社・小儀神社も合祀されており、タイガースファンには狛虎もある。

③堀越神社(茶臼山町)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇(暗殺:553?-592)を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したというのだ。

④土塔神社址を超願寺(大道1)としており、寺伝)推古二十二年(613)二月、聖徳太子が阿弥陀仏一体を刻み安置し、父用明天皇の冥福を祈り、念仏会を修める。のちに蘇我馬子の季子(末子)慧観に授け、慧観はこれを超願寺と名づけ三重塔を建立。木像その他高麗僧慧慈より伝えられた仏舎利などを納め、のち火災を防ぐため泥を塗った超願寺は聖徳太子が蘇我馬子の末子・慧観を住まわせたが、太子からいただいた経論や仏舎利を納める三重塔を建て、火災から守るため塔の周囲を泥で塗りこめたところから土塔山の名が残っている。

⑤河堀稲生(こぼれいなり)神社(大道3)は、古代景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀している。

⑥久保神社(勝山2)は、昔、この辺りは窪地だったのでこの名が出たといわれる。もと四天王寺七宮の一にして久保村の産土神。四天王寺建立の願が成熟したことから、願成就宮ともいい、願掛けが多い。

⑦小儀宮(おぎのみや)趾(勝山1)は、四天王寺東門前にあり、これを小儀(しょうぎ)と解すれば、朝廷の儀式のうち、小規模なもので、視告朔(こうさく)・除目(じもく)・踏歌(とうか)・賭弓(のりゆみ)・相撲(すまい)の節(せち)の類なのだが、朝廷に関する行事も行われたのであろうか?  

『摂津名所図会』に土塔古跡については、

四天王寺南大門土塔町超源寺これ也

聖徳太子の御時、震旦国(中国)より渡りし経論(きょうろん)の烏有(うゆう)を)恐れて土塔を築いて蔵(きす)めたまふ。
後世に寺となして南岡山土塔寺と号し・・・」とある。
たが寺の由緒書には、「推古天皇22(614).聖徳太子が父、用明天皇の追福のため阿弥陀仏を自刻し、小堂を構えたのが起こり」とある。

実は、上之宮と四天王寺の間に、もうひとつ宮があり、それが五条宮(真法院町)で、第30代敏達天皇(538?-585?)を祀る全国唯一の神社である。

第33代推古天皇(554-628)元年(593年)、当初は四天王寺に建てられた施薬院と療病院の鎮護として医道の祖神とされる五条大神と少彦名命を祀っていた。

後に橘氏の祖である敏達天皇(皇后推古)も祀り、名称を敏達天皇社と改めて東成郡五条村の鎮守となり、鬼門・火災除けの神としても信仰された。

当地は敏達天皇が皇太子の時に居住した邸宅の跡というのだが、道の旅人の屈折した考え方は、法橋区政と北斗七星に倣えば、聖徳太子の時代は、上之宮が北極星に当たり、鴻臚館の一つになっていたのかもしれない。