大聖勝軍寺

飛鳥時代には、八尾市一帯は物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされている(またそのことが市名の由来となっている)が、物部氏は物部守屋のときに蘇我馬子との戦いに敗れたために滅亡した。

 

その由来とは、「大昔、弓や矢を生産する部族が多く集まっていて、出来上がった矢を背に負い運ぶことが多かったことから、《矢負い》が《矢尾》になり、《八尾》になった」という。

 

由緒「初代天皇・神武天皇が、国を治めるのに適した土地を求めて日向国(現在の長崎県)から大和国(現在の奈良県)へ進まれたとき、生駒の豪族・長髄彦に襲われました。

痛手を負った一行はこの地の大竹藪の中に身を潜め、追撃を逃れたと言い伝えられており、その霊地に天照大神をお祀りしたのが、現在の竹渕(たこち)神社(八尾市竹渕)です。

 

この神社の近くの平野川沿いに歌碑が建てられており、「紅葉ばのながるゝ時は たけ河のふちのみどりも いろかはるらん」と刻まれている。

往時の「竹渕川」の清流をここを訪れた事のある「凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)」によって詠まれたのがこの和歌で「拾遺和歌集第十七巻1131」に残されているとあります。

実はこの竹渕(たけふち)の周りは平野区であり、ここが八尾市の飛び地になっており、いよいよ渋川道の入り口になる亀井西の交差点から、物部氏の本拠地に入る。

日本書紀・用明天皇2年(586)条に、「(天皇の病気治療のため仏僧が呼ばれたことを物部守屋が怒っていると)群臣が自分を陥れるために退路を絶とうとしていると聞かされ、直ちに別業(別邸)のある河内の阿都(アト)にしりぞいて人を集めた

 

崇峻天皇2年(587)条には、「秋7月、蘇我馬子が諸王子と群臣とともに物部守屋を滅ぼそうと謀り、軍勢を率いて志紀郡から守屋の渋河の家を攻めた。守屋は子弟と奴を率いて、稲を積んだ砦を築いて戦った

 

ここで守屋の家があった渋河とは、当地の東約1.7kmの現植松町の辺り(ニギハヤヒを祀る澁川神社がある)というが、当地・阿都の辺りとの説もある。

跡部の地は、物部氏族阿刀氏の本拠と考えられ、『姓氏録(しょうじろく)』には、左京神別(しんべつ)の阿刀宿祢、山城国神別の阿刀宿祢・阿刀連、摂津国神別の阿刀連、和泉国神別の阿刀連、ともに石上朝臣同祖、神饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔を称しますが、肝心の河内国がない。

 ところが、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の河内国渋川郡には「跡部郷」が記載されており、当地付近に比定されてるってわけ。

『旧事本紀(くじほんぎ)』天孫本紀の物部氏系譜にみえる諸氏のうち、阿刀連はもっとも早くに現れ、宇摩志麻治(うましまじ)命の子の、味饒田(まじにぎた)命の後裔とされます。

 

『旧事本紀』天神本紀には、饒速日尊に供奉して天降った天磐船の船長、天津羽原(あまつはばら)が跡部首の祖であるといいます。

 

 阿刀氏の祖神を祭神にあてる説は近世以降有力で、具体的な神名として饒速日命が挙げられることもあります。 

ところで、空海の母は安斗(阿刀)智徳の娘で名は不詳(「玉依御前」「阿古屋御前」など諸説ある)だが、母方ではあるが物部氏とつながっていたかもしれない。

大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)は、大阪府八尾市にある高野山真言宗の寺院で、山号は神妙椋樹山(しんみょうりょうじゅさん)、開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。

討伐軍は三度撃退され、これを見た厩戸皇子は、そこで白膠木(ぬるで)を切りとって、急いで四天王の像を作り、束髪の上に乗せ、誓いを立てて言われた。

 

今、もし私を敵に勝たせて下さったら、必ず護世四王(ごせしおう)のため寺塔を建てましょ う

蘇我馬子大臣(そがのうまこのおおおみ)もまた誓いを立て、「諸天王と大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と言った。

持国天(じこくてん):東の方角を守る持国天は、仏教の世界にある霊山「須弥山(し ゅみせ

           ん)」の東部に住むといわれます。

            仏像は一般的に武神の姿をしており、手には宝珠や刀を持って い るの

           が特徴です。  

           神話に登場する「金翅鳥」という鳥を家来にして悪を打ち砕 き、 仏教 

           の教えを守る役割を果たしています。

広目天(こうもくてん):西の方角を守る広目天は、須弥山の西部に住むといわれます。             仏像は甲冑を身に着けて、手には絵巻と筆を持つのが特徴です。             悪人を罰して仏教の教えへと導く役割があることから、足で邪鬼             を踏みつける姿の像がよく見られます。            

            四天王のほかに、十六善神に数えられることもあります。

増長天(ぞうじょうてん):南の方角を守る増長天は、須弥山の南部に住むといわれま す。              元はインドの神様でしたが、仏教に取り入れられました。

             仏像は甲冑を身に着けた武人の姿をしており、片手に鉾や剣 を持              ち、もう片手を腰に当てていることが多いのが特徴で す。              憤怒の表情を浮かべています。

多聞天(たもんてん):四天王としては北の方角を守り、須弥山の北部に住むといわれる神様            です。

           単独のときは「毘沙門天」と呼ばれて祀られ、七福神の一柱としても            知られています。  

           仏像は甲冑を身に着けた武将の姿で、足で邪鬼を踏みつけているのが            特徴です。             

           手には宝塔を持ち、険しい憤怒の表情をしています。

     物部守屋公顕彰碑

物部守屋公は建国の功臣饒速日命の裔にして代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。

我国に始めて仏教渡来するや国風たる神ながらの道統を護持せんと父公尾輿の固き志を継ぎ用明天皇二年「何ぞ国神に背き他神を敬せんや」と断じ蘇我馬子と激しく対立。

 

公は河内に帰り、一族を挙(こぞ)り此の地に干戈(かんか)を交えて幾度か勇戦奮闘せられしも、時に利あらず同年七月七日遂に果敢(はかな)くも陣歿せられぬ。

嗚呼然れとも公の純乎たる憂国の精神は、永く日本人の道を照さずてあるべき春風秋雨幾星霜。 

実はこの物部守屋大連墳は、神道擁立を旗頭にした彼の墓の整備に際し、全国の神社が協力しており、玉垣は神社の寄進となっているのである。

 

そもそも物部氏は、神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌(かんしょう)していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。

既に雄略朝の頃には大連を輩出し、各地に国造を残すなど、有力な氏として活躍していたとされる。

物部氏は解部(ときべ)を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当していたのである。

 

道の旅人は、この丁未の乱(ていびのらん)で、簡単に物部氏が滅ぶなんて信じがたかった。

各地に国造がおり、軍事まで掌握していたのであれば、クーデターが起こってもおかしくない状態であったはずである。

ところが、物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張した)、半分は四天王寺へ寄進された。

これを境に太子は、物部氏系に心を寄せ、排除することなく、すべての人たちに優遇処置がなされたのではないだろうか?  

 

現在四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており、守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。


八尾駅の近くにある渋川神社(植松町)は、「渋川」とあるものの、『延喜式』神名帳には渋川郡でなく若江郡に記載されています。

というのも、 旧大和川の右岸が若江郡、左岸が渋川郡となるのですが、社伝によればかつては大和川の右岸であり若江郡に属していた「川向」なる字に鎮座していたものの、天文二年(1533年)の水害で社殿が流失し、元亀年間(1570~1573年)に渋川郡となる大和川左岸の現在地に遷座したと伝えられています。

 

この神社の北西の方向に、渋川天神社(渋川町)があり、その境内は、JR大和路線に面しています。

 かつて、旧国鉄による龍華操車場の工事の際、地下から多くの単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土し、 渋川から出土した寺院跡であるから「渋川廃寺」と名付けられたが、渋川寺の建立時期が7世紀前半であると判明した。

道の旅人は、老原・天王寺屋・志紀、そして二俣から柏原市に入るのだが、そこで【世界かんがい施設遺産】の告知を知った。

八尾市を代表する長瀬川・玉串川の歴史や景観を後世に伝える記念看板設置にご協力下さい!!

 

 大和川の付け替えに伴い1705年(宝永二年)に供用が開始された「西用水井路(現在の長瀬川)」と「東用水井路(現在の玉串川)」の2つの水路(「大和川分水築留掛かり」)が、2018年8月13日に世界かんがい施設遺産に登録されました。  

そこで、これらかんがい施設が、歴史的・技術的・社会的価値のある施設として認められたことを、もっと皆さんに知っていただきたく、記念看板を設置することになりました。

市街地を流れる貴重な水辺空間であるこれら長瀬川・玉串川の歴史や風景を、今後も「守り」、「伝えていく」ためには、皆さまのご協力が必要です。看板に名入れができるなどのお礼の品も用意しております。

ふるさと納税制度の一つであるガバメントクラウドファンディングによる支援を是非お願いします。