大念佛寺

平野の地名は平安時代末期にまで遡ることが可能で、古くは摂津国住吉郡平野庄と呼ばれ、征夷大将軍・坂上田村麻呂(758-811)の次男で平野の開発領主となった坂上広野(787-828)を「平野殿」と呼んだという。

平野という地名の由来については、広野が訛って平野になったという説と、河内源氏の本拠地である石川庄を相続した石川源氏系の杭全氏が杭全庄を開発し、その時に多くの湖沼を埋め立て「野が平らになった」という意味から起こったという説がある。

平野庄は近世には平野郷と呼ばれるようになり、杭全庄と平野庄、平野郷は同じ地域の名称である。

戦国時代には坂上広野の子孫という平野氏一族の末吉家を筆頭とする坂上氏庶流の平野氏七名家(末吉氏・土橋家・辻花氏・成安氏・西村氏・三上氏・井上氏)と呼ばれる家々が自治権を掌握し周囲に環濠を巡らせて自衛の形を固めた。

大念佛寺(だいねんぶつじ)は、比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍(1073?-1132)が、大治2年(1127年)に鳥羽上皇(1103-1156)の勅願により開創した、日本最初の念仏道場である。

摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主である平野殿・坂上広野(787-828)の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所・修楽寺の別院が前身となっている。

第6世・良鎮が寿永元年(1182年)に亡くなると、大念佛寺の流派では良い後継者に恵まれず寺勢は振るわなくなった。

 

元亨元年(1321年)、139年ぶりに第7世として法明(1279-1349)が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、大和国當麻寺で行われていた練供養をもとにした万部おねりを行い始める。

法明上人は、1279年(弘安2年)摂津国深江で生まれ、幼名を信貴千代と称し、父は後宇多天皇に仕えた清原右京亮守道、母は河内枚岡神社の神司の娘と言われている。

相次いで肉親の死に遇い、世の無情を感じて出家、高野山に登り千手院谷真福院の俊賢法師の許で出家し、法明坊良尊を号した。

 

初め密教を修学したが、のち念仏に帰依し43歳の時、石清水八幡大士の神勅により、融通念仏宗第7世(大念仏寺)の法灯を継承し、集団の基礎を固め、このことから上人は中興の祖と称えられている。

「万部おねり」とは、聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合した、融通念佛宗総本山大念佛寺で最大の伝統行事の通称名で、極楽浄土から二十五菩薩を従えて迎えに来るという、阿弥陀仏の願いを具体的に表現した儀式のことです。

 

春風や 巡礼どもが 練供養  一茶 


①観世音菩薩:大慈悲心をもって衆生を災難苦難から救い、来迎の際、蓮台に乗せて下さる。

②勢至菩薩:合掌は仏の智慧を司り、衆生に菩提心を起こさせます。

③薬王菩薩:衆生を病苦から救い、安楽の地に住まわせてくださいます。

④薬上菩薩:私たちを悟りに導いて下さいます。

⑤普賢菩薩:常に理知と慈悲心の徳により、衆生を救ってくださいます。

⑥金蔵菩薩:堅固な知恵を持ち、無尽の功徳を与えて下さいます。

⑦獅子吼菩薩:法を説き、常に衆生を導いて下さいます。

⑧華厳王菩薩:鉦鼓の音色が蓮華蔵世界に響き渡ります。

⑨虚空蔵菩薩:無量の福と智で、衆生の求めに応じ利益を与えて下さいます。

⑩徳蔵菩薩:大いなる善根功徳を所蔵するといわれ、衆生の願いに応じ施してくださいます。

⑪寳藏菩薩:南無阿弥陀仏の名号、その功徳を施してくださいます。

⑫法自在菩薩:仏法を自在に求め、遍く衆生のために施して下さいます。

⑬金剛蔵菩薩:ハチの響きが平等世界に行き渡ります。

⑭山海慧菩薩:クゴの奏でる音色は、真如の理を示しています。

⑮光明王菩薩:手にしたバチが奏でる音色、無明の迷いを払います。

⑯陀羅尼菩薩:私たちに仏の教えと境地を説き続けておられます。

⑰衆法王菩薩:私たちがみんな仏になれることを賞賛しておられます。

⑱日照王菩薩:諸仏如来の住まわれる世界を讃嘆されています。

⑲月光王菩薩:十方世界を讃歎されています。

⑳定自在王菩薩:太鼓の音は、あらゆるものの平等の響きを示しています。

㉑三昧王菩薩:捧げる華鬘は、真如の世界に舞い踊ります。

㉒大自在王菩薩:無碍自在の徳をもって、一切衆生を導いて下さいます。

㉓白象王菩薩:宝幢が涅槃の地に翻ります。

㉔大威徳王菩薩:清浄なる説法が、隅々まで行き渡っていきます。

㉕無辺身菩薩:お持ちの香炉で、如来を供養しておられます。

道の旅人は、平野中央本通商店街に入り西に向かうと、そこに全興寺(せんこうじ)北門も並んでおり、しかも、「平野の町づくりを考える会」の事務局まであるという。

つまり、平野町ぐるみ博物館を含め様々な町おこし活動を行っているのだ。

境内には地獄の様子を写した「地獄堂」や仏の世界を表現した「ほとけのくに」がある。

地獄で仏といかないが、無事に地獄を抜けたら仏の国に行けるってもんだ。

 

さらに、町ぐるみ博物館の一つである「小さな駄菓子屋さん博物館」や、子供の遊び場として利用される「おも路地」など、多種多様な施設があり、「大阪のおもろい寺」、「寺のディズニーランド」とも称されている。

飛鳥時代、聖徳太子が当時野原だったこの地域に仏堂を建て、薬師如来像を安置したのが起源とされる。

寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。

全興寺の本堂は天正4年(1576年)に建造され、大坂夏の陣で一部を焼失し、1661年に再建されたもので、大阪府内でも有数の古い木造建築となっている。

 

大坂夏の陣 慶長二十年(1615)五月六日の道明寺合戦に敗れた豊臣方は、真田幸村隊を殿軍(しんがり)として、大坂城に退却することとなりました。

豊臣方を追撃する徳川家康が、恐らく通り、平野にて補給と休息をとると考えた幸村は、樋尻門の傍らにあった地蔵堂の下に地雷火を仕掛けと、家康の到着を待ちました。

案の定、家康がやってきて、まさに爆発するであろう時に、小便がしたくなり、その場を離れたその時に、爆発し、九死に一生を得たのでした。

爆発音を確認した、幸村隊は一斉に攻め入りましたが、家康は樋尻橋の下に隠れた後、馬は竹淵(たこち)堤を走り、辰巳池の葦の中に逃げ込みました。

幸村隊は辰巳池も調べましたが、もし家康が潜んでいるのなら、葦の葉が池の内側に向いているはずなのに、みな外側を向いているため、兵たちは怪しまずに引き上げ、命拾いしたという伝説です。

 

この平野の地雷火により、地蔵の首が約300メートル離れた全興寺に飛んだとされ、地蔵首の開帳は8月23日と24日。

そのお地蔵さんの向かいに、安藤正次墓所があり、禄高二千石の旗本で、大坂夏の陣には御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和元年(1615年)5月7日の大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常、本田康紀(やすのり)両軍に、敵陣へ肉薄するようとの命令を伝えた。

その時数騎の敵兵に出会い、単身馬を進めて戦い、豊臣方の首級をあげたが、自らも深傷を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名したと賞され、宿所である平野の願正寺に送られて傷の療養に努めていたが、再起不能を悟り、19日自刃した。(享年51)

道の旅人は、平野公園を過ぎ、平野川を渡り、加美西の交差点を右に折れて亀井西に向かったのだが、この南に飛び地のように八尾市竹渕がある。

なお地名は(たけふち)であるが、神社と小学校は(たこち)と呼ばれており、古代の歴史を思わせる地名である。

 

紅葉ばのながるゝ時は たけ河のふちのみどりも いろかはるらむ

 

詞書に「題しらす みつね」とあり、場所はどこだかわからないが、碑文によると、往時の「竹渕川」(現平野川)の清流を訪れた、「凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)」によって詠まれ、「拾遺(しゅうい)和歌集巻十七 雑秋1131」に残されたとある。

 

すると同じように探訪しているブログに出遭い、歌人相模(998?-1061?)の、竹渕(たかふち)に関する歌が出てきたので記しておく。

 

旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな