新大和橋(柏原市-藤井寺)・石川橋(藤井寺-柏原市)

現在の柏原の姿は、宝永元年(1704年)に行われた、大和川の付け替え工事にあるというのも、柏原においてその流路をふさぎ、堺へ向かう新川を設けたことにありました。

この工事の完成により、洪水の危険が減少しただけでなく、産業が大いに発展し、その後の経済的発展の基盤が築かれまし た。

つまり、それまで時勢の流れに従うままの柏原が、旧態から前進し、脱皮する大転換期でもあり、この付け替えによって、旧大和川床に開発された新田は、木綿と米との輪作地として利用され、物産は了意川に就航した柏原船や、新大和川の剣先船などによって、商都大阪へと販路が開かれたのです。

『大阪府全志』にこの社の由緒を「創建の年月は詳ならず。

元、とある邸内に鎮座せしを、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。

無格社なりしも、泉北郡向井村の村社若林神社《天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命》を合祀するとともに村社に列し、更に志紀村の稲荷神社倉稻魂(うかのみたま)命を合祀。」とある。

元々の御祭神は白髭大明神でしたが、明治期の合祀後、何時の頃か、稲荷神社の御祭神・倉稻魂命『日本書紀』が主祭神となった。

~由緒~柏原神社(旧:白髭稲荷神社)

大和川が北流していた頃、かつての柏原村は大和川の大洪水で壊滅的な被害を受けており、 その復興事業として柏原から大阪市中までの柏原船の営業が約270年続けられました。

1640年頃、大坂組の会所が今町に移転して経済拠点となり、 それ以降に宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)が祀られたと伝わります。

言い伝えによると 『往古大和川の堤に一祠有り、白髭の老人が稲を背負いて現れ、我はこの神の現身なり!旧二月の初牛に神慮(しんりょ)を慰め祭事有るべし。厄災を祓い延寿を授かり萬民安全に守るべし』 と神祠に入り給う。

この神社のそばにある三田家(さんだけ)住宅は、1766年(明和3年)の建築で、柏原の富商の代表的な住宅であり、1969年(昭和44年)に主屋・土蔵の2棟と塀1棟が国の重要文化財に指定されている。

 

江戸時代前半、大和川付替工事前の柏原村は常に洪水に悩まされ、特に1633年(寛永10年)堤の決壊で、濁流のため、家45軒、田畑200石分が流失し、多くの死者を出した。

疲弊した柏原村を復興するため代官末吉孫左衛門は了意川(平野川)に荷舟(柏原舟)を通し、大坂と柏原の物資輸送計画を立て、1636年(寛永13年)15名の商人と40艘の舟仲間でスタートさせた。

また、1639年(寛永16年)には大坂の大文字屋七左衛門ら大坂組と呼ばれる14名の有力商人をこの柏原に勧誘した。

大阪組が参加した1640年(寛永17年)には総数は70艘になり、大和川の付け替え工事後も、了意川(平野川)を利用し、柏原舟の運行は続き、柏原村の経済の発展に大きな役割を果たしたが、1889年(明治22年)湊町、柏原間に鉄道が開通したため、荷物輸送は柏原舟から鉄道に代わり、1907年(明治40年)にその役目を終えた。

大坂の伏見呉服町より、当地に引っ越してきた初代七左衛門は、2艘の持ち舟でスタートさせたが、事業は順調に伸び、明治初年には持ち舟は19艘に及んだという。

この初代七左衛門は三田浄久という名で知られた学者・文人で、『河内鑑名所記』の著者でもあり、井原西鶴や貞門第1人者の安原貞室らとの親交もあった。

なお『西鶴名残之友』には、浄久のことを「河州柏原の里に浄久と名乗て無類の俳諧好、老のたのしみ是ひとつと極めて」と書かれています。

 

浄久(1608-1688)は書物の収集も盛んで、大坂の本屋がたびたび浄久のもとに本を売りに来ていたという記録があります。

また、蔵書目録から膨大な書物を所蔵していたこともわかっており、本屋にとっては、大きな得意先だったようです。

三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。

明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています。

この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示されるとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類も合わせて重要文化財に指定されています。

また、河内で盛んに栽培された木綿の問屋と、綿作りに必要な干鰯(ほしか)等の肥料も商い、大和川の舟運では大坂と柏原を結んでいたのです。

さらに南に向かうと、柏原黒田神社(柏原市今町)があります。

もとは塩殿神社と称し、塩土翁命を奉斎(ほうさい)していました。

海運・交通安全の神として崇敬されたといわれています。

昭和20(1945)年の戦禍の再興に伴い、氏神である藤井寺市の黒田神社祭神と上市春日神社祭神を合祀し、社名を柏原黒田神社と改称しました。

黒田神社の名の由来は、農民の人々が耕している田畑が黒々と肥えてほしい、と願ったことだと言い伝えられています。

夏や秋の祭礼などに、勇壮なだんじり曳行が見られます。

新大和橋は、柏原市上市と藤井寺市船橋町とまたがっており、すぐ上流側は大和川と石川の合流点になっている。

現在は、大阪府道802号八尾河内長野自転車道線(南河内サイクルライン)の一部であり、すぐ下流側に近鉄道明寺線の橋梁が架かっている。

 

かつて奈良時代に、「河内大橋」とよばれた朱塗りの橋が大和川・石川合流地点付近にあり、『万葉集』にも謳われてもいるが、この橋がどの位置にあったかは定かでなく、複数の説がある。

しかし、増水のたびに破損・流出し、以来、この付近には架橋されなくなったと考えられるが、

近くには河内国府があり、竜田道(渋川道)と長尾街道(大津道)の合流点にもなっていた。

さらに東高野街道が整備され、交通の要所となるも、川越えの橋はなく、柏原村と船橋村の間を渡し船で越えていた。


この新大和橋は、付け替え以前の東高野街道筋にあたり、藤井寺市に入り、長尾街道と合流して、石川橋を渡って、再び柏原市に入るのだが、その前に船橋古墳について説明する。

 

遺跡が広がる河床部分は、川が造られる前は村の集落の一部や農地であり、もし川を造るために土地を掘っていれば、その時点でこの部分の遺跡は破壊されて消失していたでしょう。

しかし、この場所に造られた大和川は、土地を掘るのではなくほぼ平坦な土地に大量の土を積み上げて両側の堤防を築くという造り方でした。

そのため、すでに集落や農地の下に埋もれていた遺跡は掘り返されることもなく、川底の下に眠ってしまったのです。

ここが川底になったことで、後世に建物や道路が建設されることもなく、遺跡は破壊を免れたわけです。

昭和20年代末~30年代に河床の遺跡調査が何度か実施され、建物遺構の確認や出土物の年代構成についての研究が進んで行き、こうして、この地の遺跡は「船橋遺跡」と名付けられたのです。(『藤井寺市の文化財』より)

ついでながら、藤井寺の黒田神社について述べると、式内社調査報告(1979)には、「当社の約200m北を流れる現大和川の河底一帯には船橋遺跡が広がり、そこから縄文晩期から弥生全期にわたる遺物が出土していること、また当地の東約150mの国府遺跡(コウイセキ)から縄文・弥生人骨70数体(百余体ともいう)が出土していることなどから、この辺りは海を渡って移住してきた呉人(クレビト)等が居住し、呉人が耕していた田・クレダが黒田・クロダに転訛したともいわれ、そうした呉人等の永眠の地であった黒田神社の周辺が、次第に祭祀の場所となったのではないかと推測する」(大意)とある。

 

今、当社は大和川以南の北条町を氏地としているが、江戸中期・宝永元年(1704)の大和川付替までは、川の北側、今の柏原市中心部までを氏地とする大きな神社だったという。

                         (『河内国志紀郡 黒田神社』より)