六 古今集

『古今和歌集』は、「古今の和歌を集めた歌集」の意味であり、和歌集としては最初の勅撰集で、和歌の重要性が再び認められるようになった裏には、菅原道真(845-903)の中国に対する姿勢があると思われる。

道真は894年、日本はもはや外国に指導を仰ぐ必要はないと言い、遣唐使の廃止を進言したのだ。

 

『古今集』で最も重要な歌人は、言うまでもなく紀貫之(866?-945?)で、少なくとも300年の間ー藤原定家が現れるまでー日本で最も影響力のある歌人であった。

貫之の歌は1614首が現存しており、必要とされるときに必要とされる歌を詠めた貫之は、いわば職業歌人であった。

 

『古今集』で最も印象に残る歌人は、おそらく在原業平(825-880)や小野小町(生没年不詳)など一世代前の歌人たちだろうが、宇多天皇(867-931)の寵を受けた伊勢(877?-939?)も、小町流の情熱的な歌を詠み、『古今集』にいくつかの作品を残した。

学者の間には、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね:859?-925?)を『古今集』最高の歌人だとする意見もあり、地位にやかましかった宮廷人も、躬恒の歌には大いに感銘して、大量入集という結果になったものだろう。

 

【追伸】

紀貫之102首・凡河内躬恒60首・紀友則46首・壬生忠岑36首・素性36首・在原業平30首(20210222) 

『古今集』二十巻の最初の六巻は四季の歌に充てられており、加州の没頭に四季の歌を配置するやり方は、『新撰万葉集』に倣ったものかもしれないし、宮中の歌合せで季節の歌が重視されていたのかもしれない。

この時代以降一千年の間、詠まれる和歌の大部分は季節の歌となり、季節を直接歌われることもあったし、霞・靄・霧など季節を特徴づける事象を通して間接的に歌われることもあったが、季節を表す言葉には、やがて恣意的に使われるものも出てくる。

 

例えば「月」は、特に装飾されない限り「秋の月」を意味するようになり、日本では、月の光は秋が最高とされているためであるが、日本人の季節へのこだわりは、四季のそれぞれが独特の様相を見せるからだという説がある。

春と秋には二巻づつ割り当てられているが、夏と冬は一巻づつしかなく、歌数では季節感の不釣り合いが一層大きく、秋の歌百四十五首に対し、夏の歌はわずか三十四首で、このように季節の好みが偏っているのは、都の機構によるのだろう。

 

季節の歌に続いて、賀歌・離別歌・羇旅歌・物名歌が一巻づつあり、物名歌は、様々な題材に就て様々な調子で詠まれているが、歌に何かの言葉を隠しているのが特徴であるが、これが集中もっとも私的な歌である恋歌五巻の直前に置かれているのは、そこに理由があるのかもしれない。

『古今集』に収められた恋歌は三百六十首にのぼり、あらゆるカテゴリーの中で最多であり、恋の歌こそ、和歌が「暗黒時代」を生き延びられた理由に他ならないことを思えば、数の多さは当然である。

 

恋の歌の後ろには、哀傷歌一巻・雑歌二巻・雑体歌一巻・そして宮中行事に関連する大歌所御歌(おおうたどころのおおんうた)一巻が続くが、最後の二巻は種々雑多な歌が見られ、予定の二十巻にするため手当たり次第に集めたという印象を与える。

『古今集』の編者が選んだ配列基準は時間の流れ、春の歌なら風景にかかる春霞、次に梅の花、さらには桜の花を置き、つぼみ・咲いた桜・散る桜のように順序付け、恋の歌はトキめきから始まって、秘めた恋・恋の苦しみ・恋の終わった後のあきらめへと続く。

多くの歌には詞書や左注があり、詞書はその歌が詠まれた事情を説明しており、読者にわかりにくい点が歌にある時などだが、のちの宮廷歌集で「花」と言えば、それだけで桜を意味することになるが、『古今集』ではどの花でも意味しえたのである。