23 中世軍記物語

日本の中世をの暗さをよく伝えている文学作品に、鎌倉・室町時代の軍記物語があるが、これら後世の作品が『平家物語』の影響下に書かれたことは言うまでもない。

壮大さで、『平家物語』に匹敵する作品は生まれなかったが、日本の民族的英雄を作り出したという点では、『平家物語』にも劣らない『太平記』がある。

 

本章では、「中世軍記物語」を十三世紀から十五世紀初頭にかけて成立した作品に限り、それをさらに二種類に分け、戦乱での出来事を置かれ少なかれ忠実に描いたものを「年代記」!

事実と虚構を自由に混交させ、超自然的な要素を取り入れたり、物語的な手法によって登場人物の思考に入り込んだりしているものを、「歴史的ロマン」と呼ぶことにする。

【年代記】

承久記』は、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を企てるという大事件の原因と顛末を語った作品であるが、その直接の原因は、一般に後鳥羽院が寵愛していた伊賀局もと白拍子の亀菊)に二つの荘園を与えたこととされる。

その荘園の地頭が伊賀の局をないがしろにしたため、怒った院が執権北条義時(1163-1224)に地頭の免職と地頭職に廃止を求め、拒否されたのをきっかけに、院は義時と鎌倉幕府への攻撃準備を開始する。

 

1219年に三代将軍源実朝が暗殺されたばかりであり、おそらく幕府の内部が混乱してると踏んでのことだろうが、故頼朝の北の方、北条政子(1157-1225)の意志の強さを過小評価していたのか、「尼将軍」とも呼ばれた政子は弟義時とともに幕府軍の結束に尽力した。

後鳥羽院の軍勢は、京都守護の伊賀光季(みつすえ)を襲い気勢を上げるが、読者の記憶に強く残るのは、光季と息子光綱の死の瞬間、多勢に無勢ではいかんともしがたく、勇敢な息子も、腹を切るも切り切れず、無理と悟った光季は、涙とともに息子の首を掻き切り共に息絶えるのだ。

 

『承久記』に描かれている様々な合戦には、個人の悲劇が語られて、痛切に胸を打つ瞬間があるが、戦闘場面があまりに多いため同じようなことの繰り返しは避けられず、全体としては退屈な読み物になっている。

『承久記』の描く後鳥羽院は、貴人にあるまじき振る舞いをし、その代償を払わされる支配者であるが、院の味わう苦悩は、最終的には読者の同情を誘い、特に沖についてからの後鳥羽院の歌には、以前には見られなかった検査が加わる。

 

後鳥羽院の長子土御門院は、在位中に後鳥羽院の意向で弟順徳天皇に譲位させられており、これを怨みに思っており、また承久の乱の関与もなかったことから幕府も処罰成しに済まそうとしたが、院は自分から進んで流されるのである。

全ては後鳥羽院の責任で、その愚かさが、自分にも日本全体にも災厄を招き寄せたと作者は信じており、最も三院遷幸の描写からは、作者の意図に反して、儒教的教訓収まり切れない悲劇が感じ取られるのである。(20230213)

全四十巻からなる『太平記』は、室町時代最長の軍記物語と言うだけでなく、日本文学全体でも最長の作品のひとつで、題名とは裏腹に、五十年間にわたるほぼ切れ目ない戦乱を物語っていることから、題名の意味を「太平の記」ではなく、「太平を回復する記」と解釈する説もある。

三代将軍源実朝の死後、北条家は執権として国政を牛耳っていたが、『太平記』は、その北条家から権力を奪回するために、後醍醐天皇がどう行動したかを語ることから始まり、まず1324年、最初の討幕計画を練る。

 

さらに1331年、全開を上回る討幕計画を練ったが、これも露見し、天皇は奈良に幕府の追っ手を逃れ、その間、幕府は都に光厳天皇を立て、朝廷は、幕府を後ろ盾とする北朝と、後醍醐天皇らの南朝と分裂し、その後一時的な和解はあったものの、この分裂状態は十四世紀末まで続いた。

1332年、後醍醐天皇は幕府にとらえられ、隠岐に流されるが、子の護良(もりなが)親王が挙兵し、それに呼応して楠木正成(1294-1336)らが立ち上がり、よき寡兵で幕府の大軍を撃破、この動きに合わせ、1333年には、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、内戦はいよいよ本格化する。

 

鎌倉幕府は、反乱鎮圧のための足利尊氏(1305-58)を上洛させたが、尊氏は途中で幕府に反旗を翻し、かえって後醍醐天皇の名で京都を制圧し、さらに関東では、新田義貞(1301-38)が北条氏討伐の旗をあげ、鎌倉に攻め入って、ついに幕府を滅ぼし、こうして建武親政が実現する。

『太平記』の作者は、こうした戦乱の時代になったことの原因を、後醍醐天皇が「君の徳」を失い、執権北条高時(1304-1333)が、「臣の礼」を失ったからだと言っているのだが、高時は闘犬と田楽に打ち興じ、特に闘犬には何千匹もの犬を飼うほど夢中になった。

 

後醍醐親政の崩壊には様々の原因があったが、中でも足利尊氏の再度の心変わりは大きく、尊氏は武家政権の再興を志して、後醍醐天皇に背いたわけだが、この離反に一事のため、尊氏はその後何世紀にもわたって酷評され続けることになる。

一方、戦死するまで後醍醐天皇に忠義であり続けた、正成と義貞は、絶対的忠誠の模範として知られるようになり、『太平記』は何世紀にもわたって人気の書となり、特に国家主義精神の高揚期広く読まれた。(20230220)

後醍醐天皇の最大の過ちは、建武新政の実現に大きな功績のあった、皇子護良(もりよし)親王(1305-1335)を迫害したことで、還俗(げんぞく)して父のために戦った親王に、皇位への野心があるのではないかと恐れた天皇は、親王に僧籍への復帰を促し、最後には尊氏に引き渡し、やがて暗殺された。

所で「太平記」の作者は、一人ではないにしても、一人の編者によって編まれた可能性が強く、文体は一貫していても、思想的背景は一様ではなく、冒頭には儒教の王道論を簡潔に述べた漢文が置かれ、中国の歴史から前例を引きながら、仁徳を欠いた王や皇帝はその地位を保てないと語っている。

 

全四十巻のうち最初の十一巻は、おおむね儒教的と言えるが、前世ではなく現世での行動から生じる利益と不利益を強調し、支配者が支配者が歴史を指針とすることの重要性を言っているが、楠木正成の死辺りから、儒教から仏教への姿勢の転換が目立ち始める。

正成と言う非の打ちどころのない人間が、道徳的に劣る敵に戦いに敗れたことの説明に窮したかのようであり、作者としては、この世の人間にはどうしようもない原因を仮定するしかなかったかもしれない。

 

室町時代の年代記には、作品の規模でも評判の高さでも『太平記』に並ぶものはなく、唯一、明徳の乱の顛末を綴った『明徳記』が単なる合戦記の域を超え、同時代に書かれた軍記の中では、『太平記』の持つ文学性に最も近い作品になっている。

この作品の文学史的意義は、中世文学の権威によれば、「平家物語の持つ語り物としての抒情性と太平記の持つ現実主義的な文学基調との合流である」点にあるというのだが、作者は、幕府側に立ち、その立場からこの軍記を欠いたことが明瞭にわかる。

 

『明徳記』で最も感動的なのは、幕府の勝利を謳いあげた部分ではなく、山名家の人々の最後を叙述している部分で、氏清の嫡子、山名小次郎の死は、平敦盛の死を連想させ、最も忘れがたいのは、氏清の妻の最後を描いた部分であろう。

夫の戦死を聞き、後を追おうと決心をし、出家を進められるも、自殺未遂に終わり、面会に来た二人の息子には。戦場で武士らしく振舞わなかったことを理由に、最後の面会すら拒絶し、『明徳記』では、妻と母が重要な役割を果たしてる。(20230227)

曽我物語』は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語で、原初形態は鎌倉時代の中期から後期にかけて成立したものが、南北朝時代から室町時代にかけて発展し、初期には関東の地理的・歴史的な実情を色濃く写した「真名本」が、盲目の僧らによる語り物として継承された。

それが京都に持ち込まれると、史実性が薄められたかわりに、よりドラマチックな「仮名本」が生まれ、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築き、「日本三大仇討ちもの」の一つとされるようになり、「真名本」と「仮名本」の2系統に大別されている。

 

「真名本」は東国に関する地理や人物等の描写が精緻・正確で、各巻の冒頭部には副題として「本朝報恩合戦謝徳闘諍集」と記され、報恩・因果応報の宗教的説話であることが強調されており、その内容は仏教の唱導が色濃く反映されている。

それに較べると「仮名本」は、古今の和漢の故事の引用が豊富であり、より劇的な脚色や創作的逸話が追加され、娯楽色が強い反面、東国についての描写は不正確なことから、京都で文化人や学僧などによって編み出されていったと推定されている。

 

真名本『曽我物語』によると、仇討ちの発端は安元2年(1176年)10月に兄弟の父である河津祐泰(すけやす)が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経(すけつね)の郎従に暗殺されたことによるが、祐泰が31歳、一万が5歳、箱王が3歳の時のことであったが、のちのち兄弟の母が、曽我祐信(すけのぶ)と再婚したため、兄弟は曽我姓を名乗ったのである。

祐経は「心を懸けて一矢射てむや(真名本『巻第一』)」と伊東荘を中心とする所領相論の相手であり妻(万劫)を離縁させた人物でもある伊東祐親(すけちか)の暗殺を郎従に命じていたが、矢は祐親ではなく祐泰に命中し非業の死を遂げたため、その敵にあたる祐経を曽我兄弟が討った事件なのだ。(20230306)

日本のあらゆる歴史上の人物の中で、鎌倉幕府を創設した源頼朝の弟、源義経(1159-89)ほどよく知られ、敬愛されている英雄は居ないことをアイバン・モリス(1926-1976)は、著書『高貴なる敗北』の一章を義経について書いているのである。

平家との戦いに輝かしい勝利を収めた義経は、その短い生涯の残りに何もしなくても、既に永遠の名声を獲得していたと言えるだろうが、モリスが指摘する通り、その後、兄頼朝に敗れ、破滅に追いやられることで、日本人の心の中に一層確固とした地位を占めるに至った。

 

義経の物語として、『義経記』はおそらくもっとも有名な作品だろうが、文体は『平家物語』に似ていて、漢語を多用した和文で書かれており、文章が概して口語体デアあることから、巣語りで語られたものと考えられている。

義経伝説を題材にした芝居の中でもっとも有名なものは、能の『安宅』を改作した歌舞伎『勧進帳』だと思うが、この芝居に取り入られている要素は、ほとんどが『義経記』にも見え、弁慶が主君を打擲し、非礼を詫びる弁慶を制し、その機転をほめる場面である。

 

義経伝説は、現在でも日本人の心に生き続け新しい文学作品をうむ力となっており、『義経記』自体は、特に優れた作品とは言えないまでも、国民的英雄像を想像したという点で、他のどの作品をもしのいでいる。

増鏡』は、治承4年(1180年)の後鳥羽天皇誕生から、元弘3年/正慶2年(1333年)の元弘の乱で後醍醐天皇が鎌倉幕府に勝利するまでを描いたもので、決して客観的な歴史ではないが、「歴史物語」の傑作ではある。(20230313)