四天王寺西門

四天王寺西門に立つ石鳥居は、国の重要文化財に指定された建造物であり、永仁2年(1294)に忍性(1217-1303)によって建立されたものである。

石鳥居ではあるが、柱を繋ぐ梁にあたる部材、すなわち島木(しまぎ)と貫(ぬき)については、重量の軽減化をはかるためか、石ではなく、木製の心材を銅板で覆うという構造をとっている。

四天王寺西門は、浄土教信仰のうえで日想観の聖地として位置付けられる特別な土地であり、 平安時代以降、様々な階層の人々から厚い信仰を集めてきた。

石鳥居はその象徴的な存在で、現世から西方浄土への入口としての役割を負う建造物であり、

鳥居上部の嘉暦元年(1326年)鋳造の扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と記され、この地が釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意です。

西の海に沈む夕陽を拝む場所で、現世から西方極楽浄土に通じる救いの門として信仰されてきました。

春秋の彼岸の中日(春分の日と秋分の日)には、四天王寺の石鳥居から西を見ると、太陽がちょうど石鳥居の中心を通り、六甲山系と淡路島の中間の水平線に沈みます。

彼岸の中日には、西門から鳥居に沈む太陽を拝む『日想観』法要(西方浄土を思って日が没する様子を見詰め、般若心経を唱える法要)が行なわれています。

忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。

聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、深く感銘しその復興を図っている。

四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院(やくいん)、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。

また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。

忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのである。

師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性(良観)に託した。

忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて、非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。

その結果、叡尊と忍性の間に齟齬(そご)を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』)と苦言も呈している。

真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている。

 

特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。

後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社会事業を展開し、人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈されました。

そして鳥居をくぐると、『聖徳太子影向(ようごう)引導の鐘』がお迎えしてくれる。

 

【引導石(いんどうせき)】

引導とは、釈尊が「生者必滅 会者定離」の人生無常の迷いの世界より、人々を究極の悟りの世界へと導かれたことを指し、転法輪石・伊勢神宮遥拝石・熊野権現礼拝石と合わせて四天王寺四石の一つに数えられている。

古記録によると、諸人葬送の時に棺を引導石の前に置き、無常院(北引導鐘堂)の鐘を三度鳴らすと、お太子様がこの医師に影向有りて亡魂を極楽浄土の世界にお導きくださるという伝説があり、太子信仰と浄土信仰を結ぶ重要な霊跡となっている。 

敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための、今日でいう社会福祉施設である。

施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られており、 施薬院は、後に聖徳太子が『勝鬘経』を講じた地だとする伝承があり、勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。

さらに、悲田院の地名が残っているのは、JR天王寺駅の北側で、四天王寺の南側の地域になのだが、庚申街道沿いであったかもしれない。

また真法院町には、五条宮が存在し、施薬院と療病院の鎮護として、医道の祖神とされる五条大神と少彦名(すくなびこな)命が祀られていた。

下記画像の左が愛染明王勝鬘院(愛染さん)で、勝鬘夫人の像が祀られ、また聖徳太子が勝鬘経を講ぜられていた事から施薬院は勝鬘院とも呼ばれるようになっていった。

そして、平安時代以降は金堂の本尊として愛染明王が祀られるようになると、勝鬘院は愛染堂とも呼ばれるようになった。

なお境内には、『愛染かつら』があり、縁結びの霊木として今もなお篤い信仰の対象となっている。

そして、大坂三大夏祭りの先頭を切って行われるのが愛染祭りだったのだが、宗教行事は例年のごとく行われるが、祭事は2018年から中止されている。

寺院にもかかわらず妙だと思っていたのだが、愛染祭は、聖徳太子の「苦しみ、悲しみを抱く人々を救済したい」という大乗仏教のご意向を直々に受け継ぎ、1400年の間続いている無病息災を祈る祭事だとしている。

夏越しの大祓を兼ねており、初日の6月30日には和宗総本山四天王寺の住職らが出仕する「夏越しの祓え大法要」が多宝塔にて厳修されるのだが、救済は神仏習合ってことかな。


上記画像の右が五條宮で、橘氏の祖神である敏達天皇を祀る全国唯一の神社と言うのだが、敏達天皇が皇太子の時に居住した邸跡だというのだ。

しかも、難波宮の五条筋にあたると言い、すなわち、この近くを難波大道が走っていたわけで、この下高野街道とも交差しているのだ。

また、五條宮は四天王寺の鬼門にあたり、さらに火災除けの神としても信仰されるに至っている。 

四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。

大江神社(夕陽丘町)・上之宮神社(上之宮町)・小儀神社(勝山1丁目:四天王寺東門前)・久保神社(勝山2丁目)・土塔神社(大道1丁目:四天王寺南門前)・河堀稲生(こぼれいなり)神社(大道3丁目)・堀越神社(茶臼山町)の7つで、これらの神社を産土神(うぶすながみ)とする7つの集落が東成郡天王寺村となった。

七宮の一つ大江神社は、勝鬘院の西隣にあり、神社の北側が、愛染坂と言う天王寺七坂の一つである。

こちらは四天王寺の乾の方角にあたり、乾の社と呼ばれ、神社の祭祀も四天王寺の僧徒が行うようになっていた。

1907年(明治40年)には、小儀神社、上之宮神社(上野王子)を合祀する。 大江神社では境内に毘沙門天堂があったことから、狛犬の代わりに毘沙門天をお守りする虎を模した珍しい「狛虎」がおり、阪神タイガースの聖地ともいわれている。

下高野街道は大道を起点にしているのだが、西門を出て四天王寺前の交差点に出れば、大道である。

それを東に下りると、南大門で、ここを起点にして南へ行けば庚申堂があり、すなわち庚申街道なのだが、古市街道と合流することになる。

土塔神社はこのあたり問ことになるのだが、上之宮・小儀とともに、大江神社に合祀されている、

仏教は神道に守られているということなのだろうか?

神仏習合、あるいは神仏分離、そして廃仏毀釈などの歴史も興味深い。

北河堀町の交差点で、龍田越奈良街道とぶつかり、下高野街道は大道3丁目に入り、大阪教育大学へ向かうのだが、この地に河堀稲生神社があるのだ。

古代・景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。

聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられた。

続日本紀によれば、延暦7年(788年)3月、摂津太夫・和気清麻呂が農業の振興と水害の防止を目的に、摂津国と河内国の国境に河川を築いて西方の海に流し込む大規模土木事業を提案し、工事の安全を祈願した。

この工事を境に、付近一帯の地名表記は古保礼から河堀(こぼれ)と改まり、 江戸時代初期、片桐且元の寄進により、壮麗な権現造の拝殿に改まった。

元禄2年(1689年)、素盞嗚尊を勧請し合祀し、 1907年(明治40年)、かつて大阪城内の屋敷の鎮守であってとされる清水谷の稲荷神社を合祀して、現在の社名に改まった。

1945年(昭和20年)の大阪大空襲により江戸時代からの壮麗な社殿は焼失。 現在の建物は1950年(昭和25年)に再建されたものである。

古代・景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。

聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられた。

 

続日本紀によれば、延暦7年(788年)3月、摂津太夫・和気清麻呂(733-799)が農業の振興と水害の防止を目的に、摂津国と河内国の国境に河川を築いて西方の海に流し込む大規模土木事業を提案し、工事の安全を祈願した。

 

とはいえ、大和川を大阪湾に直接流入させて水害を防ぐことを目的に、のべ23万人を動員して上町台地の開削工事を行ったが費用が嵩んで失敗している。

この事業は自然地形も利用していたが、堀越神社前の谷町筋が窪んでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はこの開削工事の名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある。

さらに東へ河堀稲生神社から寺田町駅付近へ続いていたらしく、この工事を境に、付近一帯の地名表記は古保礼から河堀と改まった。

 

大阪教育大・付属高等学校に沿って道の旅人は進み、JR環状線のガードを潜ると、天王寺町すなわち阿倍野区に入った。