布忍八景

7~8世紀ごろ、天美地区は河内国丹比郡依羅郷とよばれ、依羅連という氏族の居住地と想定されます。

依羅連は、「新撰姓氏録」(9世紀初頭成立の氏族名簿)によると、「その祖先は、(朝鮮半島の)百済の国人で素禰志(そねし)夜麻美(やまみ)君である」と記しています。
 つまり、依羅連は朝鮮半島からやってきた渡来系氏族であり、同氏の祖先とされる素禰志夜麻美君の「夜麻美」がなまって「阿麻美」となり、現在の「天美」に転化したと推察されます。

明治13年に、東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主大神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。

さらに、明治15年1月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。

そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。 出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。

この出雲の反逆を頭に入れて、道の旅人は、松原市に入らねばならなかったが、それがまた、複雑な様相を示していることに気づかされることになるのだ。

関西出雲大社久多美神社

文部科学大臣所轄単位宗教法人で、御祭神を久多美大神(大国主命と共に、出雲建国に力を注がれた後、大国主命に、全てをお譲りになったという神様です)としているのだ。

 【由緒について】

我が関西出雲大社は、久多美大神様の御化身であります久多美様の御母堂桝田ミツ比女命に依りまして、此処天美の聖地に創設されました。

大神様の御意のもとに、御母堂初代様の後を継承されました久多美様は、御神意により人類救済の為に、現世に御出現なされたのでありますが、救済救民に不可欠な御神殿御造営の大業が昭和34年1月起工されまして、出雲造り御神殿は、大神様久多美様の御加護ご指導のもとに全信徒の誠心こもる御奉仕によりまして完成され、昭和41年4月目出度く正遷宮が斎行されたのであります。

尚昭和46年8月吉日、初代様に最も御縁深く厚き信仰によりまして、関西出雲大社今日在る要因でもあります。 

玖潭(くたみ)神社の由緒沿革には、出雲国風土記に「郡家(こうりや)の正西(じょうせい)五里二百歩なり。所造天下(アメノシタツクラシン)大神命(おかみのみこと)、天の御飯田(みひだ)の御倉(みくら)造り給はんところを、もとめ巡行(めぐ)り給(たまひ)き。その時、波夜佐雨(はやさめ)久多美乃山と詔(の)り給ひき。故、忽美(くたみ)という。 神亀三年(728)字を玖潭と改む」とあります。

《「波夜佐雨久多美之山」は「にわか雨が くたみ(弱り)やまむ」の意》 

出雲大社は、島根県出雲市大社町杵築(きづき)東にある神社で、祭神は大国主大神であることは知る人ぞ知る。

ところがこれがややこしい、と言うのも、出雲大社教は、出雲大社境内に本部(教務本庁)があり、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼務している。

ただし、出雲大社が神社本庁に所属するのに対し、出雲大社教は神社本庁には所属していないのだ。 

戦後の出雲大社と出雲大社教は実質的に統合されているにもかかわらず、名目上は別団体であり、出雲大社は神社本庁に従属しているのに対して出雲大社教は神社本庁と対立しているという、微妙な関係にある

布教機関は全国に渡り設けられていて、特に中国地方を中心とした西日本に多くの分祠、教会等がある(ほかに、分院・講社)。

これらは神社本庁にも出雲大社にも所属せず、あくまで「出雲大社教の布教機関」であるため、「神社」や「分社(沖縄は別)」などと名乗ることはない。

そしてその他として、関西出雲大社があるのだが、祭神は久多美大神なんだよなぁ。 

布忍八景】は、布忍の名勝を絵と漢詩・狂歌・俳句であらわしたもので、絵馬として布忍神社に奉納されました。

絵馬は1枚に二景が収められ、4枚で一組で、宝永2年(1705)11月13日と記されています。

       宮裏白櫻      一志     (桜と松に囲まれた布忍神社を南方から見た風景)

萬木(バンボク)林中宮宇(グウウ)櫻    春来日々囀㈡黄鶯㈠

美華是可㈡神遺愛㈠          不㈡減一枝㈠益(マスマス)向ㇾ栄

 

            和           聴雲軒

数仭宮牆(キュウショウ)遶㈡白櫻㈠   新年句調詑㈡黄鶯㈠

閻浮(エンブ)誰敢忘㈡神澤㈠    風景還従㈡祇花㈠栄

 

さく花も神のミたまの冬めきて いかきの櫻雪をミすな      下河辺長流(1627?-1686)

植置てたむける神のミや櫻 ひとの心もミれはのとけし       契 仲(沖)(1640-1701)

 

美し(キ)法師(ノ)すかた白(ク)さく           浅井正村

櫻啖(クラヒ)て此宮はやふ夜が明る          小西来山(1654-1716)

 

鳥居先の家々年毎の くれの餅つかぬを吉例とす

宮櫻餅花かあうこんなもの     云推  さりなから烏ハ黒し宮櫻  秀政

 

廻文 ミやの名は白けに  けらし花のやミ  自休軒  

       孤村夕照(樹木に囲まれた集落と街道を行く旅人たちを、

            遠くのなだらかな山並みに沈む、夕日とともに描いた風景)

林下孤邨日已傾    雨収煙絶趍㈡前程㈠

行人執ㇾ策馬蹄疾   永興疎鐘(ソショウ)報㈡晩暗㈠

 

      和

半竿斜照又西傾    一路紫門鎖㈡水程㈠

鴉背閃逢㈡煙樹暗㈠  龐眉(ホウビ)撐玉茅簷暗

 

鶏はまたきとくらに人はてて  夕日に独りさとにのこれる

夕日さす窓によりぬる人やたれ  さひしさとハんミゆる一らむ  

 

夕陽(ヤケ)や手もとに花の舂(ガ)きぬ  その女 かけろふの入日や満て茜綛 (アカネゾメ) 見龍 無事々々の家へ寝に来る燕哉      茂哉  足弱や夕日を花におきみやげ     月香

 

廻文 永いかけのひし にし日の下界かな

       野塘春日(川岸で牛が放たれ、土堤で農作業に勤しんでいる人々の姿や、

            旅人が往来する姿も描かれています)

野塘(ヤトウ)不ㇾ遠近㈡吾盧㈠    日々孤筇行足ㇾ娯

風入㈡垂楊㈠舞㈡狂絮㈠      雨過昏水散 跳ㇾ珠  

 

       和

春日遅々転㈡玉壺㈠ 野塘青艸供㈡歓娯㈠

新晴花藉蜀江錦    太化水回合㈡浦珠㈠

 

沢水も人目つつみと霞む野に  こなきつむこを忍ひて見し

蛙鳴野沢のつゝみ行くらし  莚にしかん昏の若艸

 

埜堤や哥雀のとゝく虹の反      安林   新堤あ坂ハはけて霞けり  貞則

蛇(クチナワ)の円座をほとく焼野哉   雲散   野塘や三月麦の日和風  安水

野堤や松に顔うつ紙鳶(イカノボリ)   勝久

 

廻文 見つゝけよ春日に 干るは除堤  

      平田秋月(松などの集落と稲叢、農作業に勤しむ人々が、

           一列になって飛ぶ雁と満月を背景に描かれた、秋の農村の風景)

平田秋熟稲梁(トウリョウ)肥       天朗気清(ケギヨシ)陰雨稀

野老(トコロ)不ㇾ 知晴景好       黄昏獨背㈠月明㈠帰

 

       和

老雅躬耕㈡土地㈠肥 喜 禾雨足旱災稀

鳥 啼華樹無人處 牛 背牧童載ㇾ月帰

 

稲莚かり田の原の跡の月 ありしはかりもしく出かな

武蔵野もかくこそハミめ末遠き 田面の露にやとる月哉

 

名月に畳舗けり米のはな   悠川  名の月や天智天皇御座所  正之

掬するや波底の月の田一杯   安知   布忍野の綿の盛やけふの  一章

稲茎や月の分し水の淡    未白

 

廻文 月をつね案山子 や鹿か寝つ起つ

    南山残雪(冠雪した金剛・葛城山系を背景に、手前に樹木、川とそれに架かる木橋、          橋を渡る人物を描いています。布忍地域から南東方向を臨んだ風景)

春馴南山光景美     雲淡風暖帯㈡ 晴暉㈠

渓邊斑駁(ハンパク)雪残處 白鷺為ㇾ 群遂未ㇾ飛

 

     和

東風凛々雪扉々    銀闕瓊楼催不レ暉

山主却嫌㈡春色晩㈠  敢穿㈡庭樹㈠作㈡花飛㈠

 

北風の向ふ山とや嶺の雪  きゆへきかたの消かてにする

朝もよひき比の遠山霞めとも  やとのものなる峯の白雪

 

あの高根猟(ケモノ)の雪の二月(キサラギ)や  一禮  

雪消て藁か(ラ)出(イヅ)つ武(ムシャ)人形    長政 

淡雪や片袖あけて烏帽子形(エボシガタ) 定次   春の雪片肌脱た南山    梅春

雪はけて御礼の牛すゝミ黒(クル)         榮張

 

廻文 きゆるこの間や 南山のこる雪

     西海晩望(幾隻かの帆立船が航行している海を描いた風景で、手前には松林、

          背景にはなだらかな山並みを描いています)

晩望㈡滄浪㈠独倚欄 西南萬里水漫々

帰帆一片煙波上   只作洞庭遠浦(エンポ)看

 

      和

簾捲斜陽人倚ㇾ欄  漸荏淡路白漫々

哥端幾點鴈聲遠  只作星河咫尺 (シセキ)看 

 

夕しほに難波を出て松浦(マツラ)ふね  そなたに行や帰るなるらん

和田の源(モト)鏡と見ゆる夕なきに  いとわぬふりや淡路嶋山

 

鯵網を引しぼりたる入日哉   文十    たかとより下に帆船の幾千艘  一匡  

白雨や中に日のふる西の海    休宗  海はかり船頭様や百の海  言晶

落日や波にまはゆき床(几哉)  篤信

 

廻文 ミなつきをくたくや  くたく沖つなみ

    竹林黄雀(永興寺らしき寺院とそれを囲む竹林を描いた風景で、竹林では子雀が戯れ、

         門前には街道を往来する旅人の姿が描かれています)

前埜竹林亭積翠  許多(キョタ)黄雀日相群

遊児動作弾丸兎  為ㇾ報㈡暮長㈠近㈡此君㈠

 

       和

数畝琅玕(ロウカン)千貫 (也) 百千黄雀足ㇾ成ㇾ群 

王猷死後無㈡人賞㈠  独有談ㇾ風伴㈡此君㈠ 

 

今更に何かおひたつ省子も よのうきふしのしげき林に

朝夕に来鳴雀も声しけし 竹の林にます陰やなき 

 

花にくれて竹に実のなる雀哉 安求  子雀や朝日呼出す竹林の奥  忠重 

鶯もかるや雀の小便たこ   好氏   雀追ふ竹に声あり苗の番   高允

梅に寝す竹に生れぬ雀也   和言

 

廻文 若のるハ淡竹や  朽葉春のしも 

   篭池白鴎(松に囲まれた池で羽を休める鴎などの鳥を描いたもので、

        西除川を挟んで布忍神社の対岸にある篭池の風景を題材としたものです)

(苏)蘇(フサ)平鋪置黄雀     翠松微動起㈡清風㈠

白鴎口夜許多衆          自是清浩一鳥籠

 

     和

碧鏡蘸(ヒタシ)天分霽月    霜衣舞露散㈡香風㈠

淡萍清(淡)雨三尺     覆育(フイク)生魚一畢籠

 

池の名をもらさしと(シテ)結ふより  なく(モ)かもめやよそに離れぬ

かの見ゆる他の汀(みぎわ)を踏(フミ)したき  あさる鴎のとゝまるもおし

 

 初雪や木とも石とも不分明      伴自   篭池や脱捨足袋の一番(イチノバン)    安可

ちょほちょほと鴎寒ぅて水の雪    為国   鴨鴎(カモメラノ)羽おとくらへよ松の風   辨弥

水面(ミズ)かゝん箕の手に下る鴎哉  安昌

 

廻文 目も鴨とにぬにや  似ぬともかもめ

八景(はっけい)とは、ある地域における八つの優れた風景を選ぶ、風景評価の様式なのだが、10世紀に北宋で選ばれた瀟湘(しょうしょう)八景がモデルになっている。

 

晴嵐:本来は春または秋の霞。青嵐と混同して強風としたり、嵐の後の凪とする例もある。

晩鐘:沈む夕日と山中の寺院の鐘楼の組み合わせ。

夜雨:夜中に降る雨の風景。

夕照:夕日を反射した赤い水面と、同じく夕日を受けた事物の組み合わせ。

帰帆:夕暮れの中を舟が一斉に港に戻る風景。

秋月:秋の夜の月と、それが水面に反射する姿の組み合わせ。

落雁:広い空間で飛ぶ雁の群れ。

暮雪:夕方ないし夜の、雪が積もった山。


 【漁村夕照(ぎょそん せきしょう)】

桃源県武陵渓。夕焼けに染まるうら寂しい漁村の風景。

【洞庭秋月 (どうてい しゅうげつ)】

岳陽市岳陽楼区岳陽楼。洞庭湖の上にさえ渡る秋の月。


【煙寺晩鐘 (えんじ ばんしょう)】

衡山県清涼寺。夕霧に煙る遠くの寺より届く鐘の音を聞 きながら迎える夜。

【遠浦帰帆 (えんぽ きはん)】

湘陰県県城・湘江沿岸。帆かけ舟が夕暮れどきに遠方より戻ってくる風景。 


【瀟湘夜雨 (しょうしょう やう)】

永州市零陵区萍島瀟湘亭。瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景。

 【平沙落雁(へいさ らくがん)】

衡陽市雁峰区回雁峰。秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景。 


【江天暮雪(こうてん ぼせつ)】

長沙市岳麓区橘子洲。日暮れの河の上に舞い降る雪の風景。

【山市晴嵐 (さんし せいらん)】

湘潭市昭山。山里が山霞に煙って見える風景。

鎌倉時代室町時代にかけて牧谿や玉澗など画僧の瀟湘八景図が日本にもたらされ、日本絵画に大きな影響を与えた。

狩野派などにより「瀟湘八景」が好んで描かれ、上記の画像は、雪舟筆:狩野探幽写画である。

布忍の名は、布忍神社と西除川をはさんだ対岸にある大林寺(北新町1丁目)の『布忍山永興寺略縁起』に「布忍寺は、寛治3年(1089)5月に永興律師を導いた童子が白い布を以って、面をたれて人を忍んで化現した姿で現れたのでこのようによばれた。

しかし、のち同寺の永く興然たることを願う故か、あるいは永興律師の草創にちなんで、永興寺とも称されたのである」とみられます。

これとは別に、布忍神社の社記には「祭神の素戔鳴命を同社の北18町(2キロメートル)に鎮座する天美の氏神である阿麻美許曽神社から、白布を敷いて現在地へ迎えたので、社名を布忍、村名を向井とよぶようになった」と伝えています。

融通念佛宗(ゆうずうねんぶつしゅう)の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)にある本像は、明治6年(1873)に廃寺となった永興寺(布忍寺)の本尊だったものです。

頭体幹部をヒノキの一材から彫り出した一木造で、像高は171.5センチメートルとほぼ等身大の仏像です。

深い面奥に比して丸い面貌に浅く目鼻立ちを刻む点や長身で量感をあまり強調しない体躯、古様の渦巻状の衣文を見せる特徴は、10世紀彫刻のなかでも「奈良系仏像」と称される一群と共通したものです。

本像の作製は平安時代後期(10世紀末から11世紀初め)と推察されますが、そうすると寛治3年(1089年)の創建と伝えられる永興寺(布忍寺)の時期よりも古いことになります。

おそらく永興寺(布忍寺)創建以前に前身となる堂宇に安置されていたものか、もしくは寛治3年(1089)の創建に際して別の地より移坐されたと考えられます。

本像は市内ではもっとも古い仏像のひとつで、府下においても中央様式を示した等身をこえる十一面観音立像は一部の古刹を除いては稀で、南河内地方における仏教文化を考える上で貴重な文化財です。

なお、平成十二年大林寺は建て替えられ、美しく生まれ変わりました。

その折に、永興寺跡発掘で出土した平安後期の八葉蓮弁の軒丸瓦が本堂・山門に復元されました。

 

このように随所に永興寺ゆかりのものが工夫して取り入れられているけれど、廃寺にされ、手や足をもぎ取られても、仏像たちがよくぞ生き延びれたのは、「地域の守りもあったのであろう」と道の旅人は思いにふけった。