田辺不動尊法楽寺

住吉区の下高野街道の説明では、JR阪和線沿いに美章園駅にいたりますが、ここから東南へ約100メートルは消滅しています。

しかし、榎神社の東で復活し北田辺小学校東側を通過(道の旅人は、JRの高架下をそのまま松虫通迄向かい、東へ一つ目の信号を南へ渡ることにしている)、松虫通をこえて東西に走る庚申街道と交差します。

なお、その神社については、現在地に樹齢800有余年を数える榎の大木があり、土地の人々がこの木をご神体として社殿をつくり、年々参詣者も増加したので、昭和27年(1952年)4月に宗教法人となり、翌昭和28年(1953年)に拝殿と社務所を新設した極めて新しい由緒の神社です。

境内の桑津墓地についても、行基 菩薩に由来する伝承があるが、事実が検証できておらず、異なる伝承もあります。

現在の住居表示:北田辺1-8に変更される前には、大塚町と呼ばれており、境内の小高い場所には古墳があったことに由来するものではないかと言われています。

 

その後、南下をつづけ現田辺一丁目の大念寺と安楽寺の間を抜け、南田辺村(現田辺一~四丁目)に入るが、この街道の西側に、紫金山小松院法楽寺が鎮座しているのだ。 

伝承によれば、源平の戦乱で戦死した平家と源氏の霊を怨親平等に弔うために、源義朝(頼朝・義経の父)の念持仏であった如意輪観世音菩薩を安置し、壮麗な伽藍が営まれたことが起源とされる。

山号の紫金山は、治承2年(1178年)、仏教の信仰に篤かった平重盛が宋の禅師・育王山仏照の高徳を聞き、黄金3000両を献上し結縁を求めたとの伝えによる(『平家物語』巻三「金渡」にみえる話)。

 

「我が国では、いかなる大善根をしていても、子孫にいつまでも後世を弔ってもらることは難しい。ならば他国で、いかなる善根でもして後世を弔ってもらおう」

 仏照は重盛の仏法への志に感嘆し、育王山伝来の紫金の仏舎利二顆を贈ったと言い、院号の小松院は、平重盛の別称が小松内府と称されていたことにちなむ。

  

ところでこの法楽寺に、慈雲尊者(1718-1805)が僧籍を置かれていたことに驚き、簡単な経歴を述べておく。

 

大阪市中之島の高松藩蔵屋敷に誕生し、父の遺言により、13歳の時に出家し、同寺の住職・忍網(にんこう)に密教と梵語(サンスクリット)を学び、18歳の時に、忍綱の命で京都に行き、伊藤東涯に古学派の儒学を学ぶ。

翌年に奈良に遊学し、顕教・密教・神道と宗派を問わず学び、河内野中寺(羽曳野市)で秀厳の教えを受けて、戒律の研究を始め、1738年(元文3年)、具足戒を受けた。

翌年には忍網から灌頂を受け、法楽寺の住職となったが、2年後に住職を同門に譲り、信濃に曹洞宗の僧侶の大梅を訪ね、禅も修行した。

かくして彼は、日本仏教にはびこった宗派意識を否定し、釈尊在世当時の僧侶のあり方に立ち帰ることを目指す「正法律思想」を唱えていた。 


法樂寺の西側塀に「難波大道がある」との掲示板があるが、上記の地図は、『難波より京に至る大道を置く』(柏原市文化財課)からで、実際に掲示板の通りに南に歩くと細い道が山坂神社の鳥居に当たります。

山坂神社は前方後円墳の跡と言われていますが、古墳の成立が大道より古いので、これでは説明が難しくなります。

そこで地図の上で、発掘確認されている「朱雀門跡」(中央区上町1-9、市立聾唖学校内)と、松原市天美西の今池浄水場内にある「大道跡」とを直線で結ぶと、山坂神社の少し東、法樂寺境内の西を抜ける筋に当たります。

つまり、法樂寺西側の壁は難波大道の上に建立されていることになります。

但しこれは難波大道が、上町台地の北端に建設された難波宮の南側正面の朱雀門から一直線に南に伸びる道との仮説に基づくものです。

 

文献による初出は日本書紀の仁徳天皇14年条に「是歳、大道(おほち)を京(みやこ:難波)の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑(たぢひのむら)に至る」とある。

これが初出であり、難波大道の起点と終点を明確に示している。

また推古天皇21年条に「難波より京(みやこ:飛鳥)至るまでに大道を(おほち)置く」という記述があり、この大道の一部が難波大道だと考えられる。

 

難波宮の南門から南に延びる朱雀(すざく)大路という道路があったのは、その大路沿いに天王寺区細工谷遺跡や堂の芝廃寺、四天王寺や伶人町遺跡があり、そこからさらに南に道路が延びていたことが発掘調査で分かった。

北端は難波宮(大阪市中央区)で、南端は長尾街道・竹内街道・河内和泉国境との交点のいずれか(全て堺市)と考えられる。

竹内街道との接点にあたる堺市北区金岡町の金岡神社東側に、難波大道に由来する「大道町」という字名が残っている。

もちろん、大阪市天王寺区南部の「大道」(だいどう)という地名も、この道路に由来するものである。

 

また、大阪市住吉区と同市東住吉区の区境(長居公園通から大和川まで)および堺市と松原市の市境(大和川から大泉緑地北西まで)が南北に約4キロメートルに渡ってほぼ直線状に引かれているが、これも難波大道に由来するものであり、その市境は、長尾街道までは摂津国(後に和泉国)と河内国の国境でもあった。 

なお、その法楽寺の北西に神馬塚があり、住吉大社の神馬の飼育は、土師氏が神功皇后の軍政に功があった経緯から、当田辺の基礎を築いた同族の田辺氏とその子孫が相伝して、担当していました。

         神馬塚

住吉大社に奉仕する神馬の墓なり。

古来、田辺や山坂の地は住吉大社の御牧場と定められ、当地に住した神馬舎人橘氏によって神馬が奉養された。

橘氏は朝夕に田辺と住吉大社を往還し、神馬を住吉大社まで牽き連れ、白馬を見ると、年中風邪を祓い患いが無いと言われる。

その通り道は御馬道と称し、神馬をのぞく車馬の通行が憚られた。

神馬の退落(死亡)に際しては、ただちに神馬塚に埋葬された。

 

神馬塚および神馬御厩は、北田辺・南田辺のそれぞれ二か所あったが、現在は当地の北塚のみが存在し、歴代神馬が祀られている。

引き続き神馬塚から、難波大道山坂神社(山阪明神)へ話は移りますが、そこは田辺神社とも、言われていました。き、

土師氏が弓部の十六人を率い神功皇后に従い三韓に渡り偉功があり、凱旋後に摂津住吉神社創立と共に、この田辺の地に邸宅を賜り、梅園惟朝(ウメゾノコレトモ)と称しました。

住吉大社の神馬の飼育も田辺氏に任されていた理由もうなずけるのだが、山坂神社の祭儀もこの頃より梅園氏によって行なわれ、その同族にして配下の田辺宮主即ち禰宜長ならびに舎人よりなる宮座によって奉仕されたのであります。

 

田辺氏は元来、西国から移動した渡来系氏族で、現在の柏原市に拠点を持ち大いに栄えた一族であり、その分家がこの地に移住して自らの祖先神を祀ったとされます。

神社創建の時期は不明ですが、主祭神は天穂日命(アマノホヒノミコト)で、野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)も祀っています。

 

田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰命で、天穂日尊の子孫とされていることに因んでいるとも思われます。

三代実録の「第56代清和帝貞観(ジョウガン)4年(862)8月11日条:田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」ことが記録されており、田辺西神は当社を、東神は中井神社(針中野)を示すものとされています。 

下高野街道は南田辺本通商店街に入り、山坂神社の鳥居を右に見ながら東へ折れ長居公園東筋を前に南へ湾曲しながら南港通りへ至るけれども、この間は区画整理により消滅しています。

田辺3丁目→4丁目→長居公園東筋→東田辺1丁目南向→南港通→2丁目→3丁目東向→大正橋(駒川)→駒川5丁目南向→鷹合2丁目

この2丁目の、駒川上流右岸にある鷹合の酒君(さけきみ)塚古墳は、近年の発掘調査によって、現在の墳丘の盛土下に、かって平塚と呼ばれた長径35m以上、高さ2m前後の古墳の墳丘が確認されました。

 

さらに、出土した円筒埴輪から築造時期は四世紀末で、田辺古墳群では最も古い古墳であることも明らかになりました。

 

酒君塚古墳(平塚)は、御勝山古墳に次ぐクラスの、平野川に至る駒川・今川水系の首長墓であり、田辺古墳群の被葬者は、頂点に立った倭王権とも関わりの深い人物であったとされています。

 

東住吉区東部にある鷹合・桑津・山坂の一帯には、かって大きな古墳群があったことが、江戸時代の地籍図や古墳にまつわる伝承などから推定されています。

 

四十三年秋九月一日、依網屯倉阿珥古(よさみのみやけあびこ)が、変った鳥を捕えて天皇に奉り、「私はいつも網を張って鳥を捕っておりますが、まだこんな鳥を捕ったことはありません。珍しいので献上いたします」と言った。

天皇が酒君(サケノキミ)を呼んで、これは何の鳥かと尋ねられた。

酒君が答えて、「この鳥の類は百済くだらには沢山います。馴らすと人によく従います。また、速く飛んで、いろいろな鳥を取ります。百済くだらの人は、この鳥を俱知くちといいます」と言ったーこれは現在の鷹である。(『日本書紀巻11』仁徳天皇)

 

百舌鳥野(もずの)にお出ましになって狩りをされたとき、雌雉が沢山飛び立ったので、鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を得た。

この月、初めて鷹甘部(たかかいべ)を定め、当時の人は、その鷹を飼うところを名づけて鷹飼邑(たかかいのむら)といったのが、鷹合の由来である。 

 さらに4丁目には鷹合神社があり、その後矢田2丁目で道筋が復活し、6丁目には六地蔵大菩薩を南進して大和川に至り、下高野大橋を越え、矢田七丁目に鎮座する阿麻美許曽神社の東を通過して松原市に入るのだ。

阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれば、大同年間(大同元年=806年頃)の創建とされているが、おそらくそれより古いであろうとされている。

「許曽」は新羅の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされており、新羅神話によると、神社の起源は、新羅の初代王赫居世を祀る祖神廟からおこったと伝えています。

赫が名で、居世はその治世をさす尊称ですが、この居世がなまって「許曽」となったといわれています。

手水舎の東側に「行基菩薩安住之地」という石碑があり、行基がこの地に居住していたという伝承がある。

しかしこの伝承は江戸時代くらいから見られるようになったもので、「行基年譜」にこうした記録が見られないことから、実証が難しい説だとされている。

この神社を含む一帯はもともと(後に大阪市の一部となる)矢田村の一部であったが、江戸時代に大和川の付け替えにより川が矢田村を分断し、神社は大和川の南岸に切り離されてしまうことになった。

この際に、南岸に残された矢田村の大半は後の松原市となる側に編入されることになったが、神社は矢田村の氏神であったことから、神社の周囲と参道のみは矢田村に残留した。

このために、神社周辺は大和川の南岸にありながら大阪市に属しており、参道に相当する部分(下高野街道)が細長く松原市に食い込んで大阪市として存在している。