大阪府立狭山池博物館

美原区を抜けた道の旅人は、 堺市東区北野田を行くことになり、「二の坪、三の坪」など古代条里制の名残の小字地名が見られます。

その条里の基本単位が、約109m四方の正方形(菱形や長方形の場合もある)で、古代日本では約109mが1町(=60歩)に当たり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれていた。

この1町四方からなる基本単位を「坪(つぼ)」又は「坊(ぼう)」と呼称した (現在でも使用される坪とは異なる)。

 

野田の地名は、古事記に見える「多遅比野(たじひの)=堺市東部から美原町、羽曳野市にまたがる広い地域」の原野の意味である、「野」に由来すると考えられています。

 

北野田駅南側に「野田城址」があり、南北朝時代、野田荘の地頭をしていた野田四郎正勝が築いた城(1326年)である。

野田氏は、野田庄の地頭であったが、元弘3年(1333)に倒幕の挙兵した楠木氏によって掃討され、以後楠木氏に従い、幕府軍とよく対峙しておりました。

幕府が楠木正成のこもる千早城をせめたときに、四郎正勝の子の四郎正氏は、村人たちと一夜で白いかべの大きな城があるように白い紙を使って大きく見せて、幕府軍を野田城で食い止めました。

 

東から南にかけて流れている西除川が堀の役目を果たし、川面から城跡との比高差は約20m程あり、城が高台の地形を利用して築かれたことがよく分かる。

北野田駅から南海電車の線路に沿って南に歩くと「すかしゆり公園」に行き当たり、この公園の辺りが野田城の南端に辺りで、公園内に立派な石碑が立てられていた。

 

 

その正勝によって築かれた城も、延元元年(1336)には湊川の合戦で正成とともに討死し、正平3年(1348)、2代正氏は四條畷の合戦で楠木正行と共に討死、そして正平15年(1360)には野田城は北朝方に攻められ、3代正康は城と共に討死していた。 

正康が幕府方に負け、村人も子どもも皆殺しになり、後に野田村が、なくなった人たちをとむらうために、城内に大悲庵を建てましたが、この大悲庵(大悲寺)では泣きさけぶ人たちの声がいつまでも聞こえ続けたとのことです。

 野田城は、南北朝の争乱で楠木氏に従って南朝に殉じた野田氏3代の居城として知られているが、現在では住宅地の中に埋没してしまい、遺構も何も残っていない。 

 この辺りは、荘園時代は野田の荘といわれ、昭和26年に登美丘町となるまで、野田村となっていました。

現在は北野田、南野田の地名が残っています

 

称える念仏に大悲の願心を聞く

中世 高野街道周辺で城(→砦のようなもの)が築かれる →下高野街道筋:野田城(堺市東区南野田)・池尻城・半田城(中高野街道筋) 史料から、狭山での合戦がみえる 「楠木合戦注文」 元弘 3 年・正慶 2 年(1333 年) 楠木正成が鎌倉幕府軍と戦い、「池尻」地頭を追い落とす。

池尻城の創築者・創築年代とも不明であるが、建武四年(1337)に、半田・池尻両城を高木氏配下の佐藤正忠が攻めた。

「高木遠盛軍忠状案」 延元 3 年・暦応元年(1338 年) 鎌倉幕府軍の最前線の池尻・半田が、延元 3 年 9 月 29 日に戦場となる。

「和田助氏軍忠状」 正平 2 年・貞和 3 年(1347 年) 和田助氏が楠木正行に従い、正平 2 年 8 月 24 日に「河州池尻」で戦う。

これら3つの城は、等間隔に配置され、ともに西除川の段丘面にあり、 池尻城…東側の谷底平野に池尻遺跡(集落跡、古墳~中世) 半田城…南側の氾濫原に東村遺跡(集落跡、縄文~近世) →城郭・集落・街道・河川が密接にかかわっている。

 

文禄3年(1594年)には河内国の丹南・錦部・河内の3郡で6,988石を宛てがわれ、万石以下ながら狭山城主として相応の礼節を持って報いられているが、このとき、池尻・岩室・今熊などが北条氏の領地となる。

狭山藩2代 北条氏信(1601~1625) 元和元年(1615) 池尻村の池守田中家に仮住まい、元和 2 年(1616) 池尻村で陣屋の構築が始まり、狭山藩が誕生する。 

池尻城は、狭山池の北端から北へ延びる台地に築かれている。

ここに小字名「古城(ふるしろ)」がある。そこには方形の小台地があり、この台地端は高さ12mのも及ぶ急斜面をなし、その東端は低湿地で、溜池もある。

これが水堀の役割を果たしていたと思われる。

池尻城の南方には狭山池、西方には西除川があり、共に自然の防備をなしていたものと思われる。 

現在は、狭山池の堤防は池尻城一帯よりもはるかに高いのであるが、狭山池の土堤は、慶長十三年(1608)、大正十五年~昭和三年などの改修工事で土盛が相当大幅に行われていたからである。

半田城は、狭山神社の境内付近が推定地とおもわれるが、狭山神社は段丘の下にあり、東側が段丘上で、この段丘の西端にコの字に土塁と堀状の溝が確認されている。

『大阪府中世城館事典』によれば、この遺跡は以前発掘調査が行われたが、明確な城郭遺構とは断定できず、神社の結界としての境界とも考えられおりはっきりしない。

河内の狭山池は、東方はるかに金剛・葛城の連峰を望み、南には河内・紀伊の国境岩湧(いわわき)山脈があり、西あるいは北に向って派出する、支脈の北端が概ねこのあたりで終わる。

大阪を出た電車が高野山に向って南に進む途中、狭山付近に来ると急に山家めいた環境に入って、いわゆる狭山の岡を思わせたが、今はもはや昔の俤をとどめないまでに変貌しつつあるために、環境整備委員会を設置してその保全に努力している。 『池の文化』

 

ここに『コンクリートの魔術師』とも称される建築家・安藤忠雄氏が手がけた「大阪府立狭山池博物館」がある。

 

この施設では、同市のシンボルである狭山池から発掘された土木遺産を展示しています。

博物館入口を通ってしばらく進むと、床が丸ごと地下にガボッと落ち込んだような水庭空間に到着します。

巨大展示館の真下にこんな空間があることにも驚きですが、庭の両脇の壁から滝のように一斉に水が流れ落ちる光景は圧巻の一言。

天候が良い日には虹をみることもでき、滝と水庭による親水空間を表現することで、訪れる人々を狭山池の水の歴史空間へと引き込む幻想的なアプローチになっています。

時間が経つにつれ、影がどんどん大きくなり、刻一刻と水庭の表情が変わっていく。

 

建物全体はコンクリート打ち放しの巨大な直方体であり、地域のランドマーク的存在で、狭山池全体から見渡すことができる。

エントランスから建物入口までに水庭があるほか、壁面に滝が設けられており、親水空間となっているのだが、建物内部には巨大な堤の断面や、取水塔を収納展示しており、吹き抜けが多用されている。

1938年(昭和13年)5月1日、北条家より、村民(当時)のために有効利用して欲しいということで寄贈された狭山池東畔の狭山藩下屋敷跡地を利用して、南海電鉄会社によって開園されたのがさやま遊園だが、2000年(平成12年)4月1日をもって閉園した。

 

大阪府大阪狭山市の狭山池付近に鎮座する狭山池水天宮は、かつてこの地に存在した「さやま遊園」の来園客・従業員等の安全祈願のために建立され、祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)である。

また水天宮付近には、狭山池の研究に携わった考古学者・末永雅雄氏の案内表示板が設置されている。

【末永雅雄(1897-1991)】

末永氏は、大阪狭山市の出身として知られ、大正時代には狭山池の大改修時に文化財調査を担当し、著書「池の文化」などを出版、付近では、須恵器窯が発掘されたことにより、築造時期などを論じている。

むかしから、きれいな湖のほとりに詩人が出るとも言われているそうだが、わたしは史上に有名な狭山池の東に生まれ、ここに育って、池について少しばかりの著作もしたが、結局平凡な学徒に終わった。

しかし、そのわたしにも、次のような狭山池の記憶が、今もまざまざと残るものがある。

少年時代に、友達と金剛山に登って、はるか狭山の方を見ると、北堤の老松や柳が、澄み切った池の面に映じた、一連の環境の美しさであった。

 

このときに感じた美しさは、、七十余年後の現在にもイキイキとして残っており、わたしは詩人になれなかったが、今なおそのままに残っていることは、狭山池から受けたわたしの美的印象である。(末永雅雄『郷土狭山への回顧』より)

公園として整備された狭山池の周囲には、1周約2,850メートルの周遊路が設けられており、ゆっくり歩いても1時間足らずで一周できるため、散歩やウォーキングコースとしてよく利用されているのだ。

満々と水をたたえる狭山池に、下高野街道は北から立ち寄ることになるが、大阪市内まで一望できる北堤からのながめは素晴らしく、新しい憩いの場として人気が高まっている。

道の旅人も、この堤に登って、博物館のコンセプトである「狭山池をめぐる人と土と水の物語」が、この先も綴られていくことを願うばかりである。