法雲寺

鎌倉時代の終りごろから南北朝時代にかけて、村落では「土豪・悪党」と呼ばれる新たな支配層が現れ、各地で争いが始まるようになると、美原でもさまざまな防衛施設が造られるようになりました。

丘陵地帯を利用して土塁を築いた平尾城や、平地の建物の周囲に濠をめぐらして、城館とした余部城や城岸寺城の他、黒姫山古墳も砦として利用され、南朝勢・北朝勢が一進一退の攻防を繰り広げました。

ただし、城と言っても、天守閣を持つような大規模なものではなく、防御のための木の柵や土を盛り上げた土塁と、居住のための簡単な建物があった程度のようです。

このうち、平尾城では、二度も合戦が行なわれたことが記録に見えますが、この二度にわたる平尾の合戦でも、南朝側は優勢を保つことができず、いずれも敗退しています。

その後、勢力を強大化させた足利氏が、京の室町に幕府を開くのですが、幕府の要職を占めた武士が内紛を起こしたり、お家騒動が起こったりして、このあたりは再び戦乱の地に陥ってしまいました。 

内乱は、河内鋳物師がその本拠を移転する大きな契機となり、戦国大名は、武器の調達や城下町の建設などに、鋳物師を必要としていたのです。

この時代、兵火によって焼失した神社や寺も多く、戦乱の激しさがうかがわれます。

道の旅人は松原市を南へ抜けると野遠町に(堺市北区)に入り、大阪狭山線(下高野街道)沿いの野遠キリスト教会を東に曲がり、株式会社トーホーパックを過ぎて、有限会社スター・トラストを南に曲がりすすむ。

さらに、竹内街道(堺北八下郵便局)を横切り、大阪中央環状線(八下町3丁)をわたり、小寺墓地に至ると、そこが美原区である。

大阪府堺市美原区の東の平尾と云う地域で、羽曳野市に近いところに南北朝時代に築かれた平尾城があった。

羽曳野丘陵の西北部の平地に出る丘陵斜面に築かれ、和泉国から河内国への侵攻に備えられたものである。

上掲の城跡碑は太成学院大学の門を入ったところにある。

大学の構内は本郭があったところと云われている。

またこの本郭部は川に挟まれた、自然の要害となっている。

平尾合戦は、南北朝時代の元中5年/嘉慶2年(1388年)8月17日に行われ、室町幕府第3代将軍・足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、北朝の山名氏清が迎え撃ち破った。

同合戦での敗北により南朝の滅亡は決定的となり、4年後の元中9年/明徳3年(1392年)には楠木氏の根拠地である千早城が陥落し、最終的に南北朝合一(明徳の和約)に至った。

朝霧の間に三引両(みつひきりょう:当時の山名氏の家紋)の旗を見た正勝は、出鼻をくじかれ、魚鱗の陣形(三角形の後方底辺に大将を配した陣)で北朝方に対峙し黙って計略を巡らせたが、そこへ歴戦の老兵である贄川三郎左衛門と恩地伊勢守がすっと前に進み出て、楠木一門を鼓舞した。

この勢いに乗り、正勝は、陣形を偃月(えんげつ:中軍を最前線とし大将自ら切り込む陣形)に変え、南朝最精鋭である楠木氏の騎兵200余騎を率いて自ら陣頭で武器を振るい、さらに両側から歩兵の野伏約500、平一揆(へいいっき)約300を自在に繰り出して山名軍に矢を浴びせかけた。

魚鱗から流れるように偃月に転ずる正勝の采配を見て、氏清はまるで太公望が八陣の秘術を操るように見事だと舌を巻いたが、数的優位にある自軍に対し、掻楯(かいだて:楯を垣根状に並べたもの)で矢を防いでまずは防御に徹し、敵が疲弊をしたときを狙って攻めよと命じた。

敵の矢が尽きかけたところで、氏清は左右の騎馬を前に出し、楠木軍の両翼の歩兵を攻撃した。 氏清が冷静なのを見ると、正勝はさっと歩兵を引かせて、縦横無尽に騎馬隊を動かして挑発するが、氏清はこれにも取り合わなかった。

南朝方が動揺したところで、数で圧倒する氏清は、まず中軍の山口弾正率いる騎兵300が出て鼓貝で威圧し、全軍を進め、さらに山名氏麾下の備前守貞平(『太平記』に登場する豪傑福間三郎の息子)が鉾をふるい一騎で平一揆7人を倒すという武勇を見せたので、正勝の軍は散々に破れて四散し、南朝方の死者数は200余りだったという。『後太平記』

余部城は、「城ノ山」「城ノ前」などの字名が、余部地区に残っているために、その存在が推定されていましたが、阪和自動車道の建設に伴う発掘調査で、東西約70m、南北約100mの規模が確認され、出土遺物から、13世紀の中頃から15世紀まで、建物が残っていたと推定されています。

別名大饗(おあい)城ともいう。

大饗の地名は称徳天皇の頃、(約千二百四十年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられる。

城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、現在この濠は昭和五十六年に埋め立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。

和田氏は楠左衛門尉成康の次男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)

その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。

正平七年和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。

その後、元享年間に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。

「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれている。

昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、発掘調査が行われ南北朝の頃と推測される建物跡が発見された。

尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際に基礎石として、使用されていたものである。無量山  城岸寺  『城岸寺城跡案内板』より


南北朝時代に楠木氏一族と行動を共にした和田氏は、その本拠地岸和田を離れたのち、大饗(おわい)の地に住したと「和田家系図」は伝えているが、その大饗の居城がこの城岸寺城と考えられている。

城跡には現在、融通念仏宗來迎寺末寺の城岸寺があり、かっての城地はこの城岸寺の境内だと思われる。

この城の北側には城ヶ池があり、さらに東・西・南側にも堀跡が残っていたが、現在は全て埋められている。

池の北には「城ノ」・東北には「北城」という小字名も残っている。

 

1981年(昭和56)、美原町教育委員会は城岸寺境内の発掘調査を実施し、地下約1メートルから十四世紀頃のものと思われる人頭大の礎石数個と石組の溝および石敷面を検出した。

建物の規模・配置などは調査面積が狭小であったため不明であるが、調査地区外でも同様の遺構面が確認されているので、寺の境内全域に建物などの施設が存在したものと推定される。

 

遺構面は、全体が焼け土で覆われており、壁下地の丸竹の痕跡をとどめる壁土の焼損断片が多数出土した。瓦類は一切検出されず、屋根は板または檜皮葺きの可能性が高いと推定される。

弘仁7年(816)年、弘法大師が高野山に金剛峯寺を開基すると、貴族たちの間では高野山に参詣することが流行りました。

東・西・中の3つの「高野街道」が整備され、美原区には中高野街道が南北に、その西側にも下高野街道がとおっており、平安時代後期の覚行法(かくぎょうほう)親王(1075-1105)の「高野山参詣日記」には、松原の地に宿泊したことが記述にあり、美原の地をとおって、高野山に至ったと考えられます。 

法雲寺は、美原区今井に所在する黄檗(おうばく)宗寺院です。

寛文12年(1672)、慧極道明(えごくどうみょう)が開山となり、延宝元年(1673)に山号を「大寶山(だいほうざん)」と改めました。

 

【慧極道明(1632-1721)】

江戸時代前期-中期の僧。

寛永9年4月11日生まれ。

黄檗(おうばく)宗。

木庵性瑫(しょうとう:1611-1684)の印可をうける。

河内(大阪府)法雲寺をひらき,のち江戸瑞聖寺3世。

元禄5年(1692)長門(山口県)萩藩主毛利吉就(よしなり:1668-1694)にまねかれ,東光寺をひらいた。

 
白隠禅師(1686-1769)は29才の折、82歳の慧極禅師に参禅している。


道号: 慧極(旧号・慧班)

法諱:道明(臨済正宗第34世)
法系: 塔頭聖林院を開き聖林派開祖。 

塔所:河内の大宝山法雲寺

遺偈(ゆいげ);

   『風顛手段 九十年来 虚空落地 大機現前』

〔大意〕気違い染みた生き方で 90年ちかくも生きてきた今 天地が合体した気分だ

    宇宙の大きな働きが眼前に広がり手にとるようだワイ 

慧極は、延宝5年(1677年)に禅堂を、延宝8年(1680年)に鐘楼を建立し、その後、30年をかけて大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣などの二十数棟を整備した。

また、狭山藩(後北条氏の末裔が藩主)の5代藩主北条氏朝は、幼少期には法雲寺で修行したとされ、元禄10年(1697年)に、慧極と師弟の約を結び、以後、北条家の菩提所となった。

墓地の中央には、第11代藩主北条氏燕(うじよし)の墓がある。

氏朝は藩祖・北条氏規の再来といわれるほど聡明であり、元禄5年(1692年)6月には伊東一刀斎から一刀流の免許皆伝を許されており、このため幕府にも実力を評価され、元禄16年(1703年)に京都火消役に任じられ、享保5年(1720年)に伏見奉行、享保19年(1734年)には奏者番に任じられた(北条氏は本来外様大名であるが願譜代という制度があった)。

藩政では陣屋の拡大などを行なっているが、幕閣に加わったことによる出費の増大などで藩財政の悪化も招くこととなり、倹約や上米を始めている。

享保20年(1735年)9月30日に死去(墓所:東京都渋谷区広尾の祥雲寺)、享年67。

境内南西に山門を構え、桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間、切妻造段違、本瓦葺の門で、正面には山号「大寶山」の扁額(へんがく)を掲げます。

屋根は中央間の棟高を一段高くする段違いの棟とし、棟の両端には摩伽羅(まから)を、両脇間は鯱(しゃち)を上げ、軸部では、親柱は黄檗特有の太鼓状の石製礎盤(そばん)を置いて円柱を立てています。

法雲寺には数多くの古文書等が伝わり、その中には、各建物の普請(ふしん)の際に大坂奉行所へ提出された口上書控(こうじょうしょひかえ)がありますが、山門の建立年代については、棟札写 並びに口上書控(貞享4年) に載る貞享4年(1687)と判明し、建築には大工大坂七兵衛があたったことも知られます。

 

黄檗特有の建築様式を示す山門としては、本市域のみならず、我が国最古の実例です。

黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 - 1673年)を開祖とする。

本山は、隠元の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺。

なお黄檗宗の名は、唐の僧・黄檗希運(? - 850年)の名に由来するが、 教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗と異ならないとされる。

黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が鎌倉時代から室町時代中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して、隠元の来日が新しいことと、明末清初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して臨済正宗を名乗ったことによるとされる。

黄檗僧が伝える近世の中国文化は、医学・社会福祉、そして文人趣味の展開とも関係している。

日本の江戸時代元和・寛永(1615年 - 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。

とくに福州出身者たちによって興福寺(1624年)・福済寺(1628年)・崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。

桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、桟瓦葺(さんがわらぶき)の基壇上に建つもので、「天王殿」の扁額を掲げます。

棟の両端には鯱をあげ、また中央に宝珠を置くなどの黄檗特有の様式がみられます。

建築年代は、細部の絵様(えよう)等からも、口上書控(宝永元年) に載る宝永元年(1704)に建築されたものと考えられ、建築にあたっては、松原村の大工安右衛門が関わったことが知られます。

黄檗特有の建築様式を用いる江戸時代の天王殿としては、大阪府下唯一の建物です。

正面のガラスケースの中に大きな布袋さんが鎮座しており、脇の像の説明では「弥勒菩薩」と書かれており、黄檗宗では布袋は弥勒菩薩の化身と考えられているとのこと。

釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿があり、古代仏教伽藍の本尊を安置する主要堂で,後世の本堂にあたる。

中国・朝鮮では大雄宝殿などと呼ばれていたが、仏殿ともいわれ,金堂の呼名は百済・新羅にあり(『三国遺事』),金人(本尊仏)の堂という表現から生まれたらしい。

 

『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書

 

桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、錣葺(しころぶき)、本瓦葺の建物で、正面に「法雲禅寺」の扁額を掲げます。

前面には中国風の月台(げったい)を設け、棟の両端には鯱と中央に宝珠を飾ります。

 

当伽藍では大雄宝殿のみ寄棟造とされていますが、これは古くから中国では寄棟造が最も格式ある屋根形式であることに由来します。

建築年代は虹梁(こうりょう)等の細部様式からみて、口上書控(貞享元年) に記される貞享元年(1684)で、作成には山門と同様に大坂石灰町家持庄兵衛があたっています。

 

 

黄檗特有の建築様式を用いる江戸時代の大雄宝殿としては、大阪府下最古の建物です。 


更に御住職の作製された飛び石を進むと本堂となる大雄寶殿。

御本尊は釈迦・薬師・阿弥陀の三如来ですが、周囲には小さな尊像を配し、その数三千三百三十三体。木彫りに金箔を施した逸品で、貞享元年(1684年)大坂の豪商今津浄水居士が寄進。

【燦然】と輝くお姿は【参禅】者には眩いばかりですが、広大無辺な三千世界を表すそうです。

基壇上の桁行三間、梁間四間、一重の建物で、背面側に桁行四間、梁間二間の後堂(うしろどう)を付設します。

正面に北条氏朝(ほうじょううじとも)による「開山堂」の扁額を掲げ、屋根は入母屋造、本瓦葺です。

建築年代は虹梁等の細部様式からみて口上書控(元禄14年) に載る元禄14年(1701)に建築されたと考えられ、作成には大工大坂石灰町家持市良兵衛があたったことがわかります。

黄檗特有の細部様式を用いる江戸時代の開山堂としては、大阪府下唯一の建物です。 

開山堂(かいさんどう、かいざんどう)は、仏教寺院において開山の像を祀った堂のこと。

寺院の「開山」とは、当該寺院に最初に住した僧のことを指すのが通例で、寺院の創立を発願し、経済的基盤を提供した人物である「開基」とは区別される。

開山や宗祖の像を安置する堂を、寺によっては祖師堂(そしどう)、御影堂(みえいどう、ごえいどう)、影堂(えいどう)などともいう。

 

宗派や寺院によっては、祖師堂や御影堂が本尊を安置する本堂よりも規模が大きく重視 されることがある。

 

桁行五間、梁間四間、屋根は入母屋造、本瓦葺の建物です。

建築年代は細部様式などから口上書控(元禄15年) に記載のある元禄15年(1702)と考えられ、境内の伽藍を構成する江戸時代中期の建物として重要です。

以上のように、法雲寺の山門をはじめとする諸建造物は、大雄宝殿と天王殿を軸とした17世紀後期の伽藍配置をよく継承しており、各遺構には黄檗特有の、礎盤・T字形の組物・屋根の摩伽羅などの細部様式や平面形態がみられます。

また、大雄宝殿には、中国建築の伝統である月台も残されていて貴重です。

本市域では、江戸時代に遡る黄檗建築としては唯一であり、また全国的にも極めて数少ない黄檗建築として大変重要です。

道の旅人は、八下町を抜け、小寺墓地を通り、大饗(おわい)に至り、北余部・南余部まで行ったにもかかわらず、再び小寺まで戻り法雲寺に立ち寄ったのは、どうしても美原区の法雲寺(美原区今井)を紹介したかったからである。

曹洞宗の僧、宗月が掘り出した秘仏「堀出観世音菩薩」の徳を讃え、さらに人々の繁栄と災除を祈願し建立された大観音像が大殿(本堂)の南西におられます。

 かつて掘り出された観音像は秘仏ですが、その徳を讃えて本堂前には約10mの厄除大観音菩薩が建立され燦然と輝いているのが見えます。

なお、七福神についても説明しておく必要があります。

 

1833年に江戸四大飢饉の一つとも言われた「天保の大飢饉」が発生し、多くの人々が餓死する中、幕府に対して、各地で一揆や暴動が起こります。

河内も例外ではなく、多くの人々が飢饉に苦しんでいたそうで、そんな中、惨状を憂いた法雲禅寺の「布袋様」と「弁財天様」が、神の国より毘沙門天・大黒天・恵比寿・寿老人、福禄寿の五神を誘い法雲禅寺に集結し、七福神の加護により飢饉を鎮め、河内に平穏をもたらしたという伝説があります。

そのような由来から、2000年に法雲禅寺に元々いる布袋、弁財天以外の五神を安置したそうです。

黄檗宗において七福神の一人「布袋様」は、弥勒菩薩の生まれ変わりとして崇められています。