桜井駅跡

伊勢の歌「難波潟 みじかき葦の」に煽られたわけでもないが、高槻を去る前に付け加えておきたいのが、『鵜殿葭原』のことである。

高槻市鵜殿から、上牧(かんまき)に広がる淀川右岸河川敷のヨシ原(ヨシの群生地)のことで、大阪みどりの百選、関西自然に親しむ風景100選、美しい日本の歩きたくなるみち500選にも選定されている。

鵜殿のヨシ原は、宇治川・桂川・木津川が合流し、淀川となる合流地点から5kmほど下った淀川右岸にある、広さ約75ha、長さ2.5kmと、淀川流域でも最大のヨシの群生地であり、野鳥や動植物の貴重な生息地ともなっている。

昔から多くの歌人に詠まれていて、紀貫之の『土佐日記』にも記述があり、谷崎潤一郎の『蘆刈』の舞台が鵜殿のヨシ原とも言われている。

この鵜殿に生えるヨシは、高さが3mほどの大形のヨシで太く弾力性があり、古くから雅楽の篳篥(ひちりき)の蘆舌(西洋管楽器のリード部分に相当)として使用されており、1945年(昭和20年)頃までは、毎年100本ずつ宮内庁に献上されていた。

今でも宮内庁楽部で使われている蘆舌は、すべて鵜殿産のヨシで作られている。 鵜殿一帯は、奈良時代には都の牧場として使用されていたが、 平安時代に鵜河の辺に造られた宿を「鵜殿」と呼び、それが土地の名になったと言われている。

935年(承平5年)には、紀貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述がある。

それが夫に似ているので、「あの男を呼んで、あの葦を買いたいから」というと、従者はいぶかしがりながらも、男を呼び寄せると、それが夫だった。

妻はどうにか夫に、過大な葦の代価を取らせようとするが、従者に反対される。

そのうち、夫の方が妻に気づいて、自らの境遇に恥じ入って、葦を捨てて逃げて、家に飛び込んで、かまどの裏に縮こまってしまったのだった。

 妻が「つれてきなさい」というので、従者はひと騒ぎに彼を捜し求めた。

 

見つけて「贈り物を与えようというのに、愚かな男だ」と連れ出そうとするときに、男は手紙を書いて、これを彼女に届けよという。

 

 君なくてあしかりけりと思ふにも  いとゞ難波の浦ぞすみ憂き   『大和物語148段』

本澄寺(ほんちょうじ)は大阪府高槻市上牧にある日蓮宗の仏教寺院であるが、この境内に三好達治(1900-1964)記念館があり、墓もある。

というのも、当時、弟の三好龍紳が住職を務めていたからで、更に1976年、十三回忌を記念し、遺族の手により記念館が建てられたのである。

三好達治は、明治 33 年(1900 年)、自叙伝では大阪市西区西横堀町(該当の町名はない)に、 戸籍では大阪市東区南久宝寺町一丁目(現中央区南久宝寺町一丁目)に生まれ、昭和 39 年 (1964 年)4 月 5 日東京で死去した。

中之島公園には、達治の『乳母車』があるが、ここに文学碑を建てるとしたら、やはり同じ第一詩集【測量船】から『少年 』を選びたい。

 

夕ぐれ

とある精舎(しやうじや)の門から

美しい少年が帰つてくる

 

暮れやすい一日に

てまりをなげ

空高くてまりをなげ

なほも遊びながら帰つてくる

 

閑静な街の

人も樹も色をしづめて

空は夢のやうに流れてゐる

 

この抒情詩集を丸山薫は、「三好達治君は理解力の詩人である。彼に関する限りに於いて理解力はもはや直ちに創造への作用以外の何事でもないであらう」  

桜井駅跡(さくらいえきあと・さくらいのえきあと)は、大阪府三島郡島本町桜井1丁目にある古代律令制度下の駅家の跡である。

というのも『続日本紀』巻5には、711年(和銅4年)の出来事として、摂津国島上郡(嶋上郡)に大原駅を設けたという内容の記述があり、この大原駅が桜井駅であるとの説があるのだ。

 

この駅跡は、楠木正成・正行父子の訣別の地として知られ、『太平記』巻16の「正成兵庫に下向の事」では、1336年(建武3年)の湊川の戦いにおいて足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の正行を河内国に帰らせたと伝えている。

 

桜井駅跡には、陸軍大将・乃木希典筆「楠公父子訣別之所」の碑(1913年〈大正2年〉建立)、元帥海軍大将・東郷平八郎筆「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」明治天皇御製の碑(1931年〈昭和6年〉建立)があり、また、1876年(明治9年)11月に、駐日英国大使ハリー・パークスが楠木正成の精忠に感じて、表面に「楠公父子訣児之處」と刻し、裏面に英文で因由を記した碑などがある。

そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。

その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。

「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。

帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭したのだ。

                               (『太平記』桜井の別れ)

小侍従(こじじゅう、生没年不詳:1121年頃 - 1202年頃)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての女流歌人。

彼女は夫と死別後、二条天皇に出仕、帝の崩御後は皇后である藤原多子(まさるこ)に仕え、歌人としての本領はここから発揮。

太皇太后宮小侍従として活躍、俊成・定家との交流も生じ、一流歌人の仲間入りをしていったが、待宵という異名が着いたのは、太皇太后多子の「待つ宵と帰る朝とは、いづれかあはれはまされるぞ」との問いに対して、即座に応えたという。

 

待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは

徳大寺実定は、待宵の小侍従を呼び出し、今昔の話をしてのち、小夜もふけていったので、古き都の荒れ行くさまを今様に詠いました。   

 

古き都を来て見れば 浅茅が原とぞ荒れにける

月の光は隈なくて 秋風のみぞ身にはしむ

 

徳大寺実定は、繰り返し3回、歌いました。

藤原多子をはじめ、御所の中の女房たちは皆、袖を濡らしました。

そうしているうちに夜も明けていったので、徳大寺実定はいとまごいをしつつ、福原への帰路につきました。

徳大寺実定は、供にしていた蔵人・藤原経尹を呼び、「待宵の小侍従は何と思っていたのだろうか。余りに名残惜しく見えたので、お前は帰って、申し伝えよ」と命じました。

藤原経尹は、藤原多子の御所に走り帰り、畏まって、「これは大将殿・徳大寺実定が申せといったことです」と伝え、   

 

物かはと君が云ひけむ鳥の音の今朝しもなどか悲しかるらむ

 

待宵の小侍従は、次のように詠みましたー「待たばこそ更(ふ)け行く鐘もつらからめ帰る朝(あした)の鳥の音ぞうき

後鳥羽天皇(1180- 1239は、日本の第82代天皇であるが、安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)までの2年間は両帝の在位期間が重複する。

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、文治3年(1187年)9月27日に佐伯景弘から宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上終結した。

水無瀬神宮は、大阪府三島郡島本町にある神社で、境内には環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。

この地には、もともと内大臣源通親の別荘である水無瀬別業があった。正治2年(1200年)1月にこの別荘に行幸した後鳥羽上皇は、ここを気に入ると通親から別荘を譲り受けて離宮・水無瀬殿とした。

 しかし、建仁2年(1202年)5月に大雨が降って水無瀬川が溢れて離宮の一部の建物が流される被害が出たが、離宮は修理され、この後、上皇は何度も水無瀬離宮を訪れている。

後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があり、後鳥羽はこのひけめを克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。

山崎 宗鑑(やまざき そうかん、1465? - 1554?)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者だが、第9代将軍足利義尚(よしひさ:1474-89)が鈎(まがり)の陣で没した(延徳元年、1489年)後、世の無常を感じ出家した。

摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれたが、現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。

 

ある者に「切りたくもあり切りたくもなし」に3句所望され、「ぬすびとを捕へて見ればわが子なり」「さやかなる月をかくせる花の枝」「心よき的矢の少し長いをば」と返した話は有名である。

天王山登り口に、宗鑑の句碑があるが、脇には宗鑑霊泉連歌講跡 の碑が建てられているのを見ると果皮と言うべきかもしれないが、このあたりに連歌講の中心となった霊泉庵が建てられ、宗鑑を中心に連歌の会が催されていたという。

 

うずききてねぶとに鳴や郭公

 

卯月が来て根太(腫瘍のこと)が疼いて泣いているホトトギス、ということなのだが実は裏の意味がある。 これは宗鑑とともに俳諧の祖とされている知友であった伊勢神官、荒木田守武(1473-1549)が根太(できもの)にかかり泣かされていることをからかったものだとされる。

痩せて足もよろける宗鑑が、池の杜若を取ろうとするのを近衛公がからかって詠んだ句ー「宗鑑が 姿を見れば 餓鬼(がき)つばた」

この句に対して宗鑑が「飲まんとすれど夏の沢水」と付けたという。

 

芭蕉曰く「近衛公は宗鑑を『餓鬼つばた』とからかったが、そんな痩せからびた姿にこそ世に背いた風狂者の趣があり、いかにも俳諧の祖としてふさわしい。自分は眼前の杜若にその有難い姿を偲んで拝もう」 

 

連歌では宗祇に敵わぬと感じ、俳諧にひかれていき、そのことで、嘲笑を受けることもあった。

しかし、「かしましや此の里過ぎよ時鳥 都のうつけ如何に聞くらむ」と涼しく返し、後に談林俳諧に大きな影響を与える「犬筑波集」(1524年?)を撰してる。

 

芭蕉もその気風を慕い、山崎の宗鑑遺跡を訪ねて「有難き姿拝まんかきつばた」の句をのこしているのだ。