萱野三平旧邸

瀬川の歴史は縄文時代まで遡り、瀬川遺跡が現在の瀬川四丁目付近で発掘され、土器と石器が出土している。

瀬川の各所には箕面川からの地下水が湧いているとされる「坪」と呼ばれる湧水が15箇所あり、そのうち一つは鎌倉時代の源平合戦時に弁慶が戦場に行く前に自分の姿を水に映し、鏡の代わりとして服装を整え、戦いの吉凶を占った(弁慶の鏡水:整備されていない)とされており、伝承地としてこの瀬川にもあった。

また江戸時代には、西国街道と能勢街道の結節点「瀬川宿」としても栄え、現在も参勤交代時に大名が泊まっていたといわれる、瀬川半町(はんじょう)本陣跡が残っている。

街道は石畳風に整備され、当時の絵図を見ると、瀬川本陣と半町本陣が位置し、その周辺に旅館が何件もあって、両本陣の間には高札場が置かれ、宿場として栄えていたことが伺えます。

東西の西国街道と南北(箕面大坂道)の道が交差する四辻(高札の辻)の北東部に西を正面に建つ のが『牧落の旧札場と道標』である。

この地は箕面・大坂道と西 国街道の交わる四ッ辻にあたるので、 行路の目安となる道標二基が今も建 っており、下記の画像のような道しるべが刻 まれている。

「カルピス」の生みの親・三島海雲(かいうん:1878-1974)は、1878(明治11)年7月2日、現在の大阪府箕面市にある教学寺の三島法城の長男として生まれました。

西本願寺文学寮で学んだ後、英語の教師になった海雲は、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入しましたが、入学後間もなく、大学から中国へ渡ることをすすめられ、1902(明治35)年、当時日本の青少年の憧れの地であった中国大陸に無限の可能性と夢を求めて渡り、北京、東文学社の教師となりました。

その後、日華洋行という雑貨商の事業を行なうことになり、 1904年 - 日本軍部から軍馬調達の指名を受け、内蒙古(現内モンゴル自治区)に入り、ケシクテン(克什克騰)でジンギスカンの末裔、鮑 (ホウ)一族の元に滞在し、そこで『酸乳』に出会う。

現地で体調を崩し、瀕死の状態にあった海雲だが、すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ回復を果たしたといい、のちに海雲は、「異郷の地で不老長寿の霊薬に出遭った思い」だったと記している。

 

大正4(1915)年に帰国すると酸乳、乳酸菌の普及をめざして製品化に取り組み、同6(1917) 年にはカルピスの前身となるラクトー株式会社を設立。

発酵クリーム「醍醐味」や、乳酸菌の入った「ラクトーキャラメル」などを販売するがどれも失敗に終わる。

しかし、その後も諦めることなく試行錯誤を繰り返し、遂に日本初の乳酸菌飲料となる「カルピス」の開発に成功。

大正8(1919) 年7月7日に発売すると瞬く間に大ヒット商品となり、七夕に発売されたことを記念して、大正11(1922) 年からは天の川をイメージした水玉模様の包装紙を採用し、このデザインも大好評となり、長く愛されるロングセラー商品となった。

 あるとき、海雲は、「カルピス」の本質は、“おいしいこと”、“滋養になること”、“安心感のあること”、“経済的であること”の4つだと言っています。

1919(大正8)年7月7日の発売以降、「カルピス」は時代を経て、やがて“国民飲料”として愛される商品へと成長しました。

その一方で、海雲は、その生涯をかけて『国利民福』への思いをつらぬきました。

 

『国利民福』-国家の利益となり、人々の幸福につながる事業を成すことであり、それは、海雲の生涯をかけた目標でした。

 

約170ミリリットル入りのラムネが8銭の時代に、濃縮飲料のカルピス(大瓶400ミリリットル)は1円60銭もする高価な飲み物だったが、これを一躍有名にしたのは、「初恋の味」というキャッチフレーズ。

 

後輩の驪城卓爾(こまきたくじ)から、『「カルピス」はやはり「初恋の味」だ。この微妙・優雅で純粋な味は初恋にぴったりだ』とすすめられたが、 海雲は、『それはわかった。だが「カルピス」は子どもも飲む。もし子どもに初恋の味ってなんだと聞かれたらどうする』と言うと、驪城は『「カルピス」の味だと答えればいい。 初恋とは、清純で美しいものだ。それに、初恋ということばには、人々の夢と希望とあこがれがある』という言葉に海雲も納得し、1922(大正11)年4月の新聞広告にキャッチフレーズとして使用したのが始まりです。

萱野 重実(かやの しげざね、1675- 1702)は、赤穂藩浅野氏の家臣で、通称三平(さんぺい)。

討ち入り前に忠孝のはざまで自刃した赤穂藩士として有名だが、俳人としても知られ、俳号は涓泉(けんせん)。

延宝3年(1675年)浅野長矩(9歳)が父長直の後を継ぎ、赤穂藩主・内匠頭となったその年、重実が摂津萱野邸で生まれる。

 貞享4年(1687年)重実が13歳の時、播磨国赤穂藩主浅野長矩に中小姓として仕え、元禄13年の赤穂藩の分限帳によると、重実は多儀清具(中小姓頭)支配下の中小姓(小姓とは別物。中小姓は武士の格のひとつ。赤穂藩では馬廻役のひとつ下の階級と位置づけられる)で、「金12両2分3人扶持」とある。

 

しかし元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。

浅野家の江戸上屋敷(鉄炮洲上屋敷)で事件を知った重実は、早水満尭と午後江戸を出発、早駕籠で事件の第一報を赤穂へもたらした。

江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破し、この道中、3月18日に西国街道沿いの萱野邸を通過する際、前日に亡くなった自らの母親小満の葬列に偶然にも出くわし、同行の早水満尭に「一目母御に会っていけ」と勧められるも、「御家の一大事」と涙ながらに振り切り、使いを続けたとする逸話がある。

 

3月19日未明赤穂到着し、直ちに大石良雄の義盟に加わり、 4月19日の赤穂城開城後、4月下旬頃、郷里の摂津国萱野村へ戻ったが、江戸へ下ることを願った重実に対して父の重利から大島家へ仕官するよう強く勧められる。

重実を浅野家に推挙した大島家は吉良家との繋がりの深い家柄でもあり、同志との義盟や旧主への忠義と、父への孝行との間で板ばさみになった重実は、元禄15年(1702年)新稲村吉田家の姉小きんを訪ねた明くる1月14日未明、主君の月命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石良雄に遺書を書き、自刃(切腹)死した。(享年28[)

今も重実の辞世の句碑が切腹した長屋門西部屋の横に残っており、また、部屋にある名札は義士関係者により黒く燻し塗り消されている。

 

晴れゆくや日頃心の花曇り  涓泉

西国街道筋に石造りの大きな鳥居(国道171号線勝尾寺口の南側)は、1245年当時、粟生や萱野の材木を使って建てられ、その後数回にわたって修理や再建が行われました。

なお清和帝(850-880)の勅額も掲げられており、この大鳥居を起点とし、勝尾寺まで続く道が表参道で、勝尾寺まで1町(約109m)毎に町石という道のりを示した石が立っており、大鳥居の脇に36町石が立っていることから、ここから勝尾寺まで約4kmだと分かります。

 

鎌倉時代の歌人藤原定家の「明月記」には、有馬の湯に出かけた帰りに、この鳥居からはるか勝尾寺を拝んだという逸話も残っています。

ここで勝尾寺について説明しておくと、伝承によれば、神亀4年(727年)、 藤原致房の子の善仲、善算の兄弟はこの地に草庵を築き、仏道修行に励んでいた。

それから約40年後の天平神護元年(765年)、光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)である開成(724-781)が2人に師事して仏門に入った。

宝亀8年(777年)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建した。

(Wikipedia)

 

勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺(勝尾寺)と号したという。

そして、数年後の宝亀11年(780年)、妙観という名の比丘が彌勒寺を訪ね、7月18日より8月18日の間に、 白檀香木をもって身丈八尺の十一面千手観音を彫刻し、これが当山のご本尊である。 

稀代の名工であった妙観は、観音の化身と信じられ、観音縁日を十八日と定めたるは当本尊より始まるという。

 

よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず。

(『徒然草 第二百二十九段』)

 

781年(天応元年)に58歳で没し開成皇子は、摂津国の勝尾寺裏の最勝ヶ峰山頂(現・大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内)に葬られ、宮内庁管理となっている。 

なお、開山堂には、善仲、善算と開成皇子の木像が安置され、毎年十月二十九日は宮内庁と本寺で御正辰祭が勤められる。

また彌勒寺当時、本堂のあった場所は、いま彌勒菩薩の大仏が大阪平野を見下ろし鎮座されている。 

六代座主の行巡上人は、清和天皇の玉体安隠を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を 帝より賜ったが、本寺では「王」を「尾」にひかえ、勝尾寺と号し、勝運の寺として信仰されて来た。

 

『日本三代実録』は、元慶4年(880)の清和天皇死去についての記事で、清和天皇が「勝尾山」に参詣したことを述べており、これが勝尾寺の文献上の初見ではある。 

当山は「勝運の寺」として広く信仰され、古くは源氏、足利氏ら歴代の将軍や武将達が勝運を祈り、 参拝を重ねてきた歴史がある。

現代では受験・厄除け・病気・スポーツ・商売・選挙・芸事など「人生のあらゆる場面で勝つ寺」として信仰され、その歴史は1300年連綿と受け継がれてきた。

勝尾寺が古くより伝えてきた「勝つ」とは他者を負かすことではなく、 転んでも起き、転んでも起き、己に打ち勝つ 「七転び八起きの精神

 

その精神と、勝運信仰の歴史が一体となり形を成したものであり、それを「勝ちダルマ」と呼ぶ。