椿の本陣

茨木市は、古くは城下町として栄え、茨木周辺はキリシタン大名である高山右近の旧領であり、禁教後もひそかにキリスト教が茨木北部の山間で伝えられていた。 また市内には、大阪府北部で最大、日本で21番目に大きい前方後円墳である太田茶臼山古墳がある。

大阪府茨木市の史跡で約1mほどの花崗岩による碑があり、表面には『ぼろ塚』と刻印されているようだが読み取れない。

建設年度などは不詳で、 虚無僧のもとになったといわれる梵論(ぼろ)に関係しているようで、国道171号線工事のために現在の位置に移動されたとのこと。

本来はもう少し北部のお寺よりの河川にあったのではないか、といわれるが、 ぼろ塚の話は、鎌倉末期頃に吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)によって書かれたといわれる3大随筆の一つで・徒然草の第百十五段に出てくる、宿河原のぼろの逸話に由来し、その供養として塚が建てられたといわれております。

ただし、武蔵国(現 川崎市)にも同名の塚があるらしく、どちらが兼好法師の聞いたとされる場所なのかは判然としない。 

宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品(くほん)の念仏を申しけるに、外(ほか)より入り来きたたるぼろぼろの、「もし、この御中(おんなか)に、いろをし房(ぼう)と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候(さうら)ふ。かくのたまふは、誰たれそ」と答ふれば、「しら梵字(ぼじ)と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。

いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍(はべり)き。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出(い)であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。

ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字(ぼじ)・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我が執(しふ)深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじやう)を事とす。放逸(はういつ)・無慙(むざん)の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり。                               (『徒然草』第百十五段)

御成門脇に咲く椿が有名であったことから「椿の本陣」とも呼ばれていたのが、 郡山宿本陣(こおりやましゅくほんじん)である。

 

江戸時代には京都・西宮間の街道にある5つの宿場(山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽)のちょうど中間点にあるため、西国大名などの参勤交代等に郡山宿が利用されていた。

宿帳の中には赤穂城主であった浅野内匠頭が刃傷事件をおこす前年の、元禄13年(1700年)5月に宿泊した記録や、浅野家断絶の申し渡しのため赤穂へ赴いた脇坂淡路守も泊まった記録が残されている。

というのも、郡山宿本陣では、休泊した大名らの休泊年月日や、食事の内容が細かく記録されている宿帳が残っており、五代将軍徳川綱吉の時代の元禄9年(1696)から、幕末維新後の明治3年(1870)まで記録されています。

 宿帳から、祝儀・心付などの金銭を、本陣に渡しているのがわかりますが、それを計算すると、その収入だけで本陣を維持するのは難しかったようです。

山崎通の宿場は大名の通行にあたって、荷物を輸送する、人や馬を提供することになっており、これが負担でした。

 

そこで、江戸幕府は山崎通の宿駅に配慮して、参勤交代の大名はできる限り本街道(東海道)を通行するように指示しています。

山崎通と東海道は西宮で分かれていて、西宮から大坂、伏見につながる東海道のルートを使うようにとしていました。

 

しかし、その後も山崎通を大名が利用したことは、郡山宿本陣の宿帳から分かりますが、大名にとって参勤交代は経済的に負担であり、迎え入れる宿場側もおなじように負担であったと思われます。

それでいて、年間8-15回程度の宿泊・休憩が取られており、元文5年(1740年)-寛延3年(1750年)頃は平均30回以上発生している。

さらに、正徳元年(1711年)、文久3年(1863年)は45回発生していることを考えれば、江戸時代の本陣の様子を今に伝えていることこそ、江戸時代の博物館と紹介されるのもわかる気がする。 

大阪市天満此花町で開業医の長男として生まれた川端康成(1899-1972)は両親との死別により、明治35年(1902年)に父の実家のある茨木市に移り住んだ。

 

父は三歳の時死に、翌年母が死んだので、両親のことは何一つ覚えていない」(川端康成『油』)

 

年譜によると、二歳で父、三歳で母を失っており、さらに八歳で祖母、十歳で姉、十六歳で最後の肉親、祖父と死別する。

 

その後、宿久庄(しゅくのしょう)の家を離れ、18歳で卒業するまで、学校の敷地内にある寄宿舎で生活しました。

千提寺(せんだいじ)が隠れキリシタンの里だったことが知られたのは大正8年(1919年)2月、地元の元教師が千提寺地区にある雪の積もった丘陵(寺山)で「マリア」と刻まれた墓碑を発見したのがきっかけだった。

以後、同地区や北に少し離れた下音羽地区の民家の屋根裏や土蔵などから、キリシタン遺物が次々に見つかった。

しかも墓碑は、寺山の隣のクルス山(名前の由来不明)や下音羽の曹洞宗の寺・高雲寺からも発見されたのだ。

この地はキリシタン大名として知られた高槻城主・高山右近の領地であり、布教を許した織田信長、宣教師を追放し信仰を禁じた豊臣秀吉、禁教令を出し信者を厳しく弾圧した徳川幕府など、それぞれの権力者に翻弄された、山里の民の信仰をうかがわせる遺物や旧跡が点在している。

茨木市の千提寺という地域にある民家(東家)の梁にくくりつけられていた「あけずの櫃」に収められて代々厳重に封印されていたのを、この地の寺の住職・藤波大超氏によって世に出されたそうです。

発見された遺物は、聖母マリアらを描いた絵画、キリスト磔刑(たっけい)像などの彫刻、金属製のメダルなど。

一部は現在、茨木市が千提寺地区に建設したキリシタン遺物史料館で公開されている。

 

千堤寺というが、寺はなく、興味があるのは、この集落の家々の宗教が、浄土・真宗・禅宗・ほっけというたようさである。

これは為政者の詮索を避けるため、仏教徒を装い、内密に天上裏などに祭壇を設けて、深夜、祈りをささげていたようだ。(向陽書房『西国街道』)

更に西国街道からは遠くなるが、是非にでも紹介しておきたい教会があるが、これは隠れキリシタンとは関係なく、1972年設立の茨木春日丘教会(いばらきかすがおかきょうかい:北春日丘4)である。

その礼拝堂の別名が、光の教会(ひかりのきょうかい:1989年竣工)と呼ばれており、設計が安藤忠雄なのだ。

建物は安藤忠雄の建築によく見られる打放しコンクリートで、礼拝堂の祭壇の後ろに当教会堂を特徴づける十字架状のスリット窓(スリット窓には元々ガラスを付ける予定がなく、風が入って寒さに耐えつつ身を寄せ合いながら祈ることを意図していたが、結局ガラスを嵌めることにした)が壁面いっぱいに設置されている。

この「光の十字架」以外に室内に十字架は無く、信者が聖書の世界をイメージするのを助けるために、聖画像(聖母子像・天使像など)を装飾として多用するカトリック教会やイコンを用いる正教会の立場と異なり、それらが偶像崇拝に誤用される危険があり像や絵画を教会に置かないとする立場のプロテスタントの教会堂建築らしく、簡素な堂内である。

床や椅子は木造であるが、工事用の足場板を流用しており、木は暗い色に塗られていて、「光」を強調するのに役立っている。

冬場は防寒のために足元に明るい色の電熱シートが敷かれる為に印象が変わる。

 

通常、教会堂建築は祭壇は最も高いところにある例が多いが、当教会の礼拝堂は音楽ホールや大学の教室のように信者席が階段状になっており、一番下に祭壇があり、壁面いっぱいのスリット窓は構造上・施工上の困難が多かったという。

 

なお2005年には、後ろの壁面ほぼいっぱいにドイツ、ボッシュ社製のパイプオルガンが設置された。

このあとも、道の旅人は、西国街道を走り続けるが、茨木には歴史があり、この市(まち)のあちこちを探訪しながらになる。