芥川一里塚

継体天皇(けいたいてんのう、450年? - 531年)は、日本の第26代天皇だが、陵(みささぎ)は、宮内庁により三嶋藍野(みしまのあいの)陵(前方後円墳、墳丘長227m:茨木市太田)に治定されているのだが、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。

一方、今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m:高槻市郡家新町)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっており、この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている。

この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査も行われている。

2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元されているのだ。

507年樟葉宮(くすはのみや:大阪府枚方市)で即位。

511年、筒城宮(つつきのみや、京都府京田辺市)に遷す。

518年、弟国宮(おとくにのみや、京都府長岡京市)に遷す。

526年、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、奈良県桜井市)に遷す。

 

第26代継体天皇は、前代の第25代武烈天皇など実在が疑われる人物とは違い、実在が間違いないとされる天皇である。

 

これ以降の天皇の系譜では、実在性が疑われる人物がおらず、継体天皇からほぼ間違いなく現在の皇室まで繋がっているとされている。

にも拘らず、『古事記』では丁未年(527年?)に崩御して【御陵者、三嶋之藍御陵(みしまのあいのみささき)也】(茨木市)に、『日本書紀』では継体天皇25年(531年?)に崩御して【葬于藍野陵】「藍野陵に葬られた」(高槻市)と見える。

まさに継体天皇は、二つの陵墓・四つの王宮を持っているわけだが、記紀は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)と記している。

 

507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。

継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている。

樟葉は古くから川の渡場があり、「久須波の渡り」と言われていたように古代において交易の要地であったのだ。

また古代官道「山陽道」沿いにもあり、大和国と九州の太宰府を結ぶ幹線道として重要視され、官道の中で唯一「大路」とされていた。

 

しかし、迎えられて直ぐに大和国に入らなかったのは、危険と感じたからに違いないのだが、それでも即位したのは、「私たちが考えますのに、大王(おおきみ:男大迹天皇)は、人民を我が子同様に思って国を治められる、最も適任の方です。私たちは国家社会のため、思い図ることは決してゆるがせに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れ下さい」と、大伴大連らがロをそろえて諭したからであろうか?

一説には、反対派の情報を得るために様子を窺うことを意図して、知己であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が住む樟葉を一時的な拠点としたものだという。

そこで政治が行われたとしたら、首都機能もないはずだから前代未聞だと思うのだが、511年には筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)へ移り、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て、即位して19年目の526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷ったというわけだ。 

西國街道を西からきて芥川の橋を渡ると、芥川の宿駅に入り、古い街並みを過ぎていくと、街道が付きあたったところに榎木が繁茂し、『芥川一里塚』の石碑がたっている。

その一里塚は、かつて西国街道の宿場「芥川宿」の街道を挟んだ東西入口の両側にあったが、現在残っているのは、東側だけである。

西国街道は、淀川の水上交通とともに、山城国と摂津国を結ぶ重要な交通路であり、江戸時代には、山崎通(やまざきみ)と呼ばれていた。

 

この街道は、京都の山崎宿と西宮宿を結ぶ脇街道として、西国大名の参勤交代のほか、多くの人びとが往来していたのである。

その経由地であった芥川は、12世紀頃には宿駅として成立しており、14世紀には関所である皇室領率分所(りつぶんしょ)が置かれ、16世紀初めに芥川の北郊に築かれた芥川山城は管領細川氏の摂津支配の拠点として機能し、17世紀始めには、徳川幕府による宿場町として、参勤交代のための本陣や伝馬などのほか多くの旅籠が、芥川一里塚跡より西側、芥川橋までの約400メートルのうちに設けられた。

ここで西国街道と離れて、高槻駅(JP)や高槻市駅(阪急)の南側に方向を変えて高槻城に向かう。

室町時代は入江氏の居城であったが、織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。 

高山友照・右近父子が城主(1973)となっていたが、50歳を過ぎた友照は、高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。

天正4年(1576年)には、念願であった教会を建設していた。

ところが、天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻したのだ。

組下(くみした)であった高山親子も、高槻城に拠って信長に反抗したのだが、これ以前に友照は、娘(右近の妹)と右近の息子を「謀反はするべきではない」という主張を通すために人質として荒木方に差し出していた。

しかも信長は、降伏しなければキリシタンを迫害すると通達したことなどにより、信長に降伏すべきとする右近派と、徹底抗戦するべきとする友照派が対立していた。

キリシタンとしての心情と、人質を取られているという板挟みの中、結果として右近が単身城を出て降伏し、荒木村重が逃亡するに至った。

高槻城は要衝の地であったため、信長は右近を味方につけるべく畿内の宣教師達を説得に向かわせた。

右近は織田方につく意思はあったものの、村重の下にある人質達の処刑を恐れ、判断し兼ねていた。

懊悩した右近だが、信長に領地を返上することにより、織田との戦を回避し、尚且つ村重に対しての出兵も回避し、人質処刑の口実も与えないという打開策に思い至る。

右近は紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭し、村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった。

この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、摂津国芥川郡を与えられ2万石から4万石に加増された。

1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失、安土のセミナリオ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)自体も、オルガンチノ神父以下約30名いた生徒全員の大脱出という出来事で幕を閉じた。

 

右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力し、秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信した。

 

右近がキリスト教と出会ったのは永禄7年(1564年)、12歳の時で、父の勧めで奈良県の沢城で受洗し、「ジュスト」という洗礼名を受けます。

天正元年(1573年)の21歳の頃に高槻城主となり、城下町を整備する一方、20を超える教会を建設しました。

当時(1581)盛大に復活祭が行われ、高槻領民2万5千人のうち、7割強がキリスト教信者であったともいわれています。

 

更に右近の進言に従ったオルガンティーノ師は、1583年9月に大坂に羽柴(秀吉)殿を訪れて、地所の下付を願い、河内国にある(岡山の)教会を同所(大坂)に再建する許可を求めたが、それに対する高山右近殿の配慮と努力には並々ならぬものがあった。

 

秀吉が示した好意と歓待ぶりは驚くべきほどで、「伴天連らが遠国からはるばると教えを説くために渡来した辛酸労苦は非常なものだ。伴天連の望みを叶え、極上の敷地を進ぜよう。申し出た教会についても、何人の妨げも受けず、随意に建築することを許可しよう」 

 天正15年(1587年)の秀吉によるバテレン追放令、慶長18年(1613年)の徳川幕府によるキリスト教の禁教令など、周囲からのキリスト教弾圧に右近が屈することはありませんでした。

大名の地位を捨ててまで貫いた信仰は人々の胸を打ち、教皇シスト5世からは右近を称えた書簡も送られています。

追放令後、右近は加賀の前田利家に迎えられ、金沢に屋敷を構えましたが、禁教令が発令されると、右近は国外追放となり、長崎からマニラ市へと旅立ちます。

無事到着はしたものの、間もなく病によって最期を迎え(1615年)、 迫害を受けながらも生涯信仰を貫き通した右近は、平成27年(2015年)に没後400年を迎えて、平成29年(2017年)にはローマ教皇庁から殉教者として列福されました。

三十六歌仙の一人であり百人一首第19番に採用された、平安時代の女流歌人伊勢の隠棲跡に伊勢寺は建てられた。

伊勢姫は、父の藤原継蔭が伊勢守であったことから父の受領名をもってそのまま「伊勢」と呼ばれた。

伊勢(872-938)は七条后・藤原温子(872-907)にその女御として仕えると、当時皇太子であった定省親王(宇多天皇)の寵愛を受けて行明親王を産んだ。

しかし、行明親王は不幸にも8歳で亡くなり、宇多天皇も31歳で譲位して御室(仁和寺)に居所を移した。

すると伊勢は桂に移り住み、和歌に励んで多くの歌集を残した。

勅撰和歌集の「古今和歌集」には小野小町の18首をしのぐ22首が選ばれている。

そんな中、宇多天皇の皇子・中務卿敦慶親王の寵愛を受け、後の女流歌人中務を産んでいる。

中務も優れた女流歌人であり、伊勢と共に三十六歌仙に選定されている。

 

伊勢(872頃-938頃)は宇多法皇崩御の後、当地・古曽部の里に隠棲すると法皇と行明親王の御霊を祀り、その多彩な生涯を閉じた。

 

難波潟 みじかき葦の ふしの間も  逢はでこの世を 過ごしてよとや

                 【新古今集巻十一 恋一「題しらず 伊勢」百人一首19】

能因法師は、伊勢姫没後の人であるが、伊勢姫の歌に傾倒し、遂にこの地に移住し、「伊勢姫を心の恋人とした」とされている。

しかも、歌枕に強い関心があったと伝えられており、和歌に対する強い情熱から、様々な逸話が『古今著聞集』残されている。

 

あるとき、能因は「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(「後拾遺集」羇旅・518)という歌を詠んだが、この歌の出来映えに満足したが、能因は白河を旅したことがなかった。 そこで自分は旅に出たという噂を流し、家に隠れこもって日焼けをし、満を持してから発表したという。

 

山里を春の夕暮れきてみれば入相(いりあい)の鐘に花ぞ散りける』(能因法師集)

わが宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりける』(後拾遺集167)

 

能因(988 - 1050か1058)は、26歳で出家し、和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部にさだめ、古曽部入道と称した。 

 

あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり(69番:「後拾遺集」秋・366)

 

せめて画像だけでもと思い、伊勢と能因を仲良く並ばせてもらったが、【歌枕】の談議に花を咲かせていることを願て終わるが、究極の伊勢の歌で締めくくる。

 

あひにあひて 物思ふころの わが袖に やどる月さへ ぬるる顔なる 

                          〈古今和歌集 巻第十五 恋歌五 756〉