白井河原合戦跡地

戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津国は常に戦乱の地であり、永らく一つにまとまっていなかった。

永禄11年(1568年)8月には茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦い(猪名寺の戦い)があったが、直後の9月に足利義昭を擁する織田信長が西上して摂津に至り、敵対する三好氏の本拠芥川山城を攻め落とした。

三好三人衆らは阿波国に撤退し、かれらと抗争を繰り広げていた松永久秀は新将軍義昭に服した。

義昭擁立に功のあった近江国甲賀の国人和田惟政が伊丹親興・池田勝正と並ぶ摂津の大名に抜擢され(摂津三守護)、松永に属していた高山友照はこれに従うと、和田が高槻城に移った後には芥川山城を預けられて後に大名に飛躍するきっかけとなった。

白井河原の戦い(しらいがわらのたたかい)」(1571年)は、それまで池田氏に仕えていた荒木村重、中川清秀と和田惟政、茨木城城主・茨木重朝との間に起った戦い。

荒木・中川連合軍は白井河原の西、馬塚に布陣、茨木・和田連合軍は白井河原の東、糠塚に布陣し対峙した。

茨木・和田連合軍の陣形が整う前に戦端が開かれたと言われ、惟政は清秀によって討ち取られ、重朝も村重本陣に迫る奮戦を見せたが村重によって討ち取られた。

これを境に摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、荒木村重・中川清秀・高山友照・高山右近などが摂津の支配者となる。

 

この時郡正信は惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである(『陰徳太平記』)。

 

しかし惟政はこの申し出を全く聞き入れず、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである。敵が率いてくるかもしれぬ軍勢の数を畏れてはいませんでした。

それ故彼は、敵勢を半里ばかりのところで認めますと、息子とともにやってくる後衛を待つこともなく、一同を下馬させ、交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣とばかり、敵方から自分の方へ一千名以上の兵が向かってくるのを認めることなく、かの二百名だけを率いて敵を攻撃しました。(フロイス『日本史』)

惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。

フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。

畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力したが、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したため、その死をフロイスは大変嘆いたのだ。

天智八年(669年)冬十月十日、 天皇は藤原内大臣(ふじわらのうちつおおおみ:鎌足)の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。

しかし、衰弱が甚しかったので、詔(みことのり)して、「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。積善の家に余慶があるというのに、そのしるしがない答はない。もし望むことがあるなら何でも言うがよい」と言われた。

鎌足は、「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗のこと)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」云々(うんぬん)とお答えした。(『日本書紀』天智紀)

 

墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。

鎌足の長子定慧(643-666)は、留学僧として唐にあり、夢の中で多武峰に立っていると、父が来て、「自分は天にいる。お前が日本に帰れば(665年)、この地に寺塔を立ててくれ、そうすれば天から降りて子孫を守るであろう」と聞いたという。

定慧は父の墓所である摂津の阿威山に登り、遺体を掘り出し、多武峰に十三重塔をつくり現在の談山神社のところに葬った。

藤原鎌足にまつわる遺跡や伝承が多く存在するという茨木市の安威(あい)地域だが、『日本書紀』に、「皇極三年春一月一日、中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ)を神祇伯(じんぎはく)に任ぜられたが、再三辞退してお受けしなかった。病と称して退去し、摂津三島(せっつみしま)に住んだ」とあるのだ。

ところが、「元享釈書(げんこうしゃくしょ)」(1322年)では、鎌足の墓が゛摂州阿威山゛と記され、「摂津名所図会」や「摂陽群談」らの古典は、これを安威集落近くの、大織冠神社、つまり小山の頂上に巨石で築かれた横穴式石室である「大織冠古廟(将軍塚古墳)」に充てている。

なお、谷川健一編「日本の神々」で、中臣氏の三島進出の理由を二説紹介しており、一つは、河内の小勢力であった中臣氏(まだ賜姓以前の卜部)が、継体帝の後背氏族の一つとして継体軍団とともに大和に入り、さらに行を共にして三島に進出した説。

もう一つは、やや後に、中央で天孫奉斎を職掌として勢力を伸ばした中臣氏が、記紀神話の天児屋根命を祖神として、天智系大王家の始祖である、継体の墓を守るべく三島を手中に収めたと言う説です。

幣久良(てくら)橋を渡ると、耳原(みのはら)公園だが、ここからさらに東の耳原・鼻摺(はなずり)古墳へ向かう

安威川・茨木川の間の台地上に築造された古墳で、墳形は円形で、直径約21メートル(推定復元30メートル以上)・高さ約8メートルを測る。

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。

玄室には花崗岩の巨石が用いられ、玄室内には組合式家形石棺(奥)・刳抜式家形石棺(手前)の2基が据えられる。

築造時期は、石棺の様式より古墳時代後期の6世紀末頃または古墳時代終末期の7世紀前半頃の2説がある。

 

石室内には家形石棺が2基据えられており、奥壁側は組合式家形石棺、羨道側は刳抜式家形石棺で、いずれも兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト(竜山石)製である。

奥棺は中央に据えられ、蓋石・側石2枚・底石の計6枚から構成され、身部は長さ1.89メートル・幅約1.26メートル・高さ約0.9メートル、蓋石は長さ2.19メートル・高さ0.16メートルを測る。蓋石には方形の縄掛突起として前後各1個・左右各2個の計6個が造り出され、底石にも突起が造り出される。

手前棺は西壁に沿って据えられ、身部は長さ2.07メートル・幅0.87メートル・高さ約0.69メートル、蓋石は高さ0.3メートルを測る。

蓋石には円形の縄掛突起として前後各1個の計2個が造り出され、身部はやや胴張りし、両棺とも内面には朱が塗られたと見られる。(現在、耳原古墳見学はできません)

 

西方では鼻摺古墳(耳原方形墳)のほか近年に耳原西古墳が見つかっており、本古墳とともに古墳群を形成したことが明らかとなっている。

西国街道から、、随分と南に外れるけれど、【総持寺】に立ち寄り、茨木神社・梅林寺、そして茨木童子へと、後ずさりするかのように進路を戻す。

 

藤原山蔭(やまかげ:824-888)という貴族が住吉大社に参詣した際、鵜飼の船に乗せられた亀を買い取り、海に放してやった。

その後年月を経て、この山蔭の妻が海に投げ込んだ先妻の子の若君を、亀が甲羅の上に載せて運んできた。

亀は一旦海に戻ったが、山蔭の夢の中に現れ、かつて助けられた恩返しに、若君を救い届けたことを告げた。

山陰はこの若君を法師にし、一度亡くなった児であることから、如無(にょむ)と名付けたのだが、如無法師は興福寺の僧となり、宇多上皇に仕えて僧都の地位にまで昇った。

恩返しとはいえ、人の命を救い、夢でその経緯を告げるなどというのは、その亀が仏・菩薩の化身であったからに違いないが、この藤原山陰は、摂津国に総持寺という寺院を創建した人物として、語り伝えられている。『今昔物語巻19第22話』

 

一方、総持寺に伝来する近世初期の『総持寺縁起絵巻』によると、類似した経緯ではあるが、継母により川に投げ入れられたのは藤原山蔭自身であり、かつて漁師たちから大亀を買い上げて逃がした父・高房(795-852)が観音に祈願したことで、山蔭が助けられたとされる。

高房は観音の恩に報いるため造像を発願し、材料の香木を唐で求めようと遣唐使に依頼したが、持ち出しが禁じられ、遣唐使はその香木に銘を記して海に流す。

高房の死後、山陰が日本に流れ着いたこの香木を手に入れ、長谷寺に参詣して仏師の童子に観音像の製作を依頼する。

実は、この童子は長谷寺の観音の化身で、作り上げた観音像を祀って総持寺が建立されたというわけである。

 

なお山蔭は、四条流庖丁式の創始者で知られており、これまで磐鹿六雁命の末裔高橋氏が庖丁式を執り行っていたが、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式(料理)を編み出した。

大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切(いばらき)の里(地名「茨木」の由来)を作った際、今は奥宮となっている天石門別(あめのいわちわけ)神社が創建されたのに始まると伝えられているのが、茨木神社である。

そこに、茨木城(いばらきじょう)から移築されたと言われている搦手門があり、それをくぐると東参道は、阪急商店街通りである。

この東参道の北側に梅林寺(現片桐町)があり、中川清秀(茨木城主)の墓もあるのだが、さらに重要な手紙も保存されている。

 

これから書状を出そうと思っているときに貴報を受けて嬉しく思う。さて、ただいま京都より下った使者の確かな報告によると、信長様・信忠様はいずれも、何の御障りもなく、難を切り抜けられ、膳所ヶ崎(ぜぜがさき)へ退かれた・・・」とあるが、本能寺の変(天正十年六月二日未明)後、六月五日付で秀吉が清秀に宛てたものである。

 

十一日には光秀と対峙すべく、尼崎へ兵を進めていた秀吉の陣中へ、高山右近とともに出向き人質を立てたにもかかわらず受け取らず、先陣争いを任せたという。

なお清秀は、山崎の合戦において功名を立てた後、賤ヶ岳で奮戦むなしく、柴田勝家の武将佐久間盛政に攻められ、戦死を遂げた後、佐久間軍を破って功を挙げたのが、七本槍の片桐且元(後の茨木城主)である。

むかし、摂津の国水尾村に男の子が生まれたが、生まれながらにして歯がはえ揃っており、生まれてすぐにヨチヨチ歩き出した。

眼光鋭く後を向いて、母の顔を見てニタッと笑ったー

その恐ろしさのため母はショックで亡くなり、うわさはすぐに広まって、みんな薄気味悪くなり、誰も相手にしなくなった。

ある夜、父は茨木村の九頭神の森近くにある髪結床屋の前に捨ててしまった。

床屋の親方夫婦が拾い育てたが、やがてもてあますようになり、そこで床屋の仕事を教え込むことにした。

3年ばかり過ぎたある日、客を傷つけてしまい、あわてて指で血をぬぐったものの、指をきれいにしようと血をなめると、その味が癖になってしまった。

以後わざと客の顔を傷つけては血をすするようになり、客を傷つけたことで床屋の親方にひどく叱られ、気落ちして土橋の上からしげしげと川面を見ると、水鏡に映った自分の顔はなんと鬼の相を呈していた。

童子は驚き、そのまま店には戻らず丹波の山奥に入り、大江山に住む山賊の頭、酒呑童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になった。 (『わがまち茨木-民話・伝説編』より)

「そんな茨木童子も、今では、”いばらき童子”として、茨木市の観光特任大使をしています!

これからも、いろいろなイベントなどに行って、茨木市の魅力を市内外のたくさんの人に伝えられるように頑張ってくれています。

もし”いばらき童子”を見かけたら、声をかけたり手を振ってあげてくださいね!」とは、茨木市からのコメントです。