あまの街道

天野街道は西高野街道と堺市岩室で分岐して、「女人高野」ともいわれる天野山金剛寺へと向かう信仰の道です。

大阪狭山市今熊から大野西までは、陶器山丘陵に残る自然を残し整備され、平成7年に建設省(国土交通省)の「手づくり郷土賞」を受賞、平成9年には「大阪の道99選」に選定されました。

また、一部を除いてほとんどの区間が丘陵の木立の中や田園地帯で、のどかな細道の中を金剛寺まで歩けます。                    

天野街道は少し行くとすぐに歩行者専用の緑道で、陶器山(標高149m)の尾根道の両側には雑木林が連なり気持ちよく歩けます。

分岐から15分ほど歩くと三都神社への分岐があり、参拝に往復しても10分ほどのものです。もどって10分も歩けば左側の展望が開け、二上山から大和葛城山、金剛山へと見渡せます。

この辺り、日の出の名所でもあるようで、日の出の時間が案内された看板などもあり、近くの人の楽しみとなっているようです。                        (高野山町石道より『天野街道』)


天野街道は熊野への参詣道でもあり、熊野三山を勧請した三都神社のある地名も、それにちなんで今熊(野)である。

詳しい創建時期は分かっていませんが、7世紀頃(650年頃)に創建されたと言われており、日本では飛鳥時代(古墳時代終末期)にあたる。

16世紀(戦国時代)に兵火で社殿を焼失(1530年頃)しますが、金蔵寺(1546年)内に再興され、現在の社殿のあたりから南側の広大な地域にかけて、金蔵寺という寺院の伽藍があり、三都神社はその鎮守社だったのではないかと考えられている。

その後、明治時代の神仏分離では神社が残り、金蔵寺のほうがなくなってしまった。

 

境内社の摂社巡りの順路では、春日社→発辰大神→熊野三宝荒神→稲荷大神→祖霊社→毘沙門天堂→吉祥水天宮→三都戎本殿→三都戎拝殿とある。

本殿の案内書きには、「恵比寿大神様はお耳が遠うございます。裏に廻って槌で鳴板をたたいてお詣り下さい」とあります。 

 

ところでこの神社の名前の由来が、河内・摂津・和泉の真ん中にあるから三都神社とも言われているが、陶器山を挟んで東側にあり、どちらかといえば河内国に属している。

旧三都村(1931年廃止)の鎮守であるが、今は今熊・茱萸木・大野・口大野・岩室・山本・山伏・隠(かくれ)・池ノ原・西山台・大野台が氏子となっており、産生神(うぶすながみ)氏神として崇敬されてきた。

 

三都神社には別宮として三都戎神社があり、『三都神社略記』には次のように記されている。

 

昭和21年に大東亜戦争後の社会不安はその極に達し、経済生活もまた混乱動揺言語に絶するものあり。この時に正常な経済、正しい商売繁盛の道、人の世のまことの福徳を求める人々の悲願により、昭和33年ここ三都神社境内を聖地として社殿の竣工を見、戎大神を勧請奉祀が実現し、戎講役員により1月10日の戎祭りには吉兆受興・福引・大もちまきの神事が行われ、遠近よりの参拝者は境内に溢れ、爾来年を重ねる毎日崇拝者は増加している

三都神社の分岐点に戻り、しばらく行くと東屋(休憩所)があり、🚻も設置されているが、その下が陶器山トンネル(昭和61年完成)である。

 

序にここで、大阪狭山市の公募の中から命名された、【道路の愛称】を説明しておく。   

先ず‟陶器山通り‟は、泉北ニュータウンと狭山ニュータウンをつなぐこのトンネルから、狭山ニュータウンを横断し、国道310号と交差したあと、西除(にしよけ)川にかかる洞ヶ淵橋までの区間までをいう。

他に‟いちょう通り‟は、 狭山池通り(大阪府道34号堺狭山線)につき当たる岩室東交差点から南に伸び、狭山ニュータウンを縦貫し、大野地区に至る区間で、沿道にいちょうの木が並ぶ。

さらに‟狭山池通り‟は、大阪府道34号堺狭山線と大阪府道202号森屋狭山線の大阪狭山市通過部分の区間で、狭山池の南側を通る。

そして‟さやか通り“は、大阪府道198号河内長野美原線のうち、狭山半田郵便局から狭山池通りと交差する浦之庄交差点までの区間で、沿道にSAYAKAホール(文化会館)や市役所がある。


上右図(MT203-Ⅱ号窯跡)は、陶器山地区の5世紀の窯跡で、丘陵斜面を利用して構築された登窯(のぼりがま)である。(注:参考画像)

 

大阪狭山市と堺市を分けて南北に走る陶器山丘陵は, 東に走る羽曳野丘陵との間の狭い微高地に形成された、大阪狭山市を懐に懐く形で延びています。

5世紀後半以降、陶邑(すえむら)窯と陶工集落、それに関連する古墳群が丘陵ごとに見られ、しかも5世紀後半~9世紀まで連綿と操業が続いていたことが判明しています。

ところで陶器山(とうきやま)と呼んでいますが、本来は須恵器(すえき)山だろうと、これからも分かります。

古墳時代後半(5世紀半ば)に朝鮮半島から伝播した新しい製陶技術で作られた焼き物を須恵器と言います。

 泉北古窯群のなかで陶器遺跡、陶器千塚遺跡、陶器南遺跡を含む陶邑窯跡群陶器山地区に、大阪狭山市の岩室、山本なども含まれます。

2011年1月末に、陶器山の今熊1丁目(第三小学校の西方)の、あまの街道沿いに出土した 陶器山二号窯跡は、堺市側から掘られた登り窯の先端2m部分でした。

 

その登り窯は山の斜面に作るので、岩室の東西斜面、堺側・狭山側にも窯があり、陶器山で河内と和泉(堺市南区?)の民が須恵器を焼くまきの山をめぐって争ったりしている。(『日本三代実録』の中で「陶山の薪争い」)

 

 800度くらいで焼かれた従来の縄文式土器、弥生式土器(土師器)と異なり、還元焔(かんげんえん)焼成(しょうせい)という窯を必要とする方法で、1100度前後の高温で焼かれた陶質土器を言います。

陶器山地区には窯体、灰原の確認によって確実に窯跡であることが判明しているものが87基、窯壁、須恵器の散布があり窯跡の可能性が指摘されたものが27基、合計114基の窯跡が所在していたと考えられます。

内訳は、5世紀の窯跡(右端の写真)が11基、6世紀が38基、7世紀が12基、8世紀が15基、9世紀以降が11基。

大半は登り窯ですが、丘陵斜面を水平にくりぬいた平窯構造のものが4基確認されています。

丘陵部は窯跡の他の遺構は検出されておらず、生産者の居住地域は大阪狭山市側の西側地域、さらに北部地域に求められます。

古墳時代が終わり、燃料供給地としての役目を終えた陶器山は、西高野街道から今熊で分かれる尾根道が、女人高野と言われる天野山金剛寺までの参詣道として使われ、 天野街道と言う重要な街道でもありましたが、今は里山としての静かな佇まいを見せています。

大野奥山と呼ばれていた現在の大野地区に、
穴地蔵(大阪狭山市最南端)さんと呼ばれる、北向きのお地蔵さん
がひっそりとたたずんでおられます。
目・鼻などの穴という穴のすべての病気に霊
験があるという、有難いお地蔵さんです。
 地蔵菩薩は、じつは、「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を辞し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続けているのです。

 

とくにこの穴地蔵は、子宝にも恵まれるという言い伝えもあり、子宝が授かった人は、お礼参りで名前を 書いた涎掛けを奉納しています。
また、地蔵盆も盛大で、この地点が堺・大阪狭山・河内長野の市境であるだけに、地元の方から大事にされていて、お参りの方が絶えません。

ところでこの穴地蔵には、横穴式の古墳がイメージされるのだが、ひょっとしたら、帰化人たちの窯跡を意味しているのであろうか?

そして古墳と須恵器が、深いつながりがあることを考えると、その後の古代人たちが、先祖を祀るように、お地蔵様に手を合わすのも一理あるような気がするんよ。

地蔵様は、常に民衆とともにあることから、あえて人の下座、つまり、北向きに配されているのだ。

ここから道の旅人は、寺が池公園をめざした。

この寺ヶ池(てらがいけ)は大阪府河内長野市にある、江戸時代に作られたため池。

春から夏にかけて周辺の水田へ灌漑するため、池の水量は減少するが、冬に再び石川からの用水路を通じて水が流入するため満水になる。

1633年から1649年までの16年をかけて、上原村(現 同市上原町付近)の庄屋だった中村與次兵衛(なかむらよじべえ)が中心となり、新田開発の為、元々、小山田村(池の南側)と市村(池の北側)の村境にあった小さい池を拡張して作られた。

池の周囲は遊歩道が整備されており、周辺住民の散歩などに利用されており、北堤防には記念碑や灌漑用の用水路の水門を開閉する「ため池観測局」があり、池の水が溢れ出すのを防ぐため、満水になると自動的に流れるようになっている用水路もある。

毎年8月1日に行われる教祖祭PL花火芸術を見ることができて、当日の夜になると見物客で混雑するが、駐車場や屋台などは一切なく、公衆トイレも200m程の距離があるので注意が必要である。

水源となる取水口は、この池から約5.6km南西にある同市日野地区を流れる石川にあり、その場所には石碑が建てられている。

その後用水路は、北東へと続き寺ヶ池公園の菖蒲園付近で池に流入するが、この池の水は先述の通り、周辺の水田に灌漑をしたり、北東へ約1.3kmにある灰原池の水源とするため、北堤防より用水路が設置されており流出する。

寺ヶ池周辺を、河内長野市では唯一の総合公園公園としており、4つのエリアに分かれているのだ。

一に寺池、二に狭山池、三に和泉の久米田池」との云われがあるほどに、寺ヶ池は大阪で一番深い池と評されており、どんな干ばつにも水が底をついたことのない池として有名だと言う。

道の旅人は再び天野街道に戻り、泉北丘陵分岐点へ向かった。