トトロ街道

新町橋交差点から南にしばらく進むと、左に曲がる道があり、その道を道なりに進むと、踏切があり、渡って右へ曲がるとトトロ街道の入り口。

というのも、三日市町駅から天見駅の間にある南海高野線の廃線跡であり、全長約5km弱のサイクリングロードになっているんよ。

それが通称「トトロ街道」と言われ、樹木に囲まれ、木漏れ日が洩れた細い道なんだけれど、いかにも健康的で、不思議な世界観というわけ。

千早口駅(南海電気鉄道高野線)は、駅名からは千早赤阪村へのルートの一つに思えるが、同村千早への公共交通はなく、道路で8km以上離れている。

その千早赤阪村(ちはやあかさかむら)は、大阪府南河内地域にあり南河内郡に属してはいるが、大阪府で唯一の村であり人口が最も少ない。

また、楠木正成の出身地として知られ、役行者が修行したと言われる金剛山や、棚田などの自然に囲まれた、歴史と観光の村である。

そのキャッチフレーズも、「一冊の絵本のような村」としており、道の旅人はそんな宮崎ワールドに入っていった。


鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した、楠木正成の城が下赤坂城で、標高185.7メートル、比高61.4メートル。

遺構はほとんど残っておらず、現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったとされる。

 

元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵。

熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城、正成は金剛山に潜伏した。

翌元弘2年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。

上の画像の左側が下赤阪城阯で、右側が南北朝時代の軍記物語『太平記』に、「かの赤坂の城と申すは、東一方こそ山田の畔、重々高く、少し難所の様なれ、三方はみな平地に続きたるを・・・」と記される歴史ある棚田が下赤阪の棚田

とすれば、少なくとも室町時代にはこの地には棚田が築かれていたことになり、 村の主要産業は農林業で、中山間地域の地形を利用した棚田が室町時代の古くから形成されていたのだ。

その棚田とは、山の斜面や谷間の傾斜地に、階段状に造られている水田のことで、小さいものまで数えれば千枚にも達することから「千枚田」ともいわれているんよ。

春には「水を引き込んだ棚田」、夏には「青々とした棚田」、秋には「黄金色の稲穂が波打つ棚田」、冬には「雪化粧をした棚田」というように四季折々の美しい姿を見せてくれます。

上赤坂城 (かみあさかさじょう) は、別名 楠木城 (くすのきじょう) とも呼ばれ、鎌倉末期に倒幕に向け挙兵した “大楠公” 楠木正成 (くすのき まさしげ) の本城だったと伝わる。

 

元弘2年(1332年)11月中旬もしくは12月初頭、一年以上の沈黙を破って突如姿を現した楠木兄弟は、下赤坂城を12月初頭のうちに攻略して奪還した上に、敵城主湯浅宗藤とその一族まで味方につけてしまった(『楠木合戦注文』)。

さらに12月中旬から元弘3年/正慶2年(1333年)1月にかけて、畿内への攻撃を繰り返す(『楠木合戦注文』『道平公記』)。

 

事態を重く見た幕府は、関東から大軍を差し向けるが、楠木正成も、前回落とされた下赤坂城よりも強固な城である上赤坂城を築城していた。

正成は天険の要害千早城に待機すると共に、平野将監(ひらの しょうげん)入道を上赤坂城の主将に選び、弟の正季(まさすえ)を副将として守備に当たらせた。

1333年3月、平野将監 と楠木正季 は、ここ上赤坂城で鎌倉幕府軍を迎え、糞尿戦法など奇策を駆使して戦ったが、幕府軍に水の手を断たれ落城した。

 

千早城は、四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。

大和国五条と河内国大ケ塚(だいがづか)・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城である。

 

 

城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深いに谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地である。

金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっている。北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となった。

赤坂城の陥落後、包囲していた幕府軍は千早城へと出軍し、吉野から来た軍勢もまた千早城に駆け付けた。

『太平記』によると総勢100万と号する大軍が千早城を包囲し、籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの小勢で守ったとされる

 

楠木正成が立て篭もる金剛山千剣破(ちはや::千早)城への攻撃軍は、当初の軍勢八十万騎に加えて、赤坂攻撃軍や吉野攻撃の軍勢も駆けつけその数、百万騎を超えます。

軍旗が風に翻り、たなびく様子は、秋の野に広がる尾花の穂より多いように見えますし、武器の刃物が太陽に反射して輝く有様は、枯れ草に降りた霜が、暁の太陽に光り輝いているのだ。

また大軍が近づいて来る様子は、山も共に動くように見え、閧の声が大地を揺るがせば、大地を突き抜ける地軸も、瞬時に砕けるばかり。

この大軍に恐れをなすこともなく、僅か千人にも満たない軍勢で、誰かを頼りにしたり、何かを期待する訳でもなく、城中で辛抱強く防御戦を戦い続ける楠木正成の心情は、まことに不敵というべき。

 

この千剣破城は東西方向の谷が深く切れ込んでいて、人が上ることは出来そうになく、 また南北方向は金剛山に続いており、しかもその峰たるや人を拒むかと思えるばかりなのだ。

こうなるともはや、道の旅人の脚力では未熟すぎ、千早口からは南河内グリーンロードを走ってせいぜい下赤阪城阯で切り上げて、金剛登山口までは宿題にして帰阪する。

南天苑本館は、もと堺大濱にあった「潮湯・家族湯」を昭和十年に、古来より温泉の湧く天見の地にそのままのかたちで移築し、高野山参詣のための温泉旅館にしたのが始まりです。

というのも、数多くの近代名建築を生んだ明治・大正時代を代表する建築家 辰野金吾氏が手がけ、現存する建築例としては国内でも数少ない和風建築を今に伝えているんよ。

 

旧高野街道が南北に走り、四方を金剛葛城山系の豊かな自然を借景にした三千坪に及ぶ日本庭園は、年中を通して咲く花々と野鳥のさえずりが山々にこだまし、今も昔もかわらぬ仙境の風情をたたえます。

なおこのトトロ街道の最終地点は、蟹井神社である。