百舌鳥八幡宮

 

堺市の北東部に位置する北区域は、南から北方向に西除川・光竜寺川・狭間川が流れ、最終的に区の北を流れている大和川に注ぎ込んでいる。

また区の南側では美濃川・百舌鳥川が西方向に流れ、百済川そして石津川へ合流しているのだ。 沿岸部の堺区と比べれば、標高がやや高く丘陵地であると言えなくもないが、区域は全般に平坦である。

西高野街道とは離れているけれど、百舌鳥八幡宮に立ち寄る。

神功皇后が三韓征伐の帰途、この地において幾万代まで天下泰平民万人を守ろうとの御誓願を立てたとし、八幡大神の宣託をうけて第29代欽明天皇(532年-571年)の時代、この地を万代(もず)と称したのがきっかけと伝わる。

天平元年(729年)、行基によって境内に神宮寺として万代寺が建立され、百舌鳥八幡宮の奥の院となった。

 

平安時代には僧坊48ヶ寺、社家360人、神領寺領八百町歩を擁する寺院となるが、保元3年(1158年)時点では石清水八幡宮の別宮となっていた。

戦国時代や慶長20年(1615年)の大坂夏の陣などで荒廃する。

しかし、江戸時代には、大坂城代が替わる度に、この神社に参拝していたという。

現在の社殿は、本殿が享保11年(1726年)、拝殿が文政13年(1830年)の建立で、昭和46年に改修された。 

名物の「ふとん太鼓」を担いで練り歩く月見祭は、百舌鳥(もず)八幡宮で行われ、14日の「宮入」と15日の「宮出」合わせて10万人以上の見物客でにぎわう。

ふとん太鼓は、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って約100年前に始まったとされ、毎年、地元9町の氏子らが大小2台ずつ、計18台を担ぐ。

実は道の旅人は、この八幡宮の配置に疑問を感じている。

例えば北から、反正天皇陵(堺区北三国ヶ丘町)、そして南西に仁徳天皇陵(堺区大仙町)が続き、履中天皇陵(西区石津ヶ丘)へとつながっている。

阪和線を越えた東側に、御廟山古墳(北区百舌鳥本町)があり、宮内庁により、「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天皇)として治定されているのだ。

それを祀るように八幡宮が鎮座しているというわけだ。

そしてその南東には、土師ニサンザイ古墳(北区百舌鳥西之町)があり、宮内庁により、「東百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第18代反正天皇の空墓)に治定されている。

宮内庁のこの見解が解らないのだが、八幡宮が、これら古墳群を司っていたのであろうか?

ところがこの八幡宮に、街道が寄り添わないことが不思議なのだ。 

他にも、いたすけ古墳などがあり、昭和30年(1955年)頃、私有地であったため土砂の採集と住宅造成のため破壊されることになったが、自治体の資金難により買い取りが難しく市民運動によって保存された。

その際、後円部から出土した衝角付冑(しょうかくつきかぶと)埴輪は、現在、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。

というのも、 先の太平洋戦争から敗戦後にかけて、堺市の空襲による戦災復興や、1950年のジェーン台風被害の復旧事業などで、百舌鳥古墳群内の古墳が、手っ取り早い土取場に当てられ、次ぎつぎと古墳が潰されていったのです。

1955年秋、住宅難解消の宅地開発のために、百舌鳥古墳群で陵墓以外の民有地の古墳としては、保存状態のよい、いたすけ古墳の濠に橋を架ける工事が始まりました。

 いたすけ古墳を失うことになれば、よく保存された前方後円墳は陵墓しか残らないという危機感がみんなを突き動かしました。

いたすけ古墳が破壊に直面していることを知った、20歳前半から20歳半ばまでの若い研究者たちは、いたすけ古墳を守ろう、という大まかな申し合わせをし、居合わせた五、六人だけで、運動は始まりました。

 

みんな軍国主義教育を受けた若者でしたが、自分の考えで正しいと思うことを貫くのに、だれにも遠慮することはないんだという、つぶされた古墳の弔い合戦のような気持で運動を行いました。           『市民が守った古墳 世界遺産への道』(視点・論点)より

万代寺については、行基開創を明らかにする資料はないが、南北朝時代には足利尊氏が万代寺を祈願所とした。

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と根来寺・雑賀衆による合戦によって建物や古記書類に至るまでことごとく燃えてしまう。

その後、寛永元年(1624年)頃に堯俊が再建し、当時の境内は645坪有り、本堂・庫裏・廊下・寮舎・表門・裏門があり、境内の外には観音堂もあった。

高林(たかばやし)家住宅は、御廟山古墳(ごびょうやまこふん)の南側にあります。
白漆喰(しっくい)の土塀に囲まれた中には、主屋(おもや)・土蔵・不動堂・稲荷社があり、建物と山林を含めた敷地全体が、江戸時代・近畿地方の大規模な庄屋屋敷の構えを良く残しています。
主屋は切妻造(きりづまづくり)の茅葺(かやぶき)屋根で、この屋根の形は「大和棟」(やまとむね)ともいわれてる。

 

大阪府と奈良県北部にかつては数多く見られた、特徴的な民家の姿で、内部は約半分を土間とし、大きな梁(はり)が架けられ雄大な空間を作っています。

昭和52~54年(1977~1979年)の保存修理工事により、建築当初の天正年間(1573~1592年)には屋根形式が入母屋造(いりもやづくり)でしたが、後の増改築により座敷や玄関などが整えられ、現在の姿は18世紀の終わり頃に完成したことがわかりました。 

西高野街道に戻り、梅北公園の近くに、ヨーロッパの古城を思わせるようなこの建物がある。

昭和6年、当院の医師であった、故是枝近有氏が、自ら設計した自邸兼診療所なのだ。

建築当初は、この付近には多くのため池があり、この洋館も、相賀池というため池に突き出た、半島状の場所に、湖畔に建つ城をイメージして設計されたものである。

外観から眺めると、石造にも見えるが、実は木造で、外壁は人造石を洗い出しにし、石造風に仕上げてるんよ。

施工は、患者であった宮大工の村田元蔵で、外観は4面とも同じデザインとし、頂上部の中央に塔屋を載せている。

3階のベランダを支えている、1階から立ち上がるコリント式の柱や、壁面の角を丸めたデザインも特徴的ってわけ。

戦国武将として名高い筒井順慶を祖先に持つ名家・筒井家の門前にあるのが百舌鳥のクスです。

大阪府指定の天然記念物で、幹周り101m、受講は13m、樹齢は推定800~1000年と言われています。

霊験あらたかなご神木として崇められたそうです、かつて、干ばつの時などは、この大楠に雨乞いの祈りなどを捧げたと言います。

 

「くす」は暖地に多く生育するクスノキ科の常緑樹で、独特の芳香を生じ、堺市内には約30本の大木が知られています。

全体に特異な芳香を持つことから、「臭し(くすし)」が「クス」の語源となった。

一方で、「薬(樟脳)の木」が語源とする説もある。

またそのことや防虫効果から、元来虫除け(魔除け:アジア圏では古来から虫(蟲)は寄生虫や病原菌などの病魔を媒介すると考えられていた)に使われた、くす玉(楠玉)の語源であるという説もある。

 

材や根を水蒸気蒸留し樟脳を得ることができ、そのため古くからクスノキ葉や煙は防虫剤、鎮痛剤として用いられ、作業の際にクスノキを携帯していたという記録もある。

また、防虫効果があり、巨材が得られるという長所から家具や飛鳥時代の仏像にも使われていた。

枝分かれが多く直線の材料が得難いという欠点はあるが、虫害や腐敗に強いため、古来から船の材料として重宝されていた。

古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している。

その様は、古事記の「仁徳記」に登場する、クスノキ製の快速船「枯野」の逸話からもうかがうことができる。

 西日本に楠が多いのは、楠が寺社や一般の家庭の庭でも所構わず勝手に生えて来るからで、 原因は多分、晩秋に楠の紫色の実を食べた小鳥が、種を播くからだが、道の旅人にとっては疑問の芽を残したままである。