菅原神社(石田梅岩)

 

 

堺区は、中世以来の環濠都市であった地域を含み、市役所、裁判所などの官庁やシティホテル、商店などが集積している、堺市の中心部である。

北を大和川が流れ、西は大阪湾に面し、岸部は主に埋立地が広がり、堺泉北臨海工業地帯が広がる。

中西部には中世の自治都市の流れを汲む堺市街地が、環濠の名残りである内川・土居川に囲まれて広がる。

内陸部は上町台地に続くごくわずかな台地が南北方向に存在するがおおむね平坦である。

そして、南北を鉄道と高速道路・国道が貫き、大阪と和歌山・高野山に通じている道でもあるのだ。

この西高野街道は、大坂や堺の繁栄を基盤とし、さらに中世以降、庶民の間に寺社詣が広がることに起因して発展してきた。

つまり、東高野街道を歩まない京都からの参詣者は、淀川を下り、天神橋・天満橋間の南岸、大阪八軒屋浜船着場で上陸し、四天王寺・住吉大社を参詣したのち高野山へ旅立った。

また、西国からの参詣者は、、堺の港に上陸し、高野山をめざし、江戸後期には東高野街道の往来者を上回ったという。            【横山豊『西高野街道に遊ぶ』】

室町時代の応永23年(1416年)の開口(あぐち)神社文書に「おう小路」の名前がありこの頃にはすでに通りの名前として使われていましたが、名前の由来は明らかでありません。

『堺鑑(さかいかがみ)』(1684年)によると、晴明が泉州信太村(堺・和泉市)からこの辻を通ったときに、占い書を埋めて辻占いを行ったと伝えているが、『全堺群志』(1757年)は、「皆、拠無の説なり」と、一蹴しているのも面白い。

開口神社の社伝には、神功皇后三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。

摂津国住吉神社(住吉大社)と古くから関係が深く、天平3年(731年)の記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている。

天平16年(744年)には行基によって境内に薬師如来を本尊とする密乗山念仏寺が建立されるが、やがて神仏習合化が進み、当社の神宮寺となった。

平安時代空海の影響で念仏寺は真言宗の寺院となるが、空也ともゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈し、念仏寺は「大寺」と通称されるようになり定着するに至った。

当社と念仏寺の両者とも津守氏の支配下にあったが、堺が商業港として発展し、商人勢力が台頭してくると、商人たちの自治に支えられるようになった。

南北朝内乱時代の康応元年(1389)に豪商野遠屋周阿弥が田地を寄付して以来、田地の寄進が相次いだ。

少女(おとめ)たち開口(あぐち)の神の樟の 若枝(わかえ)さすごと伸びて行けかし

 

少女たちへの、このエールは、氏神であった開口神社へ献詠されたものであろうか?

女子教育の普及に努めた晶子にとって、当時から「小学校から大学にいた るまで男女共学をもって原則とすること」を主張していた。

つまり、少女を生きると言うことは、やがて女性になると言うことなのだが、そこには希望と夢があり、若枝のごとき輝きをみているのである。

以前から私の主張して居る女子の 高等敎育は、すべての女子に大學敎育を授けようと云ふや うな淺薄な意見でもありません。私の意見を云へば、家庭・學校・社會の何れに於ても、男女を平等に敎育することを 敎育の根本精神とし、性別に由って偏頗な敎育を施さず、 學校敎育に就て云へば、小學より大學に至るまで男女共學 を以て原則とし、高等女學校と云ひ女子大學と云ふが如き 特別の學制を廃して、男女共學の中學、高等學校、大學を 設け、その天分の許す者には、男も女も平等に大學敎育を 施すやうにして欲しい。  (与謝野晶子『女子と高等敎育』)

平安時代、摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着いた。

これは、菅原道真が配流された大宰府の地で自ら作り、海へ放された七天神のうちの一つとされる。この御神体はしばらく付近の住人によって祀られていたが、当地の氏神だった、天台宗威徳山天神常楽寺の僧徒が、御神体を同寺に遷し、長徳3年(997年)、天神社を創建した。

戦国時代の天文元年(1532年)12月14日夜半、北の庄から出た火は、折からの季節風にあおられて、天神社を含む北の庄のほぼ全域にあたる4000軒を焼きつくした。

安土桃山時代の天正2年(1574年)、当時の配置図では、本社・拝殿・大梵天堂・金殿・観音堂・薬師堂・護摩堂などが描かれ、早々に再建、規模が拡大されたことがうかがえる。

慶長19年(1614年)、大阪冬の陣の直前、豊臣方の武将、大野道犬は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、天神社は再び焼失。

江戸時代前期の承応元年(1652年)、菅神750年祭を機に再建の機運が高まり、翌年には新殿が完成、御神体を遷した。

延宝5年(1677年)堺の鉄砲鍛冶・榎並屋勘左衛門の寄進によって、仁王門が造営されるなど再興・修復されました。建物の特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫刻を刻んだ絵様肘木(えようひじき)という肘の形をした組物を用い建築技法を簡略化していることです。門の左右には剣と矢を帯びた高さ1.5mの檜造りの坐像・随身像が神社を護っています。 

『元禄二年(1689年)堺大絵図』には、「北の天神、南の開口」と呼ばれていました。

楼門に、キリシタン大名:小西行長(1558-1600)が、朝鮮半島から持ち帰ったとされる「傘松の幹」が保存されている。

というのも、その屋敷跡がこの近くの宿屋町(しゅくやちょう)にあるとは言っても、堺の豪商である父親:隆佐(りゅうさ)の屋敷で、薬種問屋を生業にしていた。

この父親の履歴がすごいのは、主に京都に在住し、当地のキリスト教の布教の中心人物となっていたことだ。

天文20年(1551年)、豪商日比屋了珪(ディオゴ了珪)の仲介で、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの京都滞在中の世話役となったのが初めで、永禄8年(1565年)、ルイス・フロイスを師事して、ガスパル・ヴィレラ神父によって洗礼を受け、キリシタンとなった。

霊名はジョウチン。フロイスは彼の名を「ジョーチン・リューサ」と、『日本西教史』の著者ジャン・クラッセは「リューイス」と書いている。

また妻のマグダレナ(マグダレーナ)と長男・如清(ベント)はこれより前の永禄2年に、ヴィレラが最初に豊後から堺に来た際に洗礼を受けていた。

ところが、行長が洗礼を受けたのは、天正12年(1584年)で、高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる。

小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。

また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している。

また高山右近の旧臣(キリシタン)たちは、多くが家臣に取り立てられていた。

 

また九州平定の折、所領とした天草には、人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。

志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。

学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオ(小神学校)と合併し、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。

石田梅岩(1685-1744)は、丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、百姓の次男として生まれる。 11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰り、23歳の時に再び奉公に出て働く。1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始めた。

45歳の時、受講に際し紹介が一切不要で、かつ性別も問わない無料の講座を自宅の一室で開き、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説いた。

すなわち「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。

梅岩自身は自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵(とあん:1718-1786)などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。 

つまり、神儒佛三教の心を身につけて、心學の基を開かれたのだが、その思想の根底にあったのは、宋(そう)学の流れを汲む天命論である。

「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。

 寛政の頃、近世文化発祥の地である堺に来た、中沢道二(どうに:1725-1803)翁が心學道話を試みた時には、三千の大衆が集まった。

文化14年(1817)には、心學講舎庸行舎が此地の人々によって建てられたとあり、ブームは続いていたことになる。

因みに、この道二の師が、手島堵庵であり、梅岩の孫弟子にあたる。

CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。

大小路から、竹内街道とともに歩いてきた道も、榎元町で分岐し、西高野街道は耳原橋に出る。

ここは南海高野線の高架橋になっており、中央環状線310号線を渡り、仁徳天皇陵の東側の道に沿って南に向かう。

ところでこの耳原橋は、旧熊野街道もかつては通っていたと推測でき、その場合は、天皇陵の西側の道を南に向かっていたように思う。

話を西高野街道に戻すと、ここから水道局を目指すと旧道への入り口が見えてくる。

世界遺産委は49基すべての登録を決定。

古墳群が古代日本の社会や政治の構造や高度に洗練された葬送体系を証明するものであると評価した。

各国からも「住民運動で開発圧力から保護された古墳が含まれるなど、地域社会に根ざした資産」との意見が上がった。

日本書紀によると、仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町-中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。

この時、鹿が野の中から走り出て、工事に従事している人々の中に走り行って、にわかに倒れました。

人々が怪しんで調べてみると、その耳の中から百舌鳥が飛び去り、鹿の耳の中が喰いさかれていましたので、ここを百舌鳥耳原と名づけたと記されています。

仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。

吉備の中つ国の川嶋河(高梁川)の川股’井尻野付近)に、竜が居て人を苦しめ、道行く人がそこに触れると、毒気にあてられて沢山死んだ。

これが単なる川の氾濫なのか、それとも反乱を象徴した吉備王国のことなのかよくわからないが、笠臣の先祖の県守が鎮めたという。

 

これより天皇は、早く起き遅く寝て、税を軽くし、徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われた。死者を弔い疫者を問い、身寄りのない者に恵まれた。それで政令はよく行われ、天下は平らかになり、二十余年無事であった。

八十七年春一月十六日、天皇は崩御された。     【『日本書紀』仁徳天皇】